始まりの禁書
「『世界』は然るべき姿に。『ひずみ』は然るべき形に。世の定めに従い、万物の居所は始まりの場所へ」
ぱぁん、と空気が弾けるような音を立てて、アルシャの魔法を受けた悪戯精霊は黒い紙吹雪のように散っていった。
夕刻が過ぎ、シオンが帰宅してもアルシャが魔女として行う仕事は多くある。
禁書の処理は、その最たるものだ。
専用部屋から持ち出してきた最後の禁書の処理を終えたところで、アルシャはふぅと小さな深呼吸をした。
杖をテーブルの上に置き、両腕を上へと上げて背筋をくんと伸ばす。
「……今日はこれくらいかのぅ」
「毎日飽きないねぇ」
そんな彼女を傍らで見つめる人影がひとつ。
太陽の書を眺めていたルナは、小首を傾げてアルシャに尋ねた。
「そのペースじゃ禁書の量は減らないのに。少しは減らす努力をしようとか、思わない?」
「お前が悪戯に禁書を増やしているんだろう」
渋い顔をして、という表現がぴったりな、そんなニュアンスを込めてソルがルナを嗜めた。
「お前こそ、意味のない悪戯はやめろ。こんなことばかり続けていて一体何になる」
ルナの悪戯は、禁書を生み出す。
書の内容を勝手に書き換える彼の所業は、幻灯書庫に陰を作り出しているのだ。
書庫内の禁書の数が此処まで増えたのは、全てルナが悪戯に書の内容に手を加えたからに他ならない。
彼が悪戯さえやめれば、禁書が生まれることもなくなることだろう。
説得は無駄と分かっていつつも、その辺りの事情を知っているソルは彼を嗜めることをやめない。
結果は御覧の通り、馬耳東風のようだが。
「俺は書庫のために禁書作りをしてるんだよ?」
ルナはぽいっと太陽の書をテーブルの上に放り投げ、座っていた椅子から腰を上げた。
「ねえ、母様」
薄い微笑みを浮かべて、アルシャの傍へと歩み寄る。
「処理が間に合わなくなった禁書は焚書にすべきって、考えたことはある?」
「焚書にはせんよ」
さして間も置かずに、アルシャは答えた。
「禁書になっても、世界書は世界書じゃ。『世界』が失われぬように保管するのが幻灯書庫の役割じゃからな。簡単に焚書にしてはいかん」
「その考え方が禁書を増やしてるって、分からないのかなぁ」
ルナは肩を竦めて、人差し指を立てた右手をすっと顔の横に挙げた。
アルシャが処理をした本たちがテーブルの上から一斉に浮かび上がり、八方へと散っていく。
本来の在り処であろう本棚に次々と収まっていくそれらを見届けて、彼は肩を竦めた。
「始まりの禁書は、魔女の沈黙の時をお望みだ。母様が禁書を焚書にする覚悟を決めない限り、俺は禁書を生み出し続けなければならない」
「……始まりの禁書だと?」
「俺が教えてあげられるのはそれだけ。あまり喋ると俺の身が危なくなるからね」
し、と顔の横に立てていた人差し指を口元に持ってきて、ルナは笑った。
「後継者なんてとんでもない。これ以上、幻灯書庫に魔女を増やしちゃいけないのさ」
「……お前は、一体何を考えてるんだ」
心底理解できない、と言いたげにソルは問うた。
そんな彼にルナはふふっと意味深な微笑を向けて、
「俺は真面目に書庫の未来についてを考えてるんだよ」
すっとその場から姿を消した。
ソルは溜め息をついた。
「始まりの禁書……確か、幻灯書庫ができた時から存在していた禁書でしたね」
此処の禁書は、ほぼ全てルナが生み出したものだ。
唯一の例外が、今し方ソルが口にした言葉にもある『始まりの禁書』と呼ばれるものである。
禁書と分かっていながら処理を為されずに今日まで放置されてきた、本。
何故処理をしなかったのか、ソルはかつてアルシャに尋ねたことがある。
明確な回答は、なかった。
訊かれたくないことなのか、アルシャはその禁書について深く触れようとはしなかった。
専用の部屋の片隅に追いやられたまま、3千年。
放置された分だけ、中に巣食う悪戯精霊は大きく育つ。もはやアルシャの手にも負えないほどに、それは成長を遂げてしまっているだろう。
「ルナの言葉を鵜呑みにするわけではありませんが……あれこそ、焚書にすべきだと私は思うのですが」
「焚書にはせんよ」
ルナにも言った言葉を繰り返し、アルシャは隣の部屋へと行った。
いつもの茶器一式を抱えて戻ってくると、カップに紅茶を注ぎ始める。
「本当は、御主やルナの言う通りにせねばいかんのかもしれんがの……説得する時間を、儂におくれ。何とか処理できるように、努めるつもりじゃ」
「シオンのこともあります。彼女に委ねることにならないように、お願いします」
「うむ……」
紅茶を淹れたカップを片手に自分の席に戻っていくアルシャの顔に、普段の笑顔はない。
彼女は引き締まった面持ちで紅茶を啜りながら、目の前に並ぶ本棚の上部に視線を向けた。
ランプの光量が他の部屋と比較して少なく見えるのは、部屋中に満ちた妖気にも似た空気がそうさせているのだろうか。
滅多に人が足を踏み入れることのないその部屋は、本棚やそこに納められている本に薄く埃が積もり、如何にも閉鎖された空間然とした雰囲気を醸している。
部屋の最奥に備えられた本棚から、1冊の本を引っ張り出してルナは口を開く。
「母様は、今でも諦めていないみたいだ」
本の表紙には、掠れた文字で『幻灯書庫目録』と記されている。
彼は厚い鞣革で装丁を施されたその表紙を、静かに開いた。
光の下に晒された黄ばんだ紙面から、淡い紫に似た色のオーラが染み出てくる。
それはルナのすぐ目の前に集まり、人の形を取った。
白髪混じりの口髭を生やした壮年の男の姿になったそれは、ルナから注がれる視線をまっすぐに見つめ返した。
「──あれは、滅多なことで己の信念を曲げはせん」
パンタロン風の動きやすそうな漆黒のローブに包まれた身体は、そこそこ引き締められている。大きめのローブを引き摺るように纏っているアルシャとは異なった、きっちりとした威厳のある佇まいだ。印象としてはソルやルナの服装に近いものを受けるだろうか。
腰に黒く艶のある素材で作られた杖を差している様は、魔術師のようだ。
ルナは肩を竦めて、笑った。
「それくらいは知ってるよ、アドレア様。俺の母様のことだもの」
「後継者──難儀なものを生み出してくれたものだ」
アドレアは気難しげに眉間を寄せて、溜め息をついた。
「何としても、芽は摘み取らねばならん。書庫に変革を齎す全ての可能性は」
「そのために俺を代理人にしたんでしょ?」
ルナは本の表紙をぱんと閉じて、元あった位置へとそれを戻した。
「後継者は作らせない。そのために、わざわざこうして母様の傍を離れたんだから。もうちょいくらいは俺のこと信用してくれたって、良くない?」
「お前も、あれの作品であることに変わりはない。他者の使い魔を使役することほど、当てにならんものはない」
「……ひっどいなぁ」
ルナは後頭部で腕を組み、唇を尖らせてぴゅうと音を鳴らした。
道化のように、おどけて。
「ちゃんと言われた通りにしてるよ? 俺」
「それは把握している」
アドレアは腕を組み、1歩後退する。
一瞬にして紫のオーラの集合体に変わった彼は、例の本の背表紙に吸い込まれるように移動して、ルナの目の前から消えていった。
「幻灯書庫は、眠ったままの存在でなければならん」
一言だけ発して、それきり、彼は何も言ってこなかった。
ルナは再度肩を竦めて、組んでいた腕を下ろした。
「ほんっと人間って、身内で争いたがる俗な生き物だね」
「こんな場所にいたのか」
唐突に沸いた気配に、ルナはそちらを振り向く。
扉の前で腕を組んだソルと視線がぶつかり、彼はくすりと笑った。
「俺の仕事場だからね」
「禁書を増やすことの何処が仕事だ」
ソルは手近な本棚から、無作為に選んだ本を何冊も取り出しては手の上に重ねていく。
「アルシャ様が仰るから捨て置いているがな。本来ならば今すぐにでも粛清しているところだ」
「あんたが? 俺を?」
へぇ、とわざとらしく鼻を鳴らして、ルナはソルに歩み寄った。
まっすぐに本棚を見つめてそれ以外には目も向けようとしないソルの顔を覗き込み、言う。
「逆に粛清されるだけなんじゃないの? 俺の方が優れているのに」
形を守るための能力を与えられた魔道書と、形を変えるための能力を与えられた魔道書。
言わば、守りに特化した能力と攻めに特化した能力を比較しているようなものだ。
「俺が本気になったら此処を潰すことなんて造作もないんだよ。あんたたちは、俺に生かされてるの。それを忘れないでほしいな」
ソルの肩に親しげに手を置いて、ルナは幽霊のように姿を薄れさせながら、消えた。
ソルは渋い顔をしてルナがいた場所に目を向ける。が、すぐに何事もなかったかのように本棚の物色を再開したのだった。