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心を奏でる少女[前編]

 幻灯書庫の朝は、主の目覚めと共に始まる。

 天幕付きの小さな寝台と飾り棚代わりの小卓が置かれただけの小さな部屋が、彼女の世界だった。

 ゆっくりと時間をかけてまどろんだ身体を伸ばし、彼女は身を起こす。

 小卓に置かれたアロマポットから仄かに漂ってくる花の香りが、残った睡魔を払い、彼女の姿を叡智宿る大人の少女へと変えていく。

 唯一この時にしか見られない外見相応の少女としての顔は、彼女以外に存在を知るものは今のところはいなかった。

 天幕を寛げて寝台から降りた彼女は、纏う衣服を求めて下着も身に着けぬ格好のまま部屋の外へと出ていく。

 扉を開き、すぐ目の前に現れた別の扉から中へと足を踏み入れる。

 その部屋は、姿見やクローゼット等の着替えに必要な家具が集められた場所だった。

 彼女は、あまり多くの服を持っていない。

 必要最低限の数の下着と、似たようなデザインのローブ、後は服装に関係なく変わらず身に着けている宝飾品、それだけだ。

 彼女はまずクローゼットを開いて、下着を選ぶ。

 今日の彼女の目に適ったのは、小さな花の刺繍が施された白いレースの下着だった。

 それに足を通してから、次に選んだのはローブ。

 裾の辺りに星と三日月の飾り刺繍が施された藍色のローブを大して時間もかけずに選び取ると、さっと身に纏っていく。

 胸元と腰を結い紐でしっかりと留めて、首に金鎖のゴルゲットを掛け、大粒のアレキサンドライトを抱いた護符タリスマンを下げ、群青色の宝石が雫のように幾つも散りばめられた飾りベルトを締める。滅多に使用しないが、彼女が愛用する書を収めるためのホルダーをベルトに取り付けることも忘れない。

 髪に愛用の髪飾りを着けてから、耳にカフ付きのピアスを着け、左右の人差し指に異なる色の宝石が施された指輪を填める。

 最後に姿見に映した全身を確認しながら、髪を整えて、それで彼女の身支度は終了だ。

 メイクはしない。そういう類の品が此処にないことが最大の理由だが、そもそも彼女は己を飾ることにはてんで無頓着な上に、実年齢はともかく外見は10歳そこらの少女であるため、化粧など必要ないだろうと考えているためである。

 己を飾ることに無頓着な割に全身のあちこちに宝飾品アクセサリーを身に着けているのは、彼女が魔女としての能力を駆使する際に必要不可欠な品だからだ。力の媒体に最適で所持する際に身軽に済ませられる品が宝石だった、単にそれだけの話なのである。もしも媒体に最適な品が花だとしたら、今頃彼女の全身は花畑になっていたことだろう。

 着替えが終わると、彼女は一旦自室に戻り、小卓に置いていた杖を手に取った。

 それで、彼女の此処での作業は終わりである。部屋を出て扉を閉め、施錠し、いつもの仕事場へと足を運ぶ。

 夜の屋敷のように暗く、しかし丁寧に掃除され整えられた通路をまっすぐに歩いていく。

 果てに現れた扉から外に出ると、そこには普段と変わらぬ多くの書に囲まれた空間があった。

「おはようございます」

 定位置に杖を置きに行くと、ソルがいつも通りの挨拶を持って彼女を出迎えた。

 ソルの1日の仕事は、こうして此処で主の参上を待つことから始まる。

「今日は林檎をベースに少々シナモンを入れました」

 彼が口にしているのは、紅茶の話だ。

 主がいつも座る席に、主が現れる頃合いを見計らって朝の1杯を淹れる。いつの頃からか、それがソルの日課となっていた。

 アルシャは、基本的に食事らしい食事を摂らない。

 紅茶だけで全てを賄っているのではないかと思えてしまうほどに、とにかく彼女は紅茶以外のものを口にする場面を見せなかった。それでいて空腹を訴えることがないのだから驚きだ。

 ソルが淹れた1杯は、彼女がいつも座る席に角砂糖を2個沿えて置かれている。

 ほこほこと湯気を立てるそれの前に座り、アルシャは礼を述べてから角砂糖に指を伸ばした。

「そういえば、昨日頼んでいたものはどうなっておるかの」

 小さな口にぱくんと角砂糖を丸ごと含んで、しゃりしゃりと音を立てて溶かしながら、彼女は問いかける。

「準備は全て整っております」

「そうか」

 紅茶を口に含み、香りの付いた息を鼻からゆっくりと吐き出して美味いと呟きながら、頷く。

「では、茶が済んだらいつも通り掃除から始めるとするかの」


 アルシャは、魔女である。

 比喩でも何でもない。服装が示す通り、彼女は不思議な力を幾つも操る特別な存在なのだ。

 この書庫も、その力を用いて建てられた。此処が世界の狭間に存在しているのも、時間に関する概念が曖昧なのも、そのためだ。

 ひょっとしたら彼女が紅茶以外口にしないのも、その辺りが理由なのかもしれない。

 閑話休題。

 そんな偉大な存在であるが、彼女は本当に必要な時以外は力を用いようとはしなかった。

 例えば、今彼女がはたきを片手に行っている書庫の掃除もそのひとつである。

 彼女が魔法で幾つもの掃除道具を一気に操れば、一瞬で作業は終わるだろう。

 そうすれば事は容易いことを、司書ソルは無論のこと、彼女当人もよく理解している。

 だが、曰く。

 自分の体を使ってできることは極力そうすべきだというのが、彼女の考えだった。

 時間を有効的に使うのは言わずもがな大事だ。しかし、それを理由に何でもかんでも魔法に頼ってしまったら、危機に陥った時に何もできない体になってしまう。本当に魔法を必要とする場面で力が残っていなかったらどうするのか。──その危惧が、彼女にはあるのだ。

 こうして小道具を片手に、少しずつ場所を移動しながら行っていく本棚の埃落としも、この調子でいくと後何年かければ終わるのか。皆目検討もつかない。そもそもそんなに時間がかかるのでは、1周終わった時点で最初の場所には既に新しい埃が積もってしまっているに違いない。

 しかし、一見無駄にも思えるこの時間が、楽しい。

 実際に棚や書を目にすることで、装丁の痛みや棚の歪みを発見することもあるかもしれない。それはそれで無駄ではないのではなかろうか。

「以前此処を掃除したのは、何年前じゃったかのう……」

 そのようなことを呟きながら、1段上がってはたきを振り、また1段上がってはたきを振り、を繰り返す。

 窓もないのに、一体何処からこれだけの埃が沸いてくるのか。そんなささやかな疑問に思考を巡らせつつ。

 ぱさぱさと埃を落とされ、綺麗になった箇所からふわりと漂ってくる古びた書の香りが心地良い。

 彼女は、この匂いが好きだった。

 熟成された知識の芳香、とでも言うのだろうか。掃除を欠かしていたら、この空間がこの香りで満たされることもなかっただろう。

「アルシャ様──」

 梯子の頂まで登ったところで、足元の方からソルの声がする。

 何の気なしにそちらをゆるりと振り返ると、その傍らに、見覚えのある顔が佇んでいるのに気が付いた。

「お……おはようございますっ」

 ぺこっ、と勢い良く上半身を折り畳む彼女に、アルシャはふっと笑って一旦背を向けた。

 梯子を降りていき、はたきを手近なところにあった椅子の上に置いて、

「答は出たのかね」

 真正面から相手の顔をじっと見上げると、シオンはこくりと頷いた。

「はい……言われた通りに、よく考えてきました」

 今日の彼女は、茶色のレース生地に淡いピンクの薔薇が描かれたトップスと、薄いデニム地のショートパンツを身に着けていた。先日よりも若干快活そうなイメージを受けるが、やはり清楚で上品な元々の雰囲気は変わらない。

「私の夢は……捨てられません。それがなくなってしまったら、私が私でなくなってしまうような気がしたんです。でも……此処で働くことも、どうしても諦めきれません。私が本当に心の底から求めているものが此処にあるって、それを諦めるなんてできないって、思ったんです!」

 力説してから、シオンはアルシャとの距離を1歩分詰めた。

「虫がいい話だって、自分でも分かっています……だけど、どうかお願いです! 私を此処で使って下さい!」

「……儂は、御主に夢を諦めろとも此処に来るなとも言ってはおらんよ。自分でよく考えて自分の答を見つけろとは言ったがの」

 アルシャはふっふっと肩を揺らして、唇を半月型に形作った。

「御主の『答』は聞かせてもらった。今度は儂が御主に『答』を聞かせる番じゃ」

 シオンにはたきを置いていない席を勧め、自らも自分の椅子に座り、正面に太陽の書を置いて、ゆっくりと口を開く。

「これから……御主にひとつのテストを出す。それの結果如何で、御主が此処に身を置くための『素質』があるか否かを見極めさせてもらうからの」

「テスト……ですか?」

 きっとシオンはこれを採用試験の一種か何かとして捉えているだろう。

 ある意味ではその通りだし、ある意味では違う。その辺りを指摘する気はアルシャにはなかった。

 自分は、嘘は何ひとつ言っていない。『素質がない者は此処にいられない』のは、事実なのだから。

「昨日御主が此処に来る際に持ってきた、御主の小説……あれをちょいと使わせてもらった。御主が描いた物語ならば、幾分かはやりやすかろうと思っての。──ソル」

「……いつでも、御随意に」

 ソルの返答を合図に、アルシャは頷いて、太陽の書を開いた。

 細かな手書きの文字がびっしりと書き連ねられているページを目の前に出し、そこに右手を翳して、言う。

「テストの監督はソルに一任しておる。詳細は奴に問えば良い。──儂は此処で、結果が出るのを楽しみに待っておるぞ」

 翳した手で書面の字を攫うような動きを見せた後、一旦口を閉じ、静かな声で、紡ぎ始めた。

「我、太陽の書に命ず。此処に紡がれし露世を描き、真を詠う言の葉と成せ」

 ──彼女の言葉を受けた太陽の書が、紙面の文字を強い黄金に光り輝かせた。

 世界そのものを塗り潰すかのように、黄金の光は、その場にいるアルシャを、シオンを、周囲にある書庫の風景を中心から飲み込み、広がっていく。

 そして──

 光が収まり、元の穏やかな雰囲気に戻った書庫の場景の中から、シオンの姿は消えていた。


 ……音楽が、聞こえる。

 鈴を鳴らすような小さな旋律に意識を揺らされて、シオンは、閉ざしていた双眸をゆっくりと開いた。

 そこは、見覚えのない広場だった。

 あちこちに欠けが見受けられる石畳の道と、その左右に広がる雑草だらけの草原。道が伸びる果てに古城のようなバロック調の建物が建っており、その草原が広めの庭であることを彼女は何となく把握する。

 元々は綺麗に手入れされていた庭だったのだろう。何かの彫像が置かれていたらしい台座のような石の足場がちらほらと見られるが、今はその頃の面影はなく、廃墟同然になっていた。雑草に埋もれるようにして顔を出している白い岩の塊のようなものは、倒壊した彫像の成れの果てか。元々は何を象った像だったのかは……分からない。

 空は、黒い。夜だから暗いとかではなく、ただ真っ黒なのだ。何処までも突き抜けた広大さは全く感じられず、星も月もないその黒の海は、まるで蓋をされた巨大な箱の中に閉じ込められているかのような錯覚を与えてくる。

 ……あの図書館じゃ、ない……?

 訝しがって、近くにあった台座のひとつに近寄る。

 と、背後から伸びてきた誰かの手が、彼女の肩を掴んでそれを引き止めた。

「……触れてはならない」

 振り返ると、燕尾服に白金を基調とした宝飾品アクセサリーで魔道士風の装飾を施しているかのような、そんな黒い服を着た金の髪の男と目が合った。

「この場所で、お前に許されている行動は見ることと考えること、そして紡ぐことの3つだけだ。それ以外の行為は、例え足跡ひとつ残すことすら許されないことを、覚えておけ」

 鋭く切れ長の黄金の瞳は、まるで自ら光を放つ猫目石のようだ。

 すらりとした細顎の顔立ちは、角度によっては女性のもののようにも見える。声を聞いていなければ、女性と勘違いする者は少なからずいただろう。そんな端麗な容姿を持ったその男は、シオンを引き止めていた手を離すと、許可なく身に触れたことを小さく謝罪してきた。

「改めて、名乗ろう。私はコデックス・オブ・ソル。幻灯書庫の主アルシャ・リィ様が所有する幻灯黙示録アポカリプスが1冊、『太陽の書』の名を冠した魔道書だ」

 加えて幻灯書庫の司書の任を与えられている者だ、と名乗り、改めて一礼をしてきた。

 アルシャが『ソル』と呼んでいた、姿の見えぬ男──そういえば彼女がその名を呼ぶ際には、常に、傍らに太陽を抱く男神を表紙に描いた厚い書物の存在があった。

 あの書こそが、此処にいる男の正体。ソルと呼ばれる存在だったのである。

 さして驚いた風もなく自分のことを見上げているシオンに、ソルは小首を傾げて尋ねた。

「……驚かないのだな」

 ひょっとして最初から自分が魔法によって創られた存在であることを見抜いていたのか、と問うと、シオンは最初は何処にいたのかも分からなかったと言って、首を振った。

 それから彼女は、

「魔法が本当にあったらいいなって、ずっと思ってたので……驚きもしましたけど、それ以上に、何だか嬉しいです」

 ぱっ、と花開いたように彼女が笑うのを見て、ソルはそうかと頷いて、微笑した。

 数多ある世界の中には、魔法など存在しない世界も数多くある。そういう世界の者には、自分らについてを幾ら説明したところで理解を得ることは難しいもの。シオンもそういう世界に住む人間であることに違いはないのだが、彼女は夢を描く仕事に憧れを抱いているからか、物事に対する許容性はかなり高い方であるようだ。

 これならば、これからのことを説明することも、そう難しい話ではないだろう。

 ソルは懐から何かを取り出して、それをシオンの右手に握らせた。

「今回のテストでは、それを使う。結果次第では、お前にそのまま与えるお前専用の『道具』になるものだ。大事に持っているように」

「は、はいっ」

 手渡されたものを、シオンはまじまじと見つめた。

 それは一見すると、羽根ペンのような品だった。ペン先が虹色に煌めくさざれ石になっていたり持ち手部分に細かく文字が彫刻されていたりと、普通の羽根ペンと比較すると随分と儀式的な品のようにも見て取れる。字が書けそうにない作りをしていることからしても、これは文字を書くための道具でないことは明らかだった。

「早速だが……この景色、お前に見覚えはあるか?」

 落としたりしないようにと羽根ペンをしっかりと握って胸元に持っていくと、ソルはそんな彼女に周囲を見るようにと促してきた。

「見覚えがある、は語弊があるか……お前の記憶の中に、この景色は存在しているか? まずはそれを思い出せ。そうしなければ何も始まらない」

 この空に。この庭に。この建物に。この像に。

 何処かで、鐘が鳴った。大きな城や教会に吊り下げられているような、巨大な鐘の音だ。

 重厚な音色に、腹の中がびりりと震える。

 鐘は、時報だったのだろうか。等間隔で何度か鳴り響いた後、静かになった。

 これは──

「……ひょっとして……」

 シオンは背後の建物に振り返り、それから何かを探すように遠くの景色を見回して、言う。

「……私の、小説の……世界?」

「正解だ」

 ソルは頷いて、シオンの肩に手を回した。

 そのまま彼女を連れて、建物とは反対側の方向──多くの彫像が横倒しになっている中で、唯一起立した形が半分ほど残っている像の方へと移動する。

 石畳の道から見えない位置に彼女の身を置き、自らも同様に像の陰に隠れるように肩をぴたりと像に付けて、言葉を続けた。

「此処は、お前が持ち込んだ小説の中の一場面を私の能力で実体化させたものだ。自ら書いたものならば、此処が何処で、いつなのか、説明せずとも分かるだろう」

 御主が描いた物語ならば、幾分かはやりやすかろうと思っての。

 アルシャの言葉をふと思い出す。

 あれは、このことを言っていたのだ。

「今から目の前で起きる出来事は、お前が紡いだ通りの物語の形をなぞり、再現される。……だが、その中に、敢えて真の物語とは異なる形で具現化された箇所が紛れ込んでいる」

 言いながら、ソルはシオンが持つ羽根ペンを指差した。

「真の物語とは異なる箇所──それを見出し、それを用いて本来の形に正せ」

「本来の形に……正す?」

「『修正』するんだ。誤字を訂正する、と表現した方が理解しやすいだろうか? ……それがアルシャ様がお前に与えた試練であり、書庫に関わる者に要求される必要最低限の技能だ。これができぬようなら、お前に書庫に滞在するための『素質』はないと見なされる」

 書を愛する客人として迎えこそするが、それ以上の関係を持つことは許されない。

 例え扱いが単なる雑用係であったとしても、書庫に携わる者の末席に加わりたいのであれば、相応の資格があるということを示さなければならないということだ。

 ソルは不敵とも取れる笑みを口元に刻んで、シオンの瞳の中心をまっすぐに見据えた。

「テストに私情は挟まない主義だが……私個人としては、アルシャ様の注目を集める人間が如何ほどの『素質』を持った存在なのか、実に興味がある。

 期待しているぞ。外界からの初めての客人よ」

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