幻灯書庫の魔女
その円形の空間は、所狭しと並べられた本棚の壁によって形成されていた。
収められているのは、新旧問わず主人の眼鏡に叶って蒐集された数多の書物。革張りの分厚い表紙を持つ古めかしい本から、子供が好んで手に取る小さな絵本まで。
全てが書物特有の芳香を紙面の中に閉じ込めて、選ばれ手に取られる日を心待ちにしている。
部屋の中央には、木製の丸テーブルがひとつと椅子が3脚。
羊皮紙や、羽根ペンなど。一般的な筆記具が定位置に置かれ、火を点されたランタンや小さな観葉植物の鉢などでスペースはそれなりに使用されている。
更に、金貨やら色水晶製のダイスやら、筆記とは無関係な小物がまばらに散らばっているのは、単純に主が片付けるのをさぼっているからだろう。
その部屋の主は、本棚のひとつに立て掛けられた梯子の頂に腰掛けて、本を読んでいた。
金の巻き毛が姫のように可愛らしい。齢は、控え目に見て10を過ぎた辺りだろうか。成熟の兆しが宿りつつある身体を金糸の刺繍が施された黒檀色のローブで包み、左のこめかみの辺りに大きな三日月の意匠を備えた髪飾りを着けた──そんな、魔女のような出で立ちをしている小柄な少女である。
彼女が本のページをひとつ捲る度に、首や腰に下げられた宝飾の石たちがぶつかって、しゃらりと音を奏でた。
「ソル」
と。本から目を離さぬまま、魔女は小鳥のさえずりに似た声を発した。
「此処の一文、間違ってはおらぬか?」
姿や声からは全く想像もつかないような、まるで老婆のような語り口調である。
「確認をしてから記載しておりますよ。アルシャ様」
そんな彼女の名を呼びながら問いかけに応じたのは、何処からか聞こえてきた涼しげな男の声だった。
「私の語学力の程度はアルシャ様が最もよく御存知かと。それでも此処の一文に語弊が感じられるようでしたら──」
ふふ、と彼は笑って、言葉を続けた。
「そのように記載するように私に命じた者が、間違った文法を用いていた場合かと」
「そうか」
実際、文法のミスは彼女にとっても些細な問題なのだろう。
アルシャは微笑して、本のページを閉じた。
傍らに手を伸ばし、本棚に隠すように置いていた細身の杖を取る。
「書の手入れは一旦終いにして、茶でも淹れるかの」
胸元に本を抱え、更に杖を携え、何とも重心の偏った体勢のまま彼女は起用に梯子を降りていく。
本はテーブルの上に。杖は椅子の背に。それぞれ置いて、彼女は本棚と本棚の間に隠されるように存在していた扉から、奥の部屋へと入っていった。
戻ってきた時には、彼女は茶器一式を載せた木の盆を持っていた。
青い薔薇をモチーフに描いたこれは彼女の愛用の品で、カップは3個ある。何故3個なのかというと、単純に1個落として割ってしまったからである。これは元々カップが4個で1セットの茶器だったのだ。
「私がお淹れしましょうか?」
「儂が淹れた方が早いじゃろうて」
ソルの申し出をさらりと受け流し、彼女は慣れた手つきでポットに茶葉を入れる。
蓋を閉め、そこに指先を添えて何かを小さく呟いてから、待つことしばし。
ポットを傾けると、ふわりとした香り立つ湯気を纏った琥珀色の液体が、カップを満たした。
「ソル」
茶が注がれたカップはひとつだけ。それを手に、彼女は自分がいつも使用している席に腰を下ろした。
辺りを見回すような動作をしながら、彼女は尋ねる。
「最近ルナの姿を見ぬが、御主は何か知っておるか」
「あれは……相変わらずです。書庫を勝手に徘徊しては、悪戯ばかり」
どうやら、結構な悩みのタネらしい。ソルが深々と溜め息をつくのが聞こえた。
「私が言っても馬耳東風、聞く耳を持とうとしません。全く……あれは本当に、自分の立場を理解していない」
「まあ、構わぬよ。それを承知の上で、あれと御主を司書として傍に置いているのは儂じゃからの」
紅茶を1口含み、すぅと深く息を吸って、彼女は椅子の背凭れに身を深く預けた。
周囲に聳え立つ本の壁。それを中心から照らす骨董品の吊りランプ。それらをのんびりと眺めながら、微笑む。
「幻灯書庫──此処を創ってから、もう3千年にはなるかの。膨大な数の世界書や文化書、それら全てを管理できているのは、御主ら2人がいてこそ為せるもの。儂1人では、知識を無駄に劣化させてしまうだけじゃからな。本当に感謝しておる」
ルナの悪戯さえなければ言うことなしなんだがの、とおまけのように付け足してから、微笑を微苦笑に変えた。
それから一転して真面目な面持ちになり、静かに続ける。
「数多の世界の、数多の歴史。文化。思想。生命。……万一にでも失われてしまうようなことがあれば、それは2度と取り戻すことは叶わぬ。
──儂はの、ソル。今儂らが身を置いているこの世界も含めて、世の万物は、如何に繊細で脆き存在であるかということを、皆に知り置いてもらいたくてこの書庫を創ったのじゃよ」
「……では、先日此処の『鍵』を解いて一般の者が出入り可能なようにしたのも?」
「うむ」
ソルの問いかけに、頷くアルシャ。
「扉が開かれれば、新たな風が此処に吹くこともあろう。
儂は、楽しみにしておるよ。どのような新たな風が、此処を潤してくれるのか──」
幻灯書庫。
アルシャ・リィが設立した、数多の世界書や文化書を保管している巨大書庫である。
世界と世界の狭間に在る、とされるこの場所は、設立されてから3千年もの間閉ざされていた『扉』を開放し、書を愛する心ある者ならば誰もが出入り可能な図書館となることを、今日此処に宣言した。
この日から、数多の世界の至る箇所に此処へと通じる『扉』が開き、外から人が足を踏み入れられるようになったのだ。
願えば、此処への入口をその目に捉えることも可能だろう。
知らぬ世界の知識を一見するか、己が世界の知識を書庫へと持ち寄るか。
それは──此処に訪れた客人次第。
「アルシャ様。648番の世界書ですが──」
この書庫に、明確な時の概念は存在しない。昼と信じれば昼になり、夜と願えば夜になる、そんな世界である。
故に窓もなく、閉じられた奇妙不可思議な此処では、主に主人が望む通りの時間軸を持って時の流れを刻んでいる。
今は──夕方くらいだろうか。
彼女が身体的疲労を覚えれば夜になる。そういう一種の理のようなものを根底に置いて、此処で働く者は活動をしていた。
幻灯書庫での仕事量は、それこそ普通の人間が生涯を賭しても本山の一角を崩せるかどうかというほどに、果てしなく膨大だ。だからこそ彼女が此処の『扉』を開放しようと思い立つのに3千年もかかったというのは別の話だが、それだけの山積した作業を1日の間にどれだけ片付けられるかが司書の日々の課題になっている。
相方が悪戯にかまけて仕事をしない分、ソルはとにかくよく働いている。
彼の主な仕事は、書庫に保管された書物の内容の管理だ。劣化によって欠けたページがないか、事実と比較して記載漏れがないか等を1冊ずつ丹念に確認しているのである。
数万、数十万以上にも及ぶこの書庫に収められた本の内容の全てを、彼は記憶している。
だからこそ、微妙な差異も彼は見逃さないのだ。
「またやられています。2240ページの下から3行目の記載が、微妙に書き換えられています。……あれの仕業でしょうね」
「ほう」
ソルの報告に、アルシャは相槌を打って手元の本を開いた。
太陽を腕に抱く男神の絵が表紙に描かれたこの書物は、彼女が常に手元に置いてある品のひとつで、書庫で管理をしている本についての記録が記されているものだ。
彼女自身には、書庫の本全てを管理できるだけの記憶力はない。こういう品を駆使して、彼女は此処の管理をしているのである。
報告された書についての記載があるページを開き、紙面を指でなぞって確認してから、彼女は梯子が立て掛けられている方向へと歩いていく。
梯子を上がる前に、目の前の段を軽くぽんぽんと手で叩く。すると──
まるで植物のように、梯子の上部がするすると伸びていく。
10段かそこらしかなかった普通の木の梯子は、幾分もしないうちに30段近くもある長大な梯子へと成長を遂げた。
アルシャは長いローブの裾を時折踏んづけながら、梯子を上って頂へと移動した。
迷う様子もなく目的の本を多くの書の中から選び出し、目的のページを開いて、そこに記されている一文をざっと目で追う。
そして、苦笑する。
「確かに……これは、ルナの筆跡じゃの」
「ああもう、『能力』をこんな悪戯で無駄に使って……何を考えているんだか」
嘆くソルを傍らに、アルシャは書き換えられている一文を指でなぞりながら、言った。
「じゃが、御主の『能力』を悪戯に使われては、此処の管理自体がままならなくなる。じゃろ?」
「……それはそうですが……」
「──こんにちはー」
唐突に会話に割って入った声音に、2人の対話がぴたりと止んだ。
アルシャがゆるりと足下に──テーブルの辺りに目を向けると、若い娘が自分のことを見上げている様子が目に飛び込んできた。
何かを大事そうに胸元に抱え込み、両の瞳を懸命に大きく見開いている。具体的に何かまではアルシャの位置からでは見えなかったが、書の類のように、彼女の双眸には映った。
「……これはこれは、気付かなくて申し訳なかったの」
言いながら、アルシャはさっさと梯子を降りていった。
手にした本をテーブルの上にぽんと置いて、娘の真正面に立ち、相手の姿を見上げる。
清楚な雰囲気の娘、というのがアルシャが感じ取った第一の印象だった。栗色の髪を淡い空色のリボンで上品に結い上げ、白いシフォンのワンピースを身に着けた様は確かに上流階級出身の女性、といった感がある。娘がどのような世界から此処に訪れたのかが分からない以上、貴族や平民といった概念が娘に通じるかどうかは甚だ疑問であるが。
「儂が幻灯書庫の責任者、アルシャ・リィじゃ。本の閲覧希望者かの」
「は……えっと、あの……」
「ふむ、儂の姿がこのような小さき者であることに驚いておるのか?」
「い、いえいえっ、そういうつもりではっ!」
半分くらいは図星だったのか、娘は慌てて首を左右にぶんぶかと振った。
「あの……あのっ、此処で、色々な珍しい本を扱っているとお聞きしました。それで……」
ばっ、と抱えていた紙束をアルシャの前に差し出して、頭を深く下げながら、娘は声を張り上げた。
「……お願いしますっ、私を、此処で、働かせて下さいっ!」
「……え?」
間の抜けた声を漏らすソル。
アルシャも同様に、ぽかんとした顔で娘のことを見つめるばかりであった。
娘はユウリ・シオンと名乗った。
年齢は19。音楽家の家系に生まれ育ち、幼少の頃から音楽に関わる教育を施されてきた、いわゆるその道のサラブレッドというやつである。
楽器の扱いに、歌。両親の才能を色濃く継いだ彼女は、次世代の新星として周囲に大きく期待されていた。
しかし、彼女には別の夢があった。
「成程。作家にのう……」
シオンの話を聞き終えて、アルシャは手元のカップに手を伸ばしながら静かに頷いた。
アルシャの目の前には、シオンが持ち込んだ彼女直筆の創作小説の原稿がある。
内容は、可もなく不可もなく。一読しただけのアルシャが出した感想は、それだった。
文法など、基本的な執筆能力に関しては問題ない。むしろ独学でよく此処まで学んだと言えるほどの能力を、シオンは持っていた。
だが……何となく、何かが物足りない。
アルシャは、そのように感じていた。
「ソル。御主はどう感じたかの」
傍らの太陽の書を開き、白紙のページを出してその表面を指でなぞりながらアルシャは問いかけた。
シオンの前に1度も姿を見せていないソルは、しばし沈黙した後、やはり何処から場の様子を見ているのかは分からないが比較的近くから聞こえる声で、アルシャの問いに答えた。
「磨けば光る原石……の可能性があるかもしれない石、といったところでしょうか」
曲がりなりにも作家を目指している少女である。ソルの言葉の意味は分かるのだろう。才能の有無についてをずばりと言われ、僅かに表情を曇らせるが、主張を撤回する気は全くないようで、先程から続けている主張をそのままに繰り返した。
「それは、分かっています。でも……私は夢を諦めたくないですし、何より、本の世界が好きなんです! だから、どうかお願いです、此処で働かせて頂けないでしょうか!?」
「そう言われてものう……」
紅茶を一口啜り、アルシャは割と困った様子でシオンの目を見た。
シオンは本気だ。生半可な決意と覚悟で今の話をしているわけではないことくらいは、眼差しに秘められた炎を見れば分かる。
だからこそ、頭ごなしに追い返すわけにもいかず、考え込んでいるのである。
「此処は、御主が知っているような『普通』の図書館とは違う場所での。書を売って金銭を稼いでるわけではないし、何より、此処を支配している理が御主の世界とは違うのじゃ」
「本棚のお掃除も、本のお手入れも、必要なことは何でもしますので!」
「そういう意味で言っているわけではないのじゃが……」
そもそも、商売をしているわけではないのだから、雇い賃を工面するあてがない。
「のう──シオン、と言ったかの」
太陽の書をぱたりと閉じて、アルシャは真面目な面持ちで切り出した。
「御主は、本の中に永劫閉じ込められる覚悟はあるのかの?」
「え?」
「この書庫に身を置くということは、そういうことなのじゃよ。老いることもなく、永遠と時の流れが止まった世界で生き続ける──命ある者には、それは永遠の地獄にも等しき苦となろうて。儂やソルは、此処で生まれ、此処で育った者じゃから、それが当たり前になっておるが……シオン、御主は普通の人間じゃ。今は良くても、いずれきっと耐えられんようになる」
この書庫が誕生して3千年。
アルシャは、この書庫を創ってからの時を、此処でずっと過ごしてきた。
書を管理し、整頓し、……そんな生活を、繰り返してきた。
此処に身を置いてから成長が完全に止まってしまった、そんな身体と共に。
この書庫から身を遠ざければ、止まった彼女の『時』は再び動き出すだろう。
だが、今の今まで止められてきた『時』が動き出した際の代償が、何もないとは限らない。
今まで走ることを止められていた分、遅れを取り戻すかのように、時計の針を一気に回してしまう可能性はないとは言い切れないのだ。
永遠と呼ぶには短い時ではあるが、それだけの時を生きてきた彼女には、『死』に対する恐怖は既にないに等しい。
しかし、彼女がいなくなったことによって、この書庫が一体どうなるのか──此処に収められている本たちの行く末がどうなってしまうのか。その結末の形だけが、彼女にとっては恐ろしいものだった。
ソルとルナだけでは、おそらくこの書庫を管理しきれない。そのことを、彼女はよく分かっている。
此処には、自分でなければ管理することができない場所が幾つも存在する。そこを封印したまま、彼らに此処の管理を委ねるなどという未来は、彼女の中には存在していないのだ。
「シオン。御主には、作家になるという大きな夢がある。それを天秤にかけてまで、此処に身を置きたいとは考えておらんじゃろう? その夢ありきで御主は今こうして此処におるのじゃからな。……その程度の覚悟では、此処には到底身を置いていられんよ」
「……それは……」
「……もしも。それでも此処で働きたい、と御主が己の考えを曲げぬ、そんな覚悟を持っているのなら──」
アルシャはふっと口角を上げて、言った。
「──よく考えて、その想いが変わらぬようならば、明日また此処に来ると良い。その時は、儂も誠意を持って御主の想いに応えよう」
「──良いのですか? あのような約束をして」
シオンが帰った後。再度2人きりとなった空間の中心で、ソルは主に尋ねた。
ソルからすれば、アルシャが外からの人間を好意的に迎え入れようとしている態度が不思議でならないといったところなのだろう。
「儂も、結構いい歳のばあさんじゃからの」
全然そうは見えない容姿でふっとはにかんで、アルシャは残った紅茶を口に含んだ。
「希望を掴もうとしている若者を見ると、ついその背中を押してやりたくなってしまうんじゃよ」
「その心中はお察ししますが」
ソルは、役目柄故か、こんな時でも至って冷静だ。
「先程アルシャ様も仰っておられたではありませんか。あの娘は、普通の人間です。此処に馴染めるとは、私には到底──」
「じゃが、可能性は無きにしも非ず。そうじゃろう? ソル」
空になったカップをテーブルに置いて、太陽の書の表紙を優しく撫でる。
「可能性の有無は、儂らが見出してやれば良いだけのこと。結論を出すのは、その後でも遅くはなかろうて」
「…………」
はぁ、と溜め息をつく音がした。
「……分かりました。アルシャ様がそのように仰るのでしたら、私にそれを否定する気はございません」
「先の『物語』の内容は、把握しておるじゃろうな?」
「無論です。それが私の役目です故」
「ならば、後の準備は御主に一任しよう。儂は、必要な品を揃えておくとするかの」
「御随意に」
杖を持って席を立った書庫の主は、茶器を持ち出した部屋に続く扉の左隣にある本棚の前まで行くと、手にした杖でその側面をこんこんと叩いた。
と、叩かれた本棚が、まるで合図を与えられた生き物のようにふわりと浮き上がり、右へとスライドした。
先の扉を覆い隠す形で移動した本棚の陰から、同じ形をした別の扉が現れた。
彼女はその扉を開け、続く先の部屋へと姿を消した。
後の場には、彼女が置いていった太陽の書と、それらを優しく照らす山吹の光と、重々しくも温かな雰囲気を宿した数多の本たちが残されていた。
──幻灯書庫の、少々風変わりな出来事があった、何てことはない1日の情景である。