3-11話 亡命
翌朝、保護された黒山の徳信公子は外の話し声で目が覚めた。呼んでも誰も来ないので、用意されていた服を着て外に出る。そこにいたのは昨日紹介された白海の王妃だった。
「王妃様、おはようございます。」
「おお、もうお目覚めか。まだ、朝食には時間があるぞ。もう少し寝ていても大丈夫じゃ。」
「いえ、こんな早くに何をされているのです?」
「鍛錬でございます。公子様もされますか?」
池の周りを走るのだと聞き、少しやってみるかという思いで一緒に歩き出す。すると別の方向から、老夫婦が歩いてきた。
「大君、大妃様。おはようございます。」
徳信公子も紹介され、挨拶をする。
「公子様も鍛錬をされるそうです。」
「そうか、走るのは気持ちがいいぞ。」
池に着き、この周囲を走るのだと聞かされる。王妃と恵蓮公女が走り出したので一緒に走る。最初は何とか一緒に走っていたのだが、徐々に遅れ出し、まだ三才という恵珠公女に追いつかれてしまった。幼い恵珠公女は懸命に走っているのだが、大君は歩いてその速さだった。
何とか一周し、終わりかと思ったが、王妃様と恵蓮公女はまだ走っている。
「よく走りましたな。今日はもう止めになされ。最初から無理をしてはいけませぬよ。」
息を切らしながらどうした物かと迷っている徳信公子に大妃が声を掛ける。
「公女様はまだ走っているのに・・・。」
「毎日走っておるからのう。公女は三週、王妃は十周が毎日の日課じゃ。」
「そんなに・・・。何故、そんな事を?」
「楽しいからでしょう。ただそれだけ。」
大妃と話していると、女官が自分を探していると走って来た。
「行きなされ。また後でお会いしましょう。」
「はい。」
徳信公子は頭を下げると女官と共に行ってしまった。中々利発ではないかと大妃は思った。
朝食に米だけの飯が出され、黒山太子妃は、ここでは何事も言わねば賤民扱いされてりまうとひどく憤慨した。女官長が誤りに来て、ようやく気が納まった。
しかし、昼食の前になると女官が米の飯が良いかと聞きに来て、黒山太子妃に付き添ってきた女官も憤慨したのだが、理由を聞く事にした。
「何故、そんな事を聞く。」
「申し訳ございません。この宮では、他の方はみな、雑穀を混ぜた飯しかお召し上がりにならないので・・・。」
「黒山の太子妃様を、兵や賤民と一緒にするではない。」
「いえ、あの・・・。王様も王妃様も、他の王族の方々も雑穀を混ぜた飯を、お召し上がりになっています。」
「何と、王様が雑穀を召し上がるのか。」
「はい。」
「お前は、ここに勤めて何年になる。」
「五年目でございます。」
「お客人はどうしているのじゃ。」
「奥宮にお泊りになるのは、林家のご親戚ばかりで、皆様、雑穀飯です。」
「ふーむ。手間が掛かるので嫌じゃと、炊事方が言っておるのか。」
「いえ、手間は構わぬのですが、薪を余分に貰わねばならないので、届出が必要でございまして・・・。」
聞かずとも毎回、米の飯にするようにと黒山太子妃の女官は言ったが、黒山太子妃はそれを止めた。
「奥宮の方々と同じ釜で炊いた雑穀飯でよい。」
薪を使うのに届け出が必要というのも初耳である。毎日、自分達が米の飯を食べる為に余分に薪を貰っているなどと噂になれば、何が起きるか分からない。先王様の命により保護してくれたとはいえ、ここは敵国である。身を守る為に、雑穀飯を食べねばならぬ事位、我慢すべきだと思った。
女官が行ってしまうと、ここは黒山の宮とは大分勝手が違うかもしれないと思った。ならば、少し様子を見るしかない。暫くたつと、徳信公子を弓の稽古に王が誘っているというので、黒山太子妃も一緒に出掛ける。
王の弓場では光栄と王妃が弓の稽古をしていた。二人の幼い公女二人も一緒で、矢投げをして遊んでいる。徳信公子の姿を見ると王妃が少し休むと言い、場所を譲った。
徳信公子は渡された弓で二十本程の矢を射ったが、的に当たったのは数本だった。
「中々筋が宜しゅうございます。」
王妃が黒山太子妃に言うが、黒山太子妃は怪訝な顔をした。
「まだ、十歳でございましょう。二十本射ただけでも、ご立派です。」
「そうなのですか?」
「はい。公子様、晴れている日は毎日、ここで練習なさいませ。五年もすれば、全部的に当たります。」
「はい。」
そう言いながら、毎日やっても五年もかかるのかと思った。光栄が椅子に座ると王妃が立ち上がった。内官が地面に沢山の矢を突き刺す。王妃は弓を持って立つと、それを次々に射る。あっと言う間に、地面に刺した矢がなくなった。
「今日は二十五本か・・・。もう少しじゃのう、王妃。」
「ここからが難しいのです。王様。」
「王妃様、今、何をされたのでしょう。」
公子が聞く。
「三十本の連射の鍛錬です。全部的に当たらねば意味がありません。」
「連射・・・。初めて見ました。」
「戦場の弓兵は皆できます。」
「そうなのですか。知りませんでした。」
「全員ではないよ、王妃。三十本連射となると、名手だ。」
光栄が笑いながら言う。
「王妃様は、弓の名手になりたいのですか?」
「なりたいですよ、公子様。」
王妃が弓の名手を目指すなど、黒山では聞いた事がなかった。昼になると、大妃が幼い公女二人を迎えに来て、一緒に昼食だという、王妃は王と昼食をすると、行ってしまい、大妃と並んで歩き出す。
「黒山の宮とは、勝手が違うでしょう。」
「はい、あの・・・。そうです。」
「他の者の事は気にせず、好きな事をされると良い。徳信公は勉強もしないと・・・。本はお持ちですか?」
「いえ、大妃様。置いてきてしまいました。」
「中庸ですか?」
「いえ、小学の最後の方です。」
「では、本をお届けしましょう。母上と一緒にされるとよい。」
黒山の太子妃は小学しか勉強はしなかった。教師はいないかと大妃に言う。
「教師・・・、今は、警備の者が文官を出入りさせるのを嫌がるでしょう。私がお教えしましょう。小学や中庸なら、数年前まで主上と一緒に勉強していました。」
「王様も大妃様に教わっていたのですか?」
「教師はいますよ。でも、復習は必要でしょう。毎日、王様と復習をしていたのよ。」
「そうなんですか。」
「徳信公は算術は、お好きか?」
「あまりやりませんが・・・。計算はできます。」
「光常公子が書いた、おもしろい算術の本が沢山あるのよ。読んでみる?」
「はい。」
午後に小学と中庸、それにおもしろい算術の本が沢山届いた。黒山太子妃にはさっぱり分からない内容ばかりで、それは徳信公子も同じだった。届けて来た内官は、他に写しもあるが、光常公子がいずれお生まれになる元子様の為にこちらに残された本だから、自分の物が欲しいなら、写すといいだろうと言って、紙の束も持って来た。綴じて表紙をつけるのは、いいつけて貰えれば自分でやると内官はにこにこしながら言う。
「お前は、本を綴じるのが好きなのか?」
「はい、製本というのは楽しい作業でございます。」
その内官によると、今持って来た本もだが、光常公子の書庫の本は自分が全部綴じたのだと自慢げに言って戻って行った。
「確かに、この本の表紙、美しい紙ですね。」
公子が太子妃に向かって言う。
「そうね。」
小学や中庸なら教えられるという大妃、弓の名手である王妃、変わり者ばかりだと黒山太子妃は思った。徳信公子は、白海王の弟というなら自分と数歳しか違わないのに、この難しい本を書いたという光常に会ってみたいと思った。
黒山の内紛は結局、兄が弟を討つまで終息しなかった。しかし、黒山の兄公子は王になるや、過酷な粛清を行い。貴族の半数近くを罰するに至った。太子妃の一族は徳信公子を王に立てるというので、弟に着いたが為に、領地は没収され、男子は全員死罪、妻や子供は奴隷となってしまった。
太子妃の父からの手紙を持ち、内戦の中を潜り抜けて来た、黒山太子妃の実家の執事は、手紙を渡すとそのまま病に倒れた。
黒山太子妃は、こうなっては生き残るのは難しいと感じ始めていた。逃げ出そうかと考えもするのだが、さて、ではどこへと考えると全く行く場所がない。
何も知らない徳信公子は、朝早くから起きだして二人の公女や王妃と池の周囲を走り、光常公子の書庫で勉強をし、王妃に弓を習ったりして、毎日を過ごしている。話した方がいいのかどうか、黒山太子妃は迷いながらも口を開かなかった。
光栄が黒山攻めの準備をしていると、実家の執事から聞いてから数日後、黒山太子妃と徳信公子は王の私室に呼ばれた。
何度か会ってはいるが、部屋に呼ばれたのは初めての事である。
「ようこそ。」
王衣を着ていない光栄を徳信公子は見た事がなかった。椅子を勧められ、二人は座った。机には徳信公子が好きな菓子が用意されており、光栄は徳信に様子を聞く。
「王様、公子の様子を聞く為に我らを、お呼びになったのではないのでございましょう。」
呼ばれた理由は黒山太子妃にも分かっている。白海王である光栄を兄のように、父のように思っている徳信を見ているのが辛かった。
「その通りだ。黒山太子妃、残念だが我等は黒山と戦をする事になった。今の黒山王とは盟友になれぬ。故に、黒山併合まで、戦が続く。」
「そうでございますか。」
きっと死罪となるのだと黒山太子妃は思った。
「そういう顔をしないでくれ。我の父、大君も同じように赤川併合まで戦を続けた。我も同じ道を歩む事になる。だが、白海が戦をするのは、黒山の民を殺す為ではない。」
「では、何の為に戦をなさるのでしょう。」
「その先にある物を得る為だ、徳信公子。赤川併合の折、我は大君に王族は助けてくれと懇願したが、後への憂いを払う為には、それはできぬと拒絶されてしまった。それだけが心に重くのしかかっている。出来れば、太子妃と公子には生きる道を与えたい。今でも、そう思っているのです。しかし、黒山王の家族を養う事は白海の民にとっては、国への裏切り行為、我は王として人として選択を迫られました。太子妃、公子、我がそうお呼びするのはこれで最後です。ですが、家臣とも話し合い、あなた方にも選択する機会を得る事が出来ました。後は、政治的な話し合いになります。宰相とお話し下さい。」
「徳信公子、我はあなたに生きて大人になって欲しいと思っています。それだけは信じて下さい。」
二人は光栄に別れの挨拶をし、宰相の執務室へ向かった。
宰相の執務室では太子妃と徳信は宰相と向かい合って座った。しかも下座である。これが何を意味するのか太子妃には理解できた。
「お二人の住まいですが、自宅の離れをご用意致しました。そこへ今日中にお移り頂きます。」
「宰相様、公子は部屋へ返したいのだが・・・。」
黒山太子妃が言う。
「我が話しているのは太子妃様ではなく、徳信公です。」
「しかし、公子はまだ十歳じゃ。」
「確かに、まだ大人ではございませんが、何も分からぬ子供ではございませぬ。王様が大君の執務の手伝いを始めたのは十五歳、公子様は十二歳で戦の後方支援部隊として出陣されました。この国はそういう国でございます。」
「しかし、王族は特別なもの・・・。」
「確かに王族は特別ですが、貴族の子供達も十歳にもなれば、勉強の他に領地の経営や法について学びます。それが今の白海国です。そこまではご理解いただけましたか? 徳信公。」
「分かりました。」
「では、続けます。王様は徳信公に貴族の称号を与え、白海国の民として迎えたい考えです。王様と我々貴族の間での妥協点はここまでです。貴族の称号を与えるのは構わないが、領地は与えない。住まいは用意するが、それ以外はご自分の財で賄わねばなりません。」
「しかし、財と言っても、そう沢山は・・・。」
「徳信公が宮の採用試験に合格すれば俸禄が頂けます。そこから上に行けるか否かはご自身が白海の民としてどれだけ功績を上げられるか否かに掛かっています。」
「我が、白海の民にはなりたくないと言ったらどうなるのだろう。」
「白海は出て頂くしかございません。黒山に戻られてもよし、北領に行かれても構いません。ご自分で選択なすって下さい。」
「一つ伺って良いでしょうか?」
「何でしょう。」
「宰相様は、我を貴族として受け入れるのに賛成なのでしょうか?」
「徳信公、我にとって今の徳信公は必要でも不要でもない存在です。我が一族も旧黄石国の王族。白海に併合され、三百年になります。併合された時の当主が必死に努力したお陰で我が家は存続しました。数世代に一度は王妃を我が家から輩出しています。今の王様には黄石国の血が流れているのですよ。また、王様の三代前の母君は黒山国の王族、既に王様の血にも黒山の血が流れているのです。ただ、これから先、王妃となられる方を輩出できるか否かは徳信公の選択。他には黒山王家の血を持つ者はおりません。」
「王様は我に大人になって欲しいと、おっしゃってくれました。だから我は何としても大人になるまで生き延びます。」
「そうして下さい。これから白海の民となる黒山の民にとっての心の支えとなれる方になって下さい。」
「黒山の民など白海にはいないではないか。」
太子妃が言う。
「王京には少ないですが、国境付近には沢山の流民が入り込んでいます。既に数千という規模です。」
「そんなに・・・。」
「地元の領主だけでは、もう対処しきれないので、王様が全国の貴族や民に仕事を与えて欲しいという呼びかけをしています。王京内にも張り紙がしてあります。後ほどご覧になられると良いでしょう。」
太子妃は貴族になるかどうか、少し時間が欲しいと宰相に言い、話は終わった。部屋に戻ると既に女官は荷物をまとめていて、大妃と王妃に挨拶をして二人は宮を後にした。
宰相の屋敷はすぐそこで、外側の塀はずっと続いているが、中は四件の家に分かれていた。離れの一番遠い家は、文官に売ってしまったのだが、後の三軒は一族が住んでいる。隣は宰相の娘が結婚した林治水奉行の家である。
最低限の家財はあったし、当座の米や他の穀物は王妃様がくれた。鶏六羽がやけに大きな鳥小屋にいたが、それで全部だった。
数日すると鶏は食べきってしまい、貰った野菜もなくなったので、初めて黒山太子妃は買い物に出掛けた。まず、両替商で装飾品を売るが、それでどの位の何が買えるか皆目検討がつかない。
両替商で商店を聞き、執事に何と何が必要かを聞きながらの買い物だった。
もうすぐ冬になる。空を見ながら結局、向こうへ戻るのは来年かと思いながらソクリは西の空を眺めていた。そこへ呼んでいた卓がやって来て、一緒に出掛ける。
「黒山金家の様子はどうだ?」
「奥方様は気位が高くてどうにもならないが、若様はもう、すっかり貧乏貴族の若様です。」
寺子屋で会った林家の息子達から鶏を増やす方法を教わり、自ら小屋を掃除したり餌をやったりしている。最初の鶏は食べてしまったので、林家の子供からヒナを借りた。
また、下級武士の子供達と寺子屋が終わるとすぐに王領の山へ薪を取りに行き、一緒に売っている。
「そのうちに鶏の餌代も必要になるから、林家の子供と写本をやってるしな。」
「まあ、林家は鶏の数が多いからな。」
「林家だけじゃないですよ。大君。雑穀は痛む前に消費しないとならないんだが、それもうまくいってる。」
「そうか。それにしても子供の順応力というのは、早いな。」
「奥方様は座っているだけ、代わりに執事が働いても、母親が文句を言う食べ物しか買えないとなれば、努力する気にもなるんだろう。」
「それより、大君。まだ、若様は白海の貴族ではないでしょう。そこが気になっている所で・・・。」
「排斥の動きがあるのか?」
「まだ、もやもやしてはいますが、はっきり出てきてからじゃ遅い気がします。」
「琴将軍に行って貰うか。」
「琴将軍で説得できますかね。」
「迎えるのは奥方ではなく、若様だからな。本来なら奥方が反対しても若様が宮へ出向いて、返事をすればそれで問題ない話なんだ。」
「それはそうでしょうが・・・、琴将軍は説得できるんでしょうか?」
「奥方様が寝返り工作に協力するなら、それはそれで戦功よ。」
「そういう事ですか。」
琴将軍は奥方を説得は出来なかったのだが、その際に、息子が貧乏貴族と同じように働いていると知ると、息子にそれを問いただした。
「我等にはもう帰る国がありません。ならば、この国で生きていけるようにならないと・・・。母上は食事に文句を言いますが、執事が働く金で買えるのはあれで、精一杯です。財がないなら働くしかないのですよ。母上。」
「王になるはずだったのに・・・。」
黒山太子妃は夫が殺されたと聞いてから初めて泣いた。
「母上、これからの事を考えましょう。我は白海で認められる人物になります。そして、白海が黒山を併合するなら、その地を任せて貰おうと思います。光常公子様は十六歳で赤川を任される方です。白海にはそういう方に続きたいという若者が沢山います。もっともっと努力しないと、そういう若者より上に立つ事はできません。」
「そんな事を考えていたのか・・・。」
涙を拭きながら黒山太子妃は徳信の顔を見た。
「母上、悲しいでしょうが、もう太子妃であった事はお忘れ下さい。我は、白海の貴族としての称号を頂く事にします。」
黒山太子妃の心の中に大丈夫だと夫の声が聞こえた。
「分かった。お前の言う通りにしよう。」
翌日、二人は宮に行くと、白海貴族の称号を頂きたいと光栄に願い出た。数日後、便殿で任命式が行われた。
また、新たな人物が登場しました。ここから三国統一に向けた若い世代が徐々に登場します。
楽しんで読んでくださいね。