09,父と子の会話
理はいったん多喜子の家に寄ってカバンを取り、いいと言うのを家の前まで車で送ってもらった。馬場家は整備された20年前の新興住宅街にある。ストンとした四角の、代根家に比べればずっと小さな家だ。
理が帰宅してしばらくして父、忠穂も帰ってきた。
「どんな人だった?」
「気になる?」
「そりゃーな、母さんとエッチしたかも知れないヤローだろ?」
「こらこら、息子に向かってなんつーデリカシーのない言い方しやがる?」
忠穂は手洗いしてコンビニ弁当を食べ、理もお湯を沸かしてカップラーメンを食べるところだ。
「どうだったんだよおー?」
「すっげーハンサムで、すっげー優秀で、すっげーいい人だったみたいだよ?」
「ああそうかよ、良かったな」
「何がどういいんだか」
理はズルズル麺を啜った。忠穂は魚のフライをガブッとやって、
「おまえが本当にその人の子なら、跡取りにって話にもなるんじゃねえか?」
「俺がその人の子だったら父さんはどうだ?」
「おお、そりゃ嬉しいね。せいぜい育ての父親を大事にして贅沢させてくれたまえよ?」
と、にくったらしく言った。
「あーあ、心にもないことを。本当はすっげー悔しいんだろ?」
「おう。はらわた煮えくり返っちまうぜ」
「その火に油を注ぐようで悪いんだけどね、俺に遺伝子検査受けてくれないかって言うんだ。かまわないか?」
「おまえの問題だ。かってにすりゃいいさ」
「なんだよ、すねるなよ〜」
理はもうちょっとかまってくれよと話を続けた。
「じゃあさあー、本当に俺が辰巳さんの子で、佐津川家に養子に入ってくれ、なんてことになったら、どうする?」
「だからかってにするがいいさ」
「冷てえなー。俺はさ、父さんの子じゃないのかい?」
忠穂は口をモグモグさせながらむっつり理を見た。理は可愛く目をクリクリさせて訊いた。
「俺がいなくなったら、父さん寂しくない?」
「でかくなった息子なんざ邪魔なだけだ。……と言いたいところだが……、」
「なあに?」
「母さんがいなくなるみたいで寂しい」
理はニッと笑って言った。
「俺毎日部長に尻触られてセクハラされてるんだぜ? ちなみに部長は男な。それどころかさ、下駄箱にラブレターが入ってるんだぜ?
『君を見て、ああこの世には美少年という物が実在するのだなと感動しました。弟になってください』
って男の先輩からさ。まあ?この美貌なら?男にもそういう気を起こさせちゃうのも、分かる気がするけどさ」
忠穂も可笑しくて笑った。
「てめえでそれを言うかよ?」
「美しいだろ?俺って? なにせ、母さんそっくりだもんな?」
「ああそうだな。おまえが母さん似で俺は嬉しいぞ」
「父親までそういう目で俺を見るな」
「いいじゃねえか、血はつながってないんだから?」
「俺が男だってことを忘れるんじゃないぞ?」
「だったら早く結婚して女の子を産め。俺が育ててやる」
「孫を紫の上にするつもりか? エロ爺い」
「ばあか。その子が大人になる頃には俺もすっかり本当の爺になって役に立たねえよ」
「分からんぞお、最近の子は発育がいいからなあ?」
「そうだよな。いくら早くって言っても高校生のうちに多喜子ちゃんとエッチなんかするんじゃねえぞ?」
「あんたなあ〜〜、息子の彼女までエロい目で見てんじゃねえぞ?」
「いや、見るだろう、ふつう」
「真顔で言うな。本当に心配になる。だいたいなあ、あんたが再婚すりゃあいいだろう? ピチピチの若い美人のママなら大歓迎だぜ?」
「おまえこそ中身はただのエロガキか? 若いピチピチの美人がこんなしがない父子家庭に嫁に来るか!?」
「俺がナンパしてやろうか? 僕の若過ぎるママになってください、って?」
「この美人の皮を被った不良エロ息子め。再婚なんてする気はない!」
「いいじゃねえかよ、もう。8年だぞ? いいかげん母さんの思い出に浸るのはやめて、美人の嫁さんとエッチして、自分の子ども作れよ?」
「………うるせ。もうタイムオーバーだよ」
「まだ43じゃねえか? ちゃんとさー、自分の人生に立ち返れよ?」
「高校生の分際で父親に説教すんじゃねえ」
「そりゃあコンビニの店長だって悪くないけどさ? 父さんなら、もっと才能を生かせるいい仕事があるだろう?」
「あるかよ、この就職難のご時世に」
「あーあ、4年間もアメリカの大学に留学してえ?」
「おお、そうだな。俺が身の程知らずの馬鹿だったよ」
「そんなことないだろう? 前の会社やめたの、母さんが死んだショックが原因だろう?」
忠穂は以前地元のエレクトロニクス部品製造の中堅会社に勤め、花形の商品開発部にいたのだ。
「まあな。だが、最先端技術なんてのは8年どころか、1年、半年でものすごい進化をしてるんだ、今さらもうとても追いつけねえよ」
「そりゃそうかもしれないけどさ。でもさ、父さん、なんかすごい発明をしたんだろ?」
「は? なんのこったい?」
「前に言ってたじゃん、おまえは将来のことなんて心配しなくていいぞ、おまえには成人したらおまえの物になる貯金がある、って。俺がなんの金だって訊いたら、特許料だ、って言ってたじゃん?」
「ああ、それか。それは俺のじゃねえよ。母さんのだ」
「え?」
理は驚いた。
「母さんのなの? なんの? ひらめきの便利グッズ?」
「そんなんじゃねえよ。そうだな……」
忠穂はすっかり身に付いた早食いで弁当を食べ終わり、しげしげと理を見つめて言った。
「母さんが処方箋薬局の薬剤師だったってのは知ってるな?」
「うん」
「そりゃ嘘だ」
「なんで?」
「母さんが説明するのがめんどくさいって嘘ついていて、俺もそれを引き継いだ」
「じゃ、本当は?」
「製薬会社の研究員だ。カネギ製薬、知ってるだろ? あそこだ」
「あれって本社ここだった?」
「本社は東京だろうがな、こっちの大学に共同研究室ってのがあったんだよ」
「青陵?」
「いや、違う。越岡の国際悠久(ゆうきゅう)カレッジ」
「越岡? 母さん毎日車で出勤してたじゃん?」
「ああ。駅まで車で行って、新幹線で通ってたんだ」
「新幹線通勤か。豪勢だな?」
「おう。母さんは、その研究室の室長だったんだ」
「ひえ〜〜〜。あったま良かったんだあ?」
「おう。おまえの学年トップの頭脳は父親譲りじゃねえ、母さんのおかげだ。その研究室も会社が母さんを入社させるためにわざわざ用意したって噂だった。だから今はもうないよ」
「そっかあーー……、そうだったのかあー…………」
理は感慨深く言い、父親を見ると言った。
「なるほどねえー…。俺、父さんって実はすごい優秀な人だったんだって買いかぶってたんだけど…、母さんから見たらてんで小物だったんだなあー………」
「こらっ。どういう感心の仕方してやがる!」
「その上、俺似の、超美人で?」
「あくまでおのれが基準かい?」
「父さんが母さんの言いなりに俺を引き受けても、無理ないわけか?」
「おまえなあ〜、あんまり父親を見くびるなよお〜〜」
「あのさあ」
理は笑いながら、澄んだ目で父親を見て訊いた。
「母さんって、どんな人だった?」
「美人」
「それは分かってる」
「ものすごく優秀だった」
「それも分かった」
「楽しい人だったな」
「そうだね。俺の母さんになる前からそうだった?」
「変わらねえよ。明るく、いつも楽しそうにニコニコしてる人だった。おしゃべりだったな。一人でぺらぺらしゃべって、どんどん話が変な方向に飛んでいった。面白い人だなあって思ったよ」
「ふうーーん。惚れてたんだ?」
「ああ。べた惚れだったな」
「なんで父さんなんかを好きになったんだろうねえ?」
「うるせーよ。……そうだな、俺がべた惚れだって、バレバレだったからじゃないか?」
「同情?」
「ちげーよ。俺といっしょだと……、楽しかったんだろ、母さんも………」
「そういうことにしておこうか」
「そうなんだよ!」
怒る父親を楽しそうに眺めて理は言った。
「自分の子どもが欲しかっただろ?」
「うん?」
忠穂は理の視線をうるさそうに斜に睨んで答えた。
「そりゃまあな」
「なんで作らなかったんだよ?」
「それはな………」
忠穂は仕方なくまともに理を見て言った。
「俺がそういう気持ちを見せると母さんが悲しそうな顔をしたからだ」
「うう〜ん……、エッチ拒否?」
「いや、エッチはしっかりしてた。ただし、NGの時は絶対拒否された」
「なんでかな? 母さん、父さんを好きだったんだろう?」
「愛していたさ」
「なのに子どもは作らせない?」
「自分の子どもはおまえ一人でいい、って言ってな」
「それ以上は負担が大きいから?」
「おまえをちゃんと愛してやりたいから、ってさ」
「父さんはそれで納得したの? しょせん他人の子だよ?」
「母さんの子だ」
忠穂はまじめな顔で息子を見つめて言った。
「母さんにとっておまえは特別な子だったんだ。正直俺はそれを面白くなく思ったこともある。しょうがなくおまえの父親をやっていた気持ちもあった。だがなあ……、子どもってのがみんなそうなのか、おまえが特別だったのか分からんが、父親やってるうちにどんどんおまえが可愛くなってきた。俺がおまえを可愛がってると母さんも喜んだしな。ま、今はこんなでかいエロガキに育っちまったが、子どもの頃のおまえは、それこそ天使みたいに可愛かったからな」
「いやあ美人に生まれてよかったなあ」
「ばあか」
「それでもさ、やっぱり不満があっただろ? 自分の子どもを持てない?」
「まあな。だが、母さんが死んで、その気持ちも消えた」
理はじっと父を見つめた。忠穂も息子を見つめて言った。
「母さんは本当におまえを可愛がっていたからな。おまえ、母さんが死んだとき、まったく泣かなかっただろう?」
「うん。そうだったね」
「ずいぶん心配したんだぞ? どうかしちまったんじゃないかと?」
「あれはさ、」
理は顔を逸らして照れ笑いを浮かべて言った。
「信じてなかったんだ、母さんが死んだなんて。子どもがてらにテレビの真似して推理してさ、死んだのは替え玉で、母さんは本当は生きているに違いないって疑ってたんだ」
「そうだったか。ひどい事故だったからな………」
忠穂は痛ましく思い出して顔をしかめた。
「おまえには……母さんを会わせられなかったからな……………」
「ひどい状態だったんだろ?」
「ああ。俺だってそれが母さんだなんて信じられなかったからな。何かの間違いだ、誰か、似た車の似た誰かの間違いに違いないって、……信じたくなかった…………」
「でも、母さんだったんだろ?」
「ああ。間違いなく、な。
右折信号の交差点に直進の車が突っ込んできたんだ。まっ赤なスポーツタイプの外車が、派手にクラクションを鳴らしながら猛スピードで突っ込んできた。避けると思ったんだろうな。運転していたバカ者はアクション映画の主役にでもなった気でいたんだろう。だが、トラックが右折してきて、赤いスポーツカーは避けられずに後部に激突した。斜めに弾かれたスポーツカーは左車線で止まっていた母さんの車にまともに突っ込んだ。母さんは即死だ。瞬間的なショックで、痛みを感じる間もなかっただろうことが唯一の救いだな。
遺体は母さんだった。それは、間違いない」
「そうか。母さん、まさか自分がそんなところで死ぬなんてまったく思いもしなかっただろうな」
「ああ、まったくな。でなきゃこんな面倒な問題に答えも残さずに逝っちまうもんか」
「だね」
二人はすっかりしんみりしてしまった。理が気を取り直すように話題を変えた。
「母さんの取った特許ってなんだ?」
「ああ、……めんどくせえ。遺伝子療法って分かるか?」
「ううーーん…。病気の患部に遺伝子を注入して細胞に正常な働きをするよう促す、ってな感じ?」
「まあそんなとこ…なんだろう。それでだな、その問題の細胞に正確に確実に遺伝子を注入する方法ってのが難しいらしいんだが、その画期的な方法を、母さんは開発したらしいんだ」
「それってさ……、ノーベル賞ものの発明じゃないの?」
「そうかもな」
「それってさ、研究室、っていうか、企業の物にならないの?」
「そうだな、母さんの持ってるのは特許の一部なんだろうが。母さんは基礎理論を大学時代に論文で発表していたんだ。あまりに画期的すぎて、大学の教授も付いていけなかったようだな」
「へえーー、母さんって本当に天才だったんだ?」
「その通り。天才だ」
「父さんたちどんな会話してたんだよ?」
「いや、もっぱらしゃべるのは母さんで、俺はもっぱら聞き役だ」
「話なんて分からなかっただろう?」
「ちんぷんかんぷんだ」
「よく結婚してもらえたねえ?」
「うるせえよ」
「じゃあさ、特許料なんて、一部でも莫大な額になってるんじゃないの?」
「いずれはな。特許ってのは金儲けに利用されて初めて金になるもんだ。母さんの技術もまだマウス実験段階で、実際の医療に使われるまでには至っていないんだろう」
「母さんが死んで8年も経つのに?」
「母さんが死んじゃったからそれだけ経っても実用化されないんだろうぜ。俺たちばかりじゃなく医学にとっても重大な損失だったわけだ。もっとも医療技術は俺のやってた機械技術と違って結果が出るのも時間が掛かるし、その結果を何重にも検討して安全性を計る必要があるからな、それだけ時間が掛かるんだろう」
「そうかあ、母さんってつくづくすごい人だったんだなあ。知らなかったよ」
「だからだなあ」
忠穂はおっほんと咳払いしてわざとらしい渋面を作って言った。
「おまえはわざわざ佐津川家に養子に入る必要なんてないんだ。母さんの子として大いばりしてりゃあいいんだよ」
理はニヤニヤして言った。
「うん。そうするよ。父さん、」
「なんだ?」
「俺の父さんでいてくれてありがとうよ」
「フン。その感謝の気持ちを忘れないで、将来母さんに代わってせいぜい金儲けして親孝行しろよ?」
「うん。そうしたら父さんに美人のメイドさんを雇ってやるよ」
「そういうつまらんことは考えんでいい」
酒も飲まないのに頬を赤くしている父を見て理は楽しそうに微笑んだ。