02,学生陸上のスター
スタジアムで県高校総体の陸上競技が行われている。4日間の日程の第2日目。
スタジアムの裏のサブグラウンドでは競技に参加する高校陸上部員たちがトレーニングやレース前のウォームアップなどを行っている。
そのトラックの外の一部に明るい紺色のトレーニングウェアを着た高校生たちの集まりがあった。
「マ〜コ〜ちゃん。相変わらずいいケツしてるねえ」
お尻をむにっと触られて、1年生部員は上級生をジロッと睨んだ。
「やめてくださいよ、セクハラ部長」
「エヒェヒェヒェ」
メガネを掛けたイガグリ頭の変態部長は妖怪みたいな気色悪い声で笑った。
「マッサージだよ、マッサージ。先輩が硬くなった下半身を優しく揉みほぐしてあげちゃうよお〜?」
「誰の下半身が硬くなってるんですか? 学校通り越して警察に訴えちゃいますよ」
また別の方から声が掛けられた。
「マコー」
「おまえもなあ」
1年生は自分を呼んだ同級生をしかめっ面で睨んだ。
「おまえもその呼び方やめろよ?」
「なんでー? みんなそう呼んでるじゃないよー?」
「おまえがそう呼ぶからだろう? 名字で呼べ」
「ジャイアント」
「馬場くん、だ」
呼びかけた女子はぶーとふくれっ面をした。
「なによおー? マコったら最近冷たいじゃないのよー?」
「ああ、うるさい、ダイコン」
ビュッと女子の跳び蹴りが飛んできて1年生は慌ててよけた。
「うわっ、あぶね。こおらっ、おまえスパイクだろーが? 顔に当たったらどうすんだよ?」
「あーら、ごめんあそばせ。自慢の綺麗なお顔をケガしたらたいへんですものねえ〜? ちなみにあたしは代根(しろね)よ、マコちゃん」
「ああ悪かったな、つい脚に見とれて間違えちまったぜ、タッキー」
「スケベ! その呼び方もねー」
ポカッポカッ、と1年生二人は3年生に丸めたプログラムで頭を叩かれた。
「こら、いつまで痴話喧嘩しとるか。馬場、おまえもうすぐ召集だろう? 準備しとけ。代根、おまえは今日はレースないんだから走り込んでおけ」
「「あのー、先輩」」
と二人は同時に呼びかけて顔を見合わせ、3年生及び周りの部員たちはニヤニヤした。
「なにかな〜?」
「いや、」
男子の方がちょっと顔を赤らめながら言った。
「こいつ今日はトレーニングは抑えめにしてやってくれませんか? おとといまで風邪で熱があったんで」
女子の方はちょっとびっくりして、3年生は
「そうだったのか?」
と訊いた。
「いえ、もう平気です」
と言う女子に男子は
「あ、悪りい、風邪じゃなくて生理だった?」
「さっさと行け!ドスケベ男子!」
再び跳び蹴りをかまされそうになり
「召集行って来まーす」
と笑いながら逃げていった。
「まったく、エロガキめえ〜、思いっきり第二次性徴迎えおって〜」
まっ赤になっている1年生女子をニヤニヤ見ていた3年生はまじめな声で
「代根。本当に平気か?」
と訊いた。
「あ、はい。本当に大丈夫です。風邪、はすっかり治ってます」
風邪、を強調する女子にまたニヤニヤした。1年生からトレーニングを手加減してくれとは言いづらいだろう。
「ま、無理はするなよ。で、おまえはなんだ?」
「あっ、はい、あの……」
また赤くなってうつむき、上目遣いでおねだりするように言った。
「あいつのレースを見たいなあー……と…」
3年生は笑った。
「おうおう羨ましいなおまえら。ちゃんと解放してやるよ。どうせ俺たちも見に行くから」
「はあーい、ありがとうございます!」
1年女子は明るい声で言ってきちんとお辞儀した。
北光(ほっこう)高校陸上部員たちはメインスタンド向かって左の端に集まって出場選手のレースを応援した。
男子400メートル予選。400メートルはトラック1周なのでスタートとゴールは同じ場所だ。予選は8組で、各組上位2着と3着以下全レースで上位タイム8人までが準決勝に進出する。
北光陸上部からは2人が出場するが、1年男子は第5組に登場した。
「マコーー! ファイトー!」
コースに出て練習のダッシュから戻ってきた1年生はスタンドの応援に余裕の様子で手を振って応えた。
「こらあーっ! 気引き締めろーっ!」
女子の声にきりっと真面目くさった顔を作って最敬礼した。あまり真面目な態度とは言えない。
しかし。
『オン・ユア・マーク』
ガチッガチッとスタートブロックにスパイクの足をかけ、ラインに手を付く。
『セット』
ぐっと前傾して静止する。
パンッ、と電子信管のスターターピストルがフラッシュし、8人の選手が一斉にダッシュした。
1年生は内側の第2レーンだ。
第1第2カーブを回って選手たちが向こうの直線を走るとスタンドからどよめきが起こった。
「うっひょ〜〜」
3年生は思わず口笛を吹きそうになり、痴話喧嘩の彼女は思わず目を丸くして顔に嬉しさを溢れさせた。
速い。
1年生は内側のコースにもかかわらず早くも先頭に迫る勢いでグイグイ加速していく。
スタンドの視線を一身に集め、第4コーナーを回ってラストの直線に入ってくるとぶっちぎりのトップで、もう既に軽く流し、余裕の1着でゴールした。
イガグリメガネの部長は腕を組んで「うーむ…」とうなり、
「美しい」
とつぶやき、周りの部員たちから思いっきり引かれた。
1年女子も思いっきり引きながら、でも頬を上気させて審判に礼をして帰ってくる男子をしっかり目で追っていた。
「こら、手抜き」
「順位の決まった予選で全力出してどうすんだよ?」
「やな奴〜」
男子はバイバーイと手を振ってゲートに入っていった。
「あれでこのタイムかよ」
スクリーンに表示された結果を見て3年生がつぶやいた。記録は51秒代前半の平凡なものだが、ほとんど4分の1は流している。
「いやいやまったく、あの脚でどーしてあんな走りができるのかねえ〜」
顎に手をやりしたり顔の部長に仲間の3年は
「あんたはどこを見とるんだ」
と白い目を向け、ニッと笑ったイガグリ部長は
「よしみんな。1年にいいとこ見せつけられて舐められるんじゃねーぞー。行くぞ!オー!」
一人で手を上げてさっさと先頭に立ち、部員たちも笑いながら後に続いた。
400メートルは最も距離の長い短距離走であり、人間がスプリント(全力疾走)出来る限界の距離だという。限界ぎりぎりの運動を強いられた筋肉は乳酸が大量に蓄積し極度の疲労を起こし、いわゆる「ケツ割れ」という臀部上部が割れるような激烈な痛みを感じることがある。ゴールした選手が四つん這いになって動けなくなっているのが時折見られるが、あれがそれである。大会のスケジュールにもよるが、決勝に進む者は今回の場合で言うと10時、13時、16時と1日に3回走ることになる。最も過酷なトラック競技と言われることもあるゆえんである。
3組で行われる準決勝でも1年男子は2年3年の選手相手にまだ余裕を残して1着でゴールした。
「マコトくーん、こっち向いてー」
と声を掛けたのは他校の女子生徒たちだ。彼は彼女たちの構える携帯のカメラに笑顔のVサインで答え、「キャ〜」ときいろい悲鳴を上げさせた。
ゲート前まで戻ってくると同級生の女子に
「おーおー、モテモテだねえ」
と角の生えた笑顔で言われた。
「ふっふー。人気者は気分いいぜ」
と憎まれ口を叩きながら、男子はうん?と後ろの席に視線を向け、ちょこんと頭を下げた。
女子が振り向くと帽子を被った中年の男性が『おっ』とちょっと慌てた様子を見せたが、ニヤッと笑って手を振った。女子は誰だろう、どこかで見たような、と思った。
「タッキー。今そこ行くわ」
男子は言ってゲートに入っていき、
「え、ちょっと、こらあ〜」
仲間たちはスタンド裏のシートに帰ってしまい、一人取り残された女子は誰だか思い出せないおじさんに『やあ』と笑顔を向けられて『どうも〜』と曖昧な笑顔を返し、『さっさと来やがれ〜』と男子を呪った。
トレーニングウェアを着た男子がやってきた。
男子は悪戯っぽい笑顔で
「こんにちは。またお会いしましたね?」
と中年男性に言った。中年男性の方も
「顔を覚えられちまったかい?」
と悪戯の見つかった悪ガキのような笑顔を見せた。
ちょっとちょっと、と女子がすり寄ってきてこっそり訊いた。
「ねえ、誰?」
「知らない」
「はあ?」
呆れる女子を『なんだよ?』とこっちこそ呆れたように見て、男性に言った。
「中学……どころか、小学校の大会の時から毎回見に来てますよね? よその学校のコーチでもないみたいだし、ずいぶん熱心……と言うか、平日の昼間っから暇ですねえ?」
ははは、と男性は愉快そうに笑った。
「馬場 理(ばば まこと)くん。それと代根 多喜子(しろね たきこ)くん。ま、一応はじめまして。わたしは熱心な陸上競技ファンで、とりわけ、馬場理君、君のファンだ。いかにも暇人に思われるのもしゃくだから自己紹介しよう。わたしは青陵(せいりょう)大学陸上部コーチの亀潟(かめがた)という者だ。これから、是非、よろしく頼むよ」
1年男子=馬場理は相手の正体は分かったものの、やっぱり呆れて訊いた。
「大学のコーチって、小学生の大会まで一々見に行くものなんですか?」
「関係者に知り合いが多いからね、暇があれば顔を出すよ。おっと墓穴だ、自分で暇だと白状しちまった」
はははと亀潟と名乗る男性は上機嫌に笑った。亀潟はにやけた口元でじっと理を見て言った。
「万全の仕上がりか。決勝が楽しみだね。大会記録、なんてつまらん物を狙っているわけじゃなかろう?」
「さあ、どうでしょう? あんまりでかい口たたくとしばかれますんで」
と言いながら理はとなりをおどけた目で見た。亀潟はニコニコ眺め、
「今の内に予約だ。大学は是非うちに来たまえ。君なら今の時点で内定を約束するぞ」
と笑いながらも本気の声で言った。するととなりの女子が言った。
「いえ、駄目です。こいつ、東大経済学部に入学が決まってますので」
亀潟は目を瞬かせ、
「ほお、君は頭もいいのか?」
と訊いた。
「ええ、もう嫌味なくらいの文武両道のスーパーマンぶりで。欠点はスケベなところだけです」
と女子が注釈した。
「誰が欠点だ。健康な男子がスケベでなくてどうする?」
「あんたはあけすけ過ぎるのよっ」
「むっつり助平よりよかろうが?」
「欠点その2はその口の軽さね」
「仲が良くてけっこうだね」
亀潟に言われて二人は赤くなった。
「ともかく、決勝進出おめでとう。記録、期待しているよ? ついでにうちの大学のこともよろしく」
ニコニコ笑う亀潟に挨拶して二人は階段を上がり、裏側へ下りていった。
二人の後ろ姿を見送った亀潟は、人のいい笑顔を消すと、ジロッと上の通路に立って双眼鏡を手にしたスーツ姿の男性を見た。
スーツ姿の男性は手すりから身を乗り出すように階段通路に入っていった二人を見ていたが、ふと亀潟の視線に気付き、ばつが悪そうに横を向いた。
亀潟は体を元に戻すと、
「どうやら俺以外にも熱心なファンがいるようだな」
とうそぶいた。