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1  最悪と予想外


 フィオレンツァ・ディラーナは頭を抱えた。まだ夜明け前の暗い部屋の中。一流の調度品に囲まれ、天蓋付きの上質な寝台で目が覚めた。名前も知らないはずの一人の女声の人生を夢という形で追体験したためか、背中や首や額はびっしょりと汗をかいている。


(私、転生してるんだけどっ!?)


 ピンクレッドの美しくやわらかい髪が肩から流れ落ちる。シルクのネグリジェは精緻な刺繍が施されており、触れたら壊してしまいそうだ。そして極めつけは紅葉よりは少し大きい手のひら。幼児特有のふっくらとした肌は滑らかで、前世とは程遠い良い暮らしをしているのが一目でわかる。


 声を出せば誰かが駆けつけてくるため出せないが、彼女は叫び出したい欲望に駆られた。


 どうしてこんなことになった。ブラック企業で働いていたのではなかったか。いつも通り残業をしてコンビニでお弁当とお茶を買い、ふらつく足取りで家路についたはずだった。寝つきが悪く、若干発熱していたが仕事が繁忙期に入ったおかげで休むわけにはいかず出勤したのが間違いだった。


 急に飛び出してきた大型トラックに彼女は弾かれた。鋭い痛みが走り、もうダメかと思われた。


 ところがどうだ。彼女は今、それなりに余裕のある家の娘に転生した。なんと貴族令嬢である。こなしてもこなしてもわいてくるゴキブリのような仕事から解放され、ふかふかと布団でぬくぬくと惰眠を貪れる状況にある。彼女はいるかもわからない神に感謝した。



―――転生先がフィオレンツァでなかったならば。



(どう頑張っても死ぬ運命にある悪役令嬢に転生とか、どういう仕打ち!? 私がなにをしたっていうんですか!? あんまりじゃないですかぁ!)


 ここは大学生の妹がハマっていた乙女ゲームの世界。プレイしたのは一回だけで全ての情報を知っているわけではないが、現状を正しく理解した。彼女の転生先はヒロインの宿敵である極悪非道な悪役令嬢、フィオレンツァ・ディラーナだった。

 今はまだ幼いが、いずれはグラマラスボディーと豊かなロン毛縦ロールの美女へと成長する。猫のようなツリ目と形の良い鼻や口がバランスよく配置された顔は美しく、傾国の美姫という看板まで与えられる。高圧的で傲慢。侯爵令嬢で皇太子の婚約者という肩書が彼女を助長させ、後に入学する学園では彼女は女王の地位を確立する。


 皇太子やその他攻略対象に近づくヒロインを敵視し、公衆の面前で自分で虫を食べさせたり、お菓子や香水に薬品を仕込んだり、破落戸を雇って襲わせたり、それはもう散々なことをしてヒロインをいじめ抜く。

 攻略対象らは彼女を守ろうと奮闘し、フィオレンツァに罰を科す。それは追放や修道院送りなどという甘いものではなく、火炙りや水牢、市中引きずり回しの上磔獄門上等といった感じのハードでワイルドな刑ばかりだ。それはどのルートを選んでも同じだと妹が語っていた。想像するだけでも身震いする。


(い、生き残らないと⋯⋯⋯⋯今度こそまともな生活を勝ち取ってやる!)


 フィオレンツァは決意を新たにした。



「お目覚めになられてよかった! お嬢様はもう二日も眠ったままだったのですよ」

「えっ」

「熱も引かず、一時はどうなることかと⋯⋯」


 朝になると水桶を持ってきた侍女が、ベッドの上で難しい顔をする彼女を見て叫び声をあげた。水桶をひっくり返し、小さな彼女の身体をペタペタと触って異常がないか確認し、涙目で抱きついてきた。主人に対してその態度はどうなのかという疑問はさておき、フィオレンツァは久しぶりの人の温度に涙がこぼれ落ちた。


 侍女の名前はリゼッタ。たしか、大きくなったフィオレンツァがこき使いまくるかわいそうなほど有能な彼女はオレンジ色髪をだんごにして後ろでまとめている。今はまだまだ若く見習いの身だが、男爵家出身ゆえか所作は美しい。礼儀を重んじる貴族の出である彼女がそれを欠いてまで抱きついてきたということは、この家でフィオレンツァはまだ可愛がられていると見ていいだろう。それならこれから傲慢にならないよう気をつけていればなんとか修整していける。フィオレンツァはそっと息を吐いた。


「あら、お嬢様、今日は随分落ち着いていらっしゃるのですね」

「ん?」


 こてんとかわいらしく首を傾げるリゼッタに、フィオレンツァも真似をして首を傾ける。眉根を寄せて困惑している彼女は、よくわかっていないフィオレンツァに衝撃的なことを語った。


「いつもは私が触れたらお怒りになりますのに」

「ゑ」

「私の髪を引っ張って頭を踏みつけにしてハサミを首に突きつけて、高らかに笑って解放してくださいますよ。うふふっ」

「え゙」

「今日はしてくださらないのですか?」

「⋯⋯⋯⋯ヱッ」


 どうやらリゼッタにはマゾのケがあるらしい。全身にサブイボが走り、フィオレンツァは彼女から距離を取った。なるほど納得だ。彼女はフィオレンツァの仕置きを喜んで受け入れるため、そばにいることを苦痛に思わなかった唯一の人物なのだ。だからこそ高慢ちきな主人のどんな命令にも応えてみせた。もしかしたらヒロインへのイジメ―――というかもはや殺人未遂なのだが―――の内容には彼女のアイデアが含まれているかもしれない。


 いい天気ですねぇ、なんて呑気にカーテンを開けていくリゼッタを目で追いながら、フィオレンツァはまるで猫のようにフーッと唸って彼女を警戒した。


「あ、そういえば、今日は婚約者様がお見舞いにいらっしゃるそうですよ」

「えっ」


 先程から『え』しか言っていない気がする。フィオレンツァの幼い脳ミソがフル回転を始めた。

 フィオレンツァはすでに侍女に対して数々の暴行を加えるほど威張り散らしているらしい。ならばこれから良い子にしますよ作戦は効果が薄いかもしれない。もちろんヤケになって暴れ回るつもりはないが、もう引き返せない所まで来ているのかもしれない。乙女ゲームのヒロイン至上主義のルールがこの世界で適用されたなら、フィオレンツァの明るい未来はどの道やってくる。


(やばいやばいやばい! 婚約者と別れてなるべく関わらないようにしないと!)


 でなければいずれ殺される。せっかく転生したのだ。前世のような苦しいだけの人生なんてごめんである。拳を握って決意を固める。


 顔を上げると、いつのまにか入口にこぼした水と水桶を片付け、朝食の準備を終えたリゼッタがそばに控えていた。眼前には美味しそうな一流シェフの料理がある。フィオレンツァは久しぶりの人の手で作られた食事に涙しながら食した。『お嬢様が完食された!』と屋敷中で騒ぎになったのはまた別の話。



□□□


 午後一番に婚約者―――アルヴァーノ・カンデラリオ第一皇子はやってきた。土産に帝都で有名な、数日ならばねばならいという菓子屋のケーキを携えていた。


「よっ 体調はどう?」

「⋯⋯おっ、おかげさまで、だ、だいぶマシにな、なりましたですわ」

「なりましたですわ? どした? まだちょっと不調か?」


 この世界の記憶は前世でゲームとして知っているもののみ、フィオレンツァとしてのものは一切ない。ゆえに今まで彼女が覚えたマナーやら作法やらはすべてリセットされている。フィオレンツァは青い顔で俯いた。ボロを出す前に彼に帰ってもらわねばならない。しかし婚約解消について話し合いたい。彼女は混乱した。


「ふむ。あまり無理はするな。俺もこんなときに来て悪かった。すぐお暇させてもらうよ」


 気を悪くした様子はなく、ただの体調不良と受け取ったらしい彼はすぐに立ち上がって部屋を去ろうとした。彼の背後に控えていた従者がそれに追随しようと一歩踏み出す。 


(ダメだ。今帰られたら、せっかくの決心が遠のく!)


 フィオレンツァは必死だった。それゆえにテンパっていた。



「わ、私と婚約解消してくださいッ!」



 話せない人が初めて話すときのように声音を間違えて、大きな声で彼女は叫んだ。


(ぁ⋯⋯終わった)


 皇族に対する無礼だと、皇子の従者やリゼッタの顔から察した。従者の獣を射殺すような目は、決して蝶よ花よと育てられている甘ちゃんの幼女に向けられるものではない。リゼッタは焦った。


 一瞬にして部屋の空気が凍りつく。


 フィオレンツァ本人はやらかしたことに気づき、魂が抜けかけていた。だが、当の皇子―――アルヴァーノは。


「……は?」


 ぽかんとした顔で固まった。次の瞬間、彼はゆっくりとフィオレンツァの方へ歩み寄る。従者が慌てて止めようとするが、彼は手で制した。


「フィオレンツァ。今……なんて言った?」


 優しい声。怒っている気配はない。むしろ、信じられないものを聞いたような、そんな声音で彼はフィオレンツァに問いかけた。


(やばい……やばい……やばい……!)


 フィオレンツァは震えながら口を開く。威圧感はないが、妙なプレッシャーを感じて体を縮こませる。それでも言ってしまったものは仕方がない。緊張する口をなんとか開閉させる。


「こ、こ、婚約解消……を……」


 アルヴァーノはしばらく黙って彼女を見つめた。その瞳は琥珀色で、ゲームで見たものと何も変わらない。それよりきらきらと輝きが増しているかもしれない。前世の彼女が唯一プレイして選んだルートがまさにアルヴァーノで、辛い毎日のなかでひとつだけ癒しをくれた存在。フィオレンツァはその人の美しい瞳に魅入ってしまった。


 怯える彼女を見て、彼はふっと笑う。


「熱、まだ下がってないんじゃないか?」

「ん? え?」

「とりあえず今日は休め。婚約解消の話は熱が完全に下がってから聞くよ」


 そう言って、彼は本当に心配そうにフィオレンツァの額に手を伸ばした。


「っ……!」


 フィオレンツァは反射的に後ずさる。アルヴァーノは困ったように笑った。そしてすぐに手を離すと従者に軽く指示を出してから、扉の前で振り返った。


「また来るよ」


 その笑顔はゲームの中でヒロインが落ちる攻略対象の微笑みそのものだった。


(絶対来るなッ!)


 残念ながらフィオレンツァの心の叫びは、誰にも届かなかった。


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