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「ミカゲさん、その、ありがとう……!」
闇に溶けて消えようとするその背中に、まふゆは慌てて声をかける。
感謝の言葉。心からの、純粋な響き。
その声に、ミカゲの動きがぴたりと止まった。
影に半分溶けかかった身体が、ゆっくりと現実に戻ってくる。
彼は振り返り、部屋の薄闇の中、まふゆをじっと見つめた。その黒い装束の下で、黒の瞳が静かに揺れているように見えた。
「…………」
彼は何も答えない。
礼を言われることなど、彼の人生であっただろうか。
任務を遂行し、対価を受け取る。あるいは、失敗して罰を受ける。彼の世界は、それだけのことで構成されていた。感謝という、温かく形のない報酬を受け取った経験は、おそらく一度もない。
……暫しの沈黙。
ミカゲは、どう反応していいか分からないようだった。
やがて彼は、何かを振り払うかのように小さく首を振ると、再び影の中へ姿を消そうとする。
「……礼は、いらない」
その声はいつも通り抑揚がなかったが、どこか戸惑いを含んでいるようにも聞こえた。
「また、明日。おやすみなさい」
その穏やかで、当たり前のように明日を約束する言葉。
彼は振り返らない。だが、その背中が、今まで経験したことのない感情に揺れているのが分かった。
「ありがとう」という言葉も彼を戸惑わせたが、「おやすみなさい」という日常の挨拶は、彼の孤独な世界には存在しない、温かい光そのものだった。
闇の中、ミカゲは何も言えない。
ただ、その言葉を反芻するように、しばしの時が流れる。
……やがて彼は、振り返らないまま、闇の中からかろうじて聞き取れるほどの小さな声で、何かを呟いた。
「……ああ」
それは肯定か、あるいはただの相槌か。
しかし、その一言には、彼の戸惑いと、そして拒絶ではない何かが確かに込められていた。
次の瞬間、ミカゲの姿は完全に影の中に溶けて消えた。
後には、静寂と月の光、そして「おやすみなさい」という言葉の温かい余韻だけが、まふゆの部屋に残されていた。
一人になったまふゆは、今日の出来事を思い返し、恐怖と安堵で全身の力が抜けていくのを感じる。
ミカゲが守ってくれたこと、彼を危険に晒してしまったこと、そして自分の力が引き起こした奇跡。
感情の嵐が過ぎ去った心に、今はただ、疲労感だけが重くのしかかっていた。
彼女は鍵をかけるのも忘れ、そのままベッドに倒れ込むと、深い眠りへと落ちていった……。
第一話・了




