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「……あ、」
しばらく泣いて落ち着いたまふゆは、ふと、窓の外がすっかり深い夜になっていることに気づく。学園の鐘が遠くで鳴ったような気さえする。
「ど、どないしよ……!寮の門、もう閉まってる……!入れへんやん…!」
先ほどの命の危機とはまた違う、現実的な焦りが彼女の心を支配した。
涙で濡れた顔のまま、慌てて立ち上がり、どうしよう、どうしようと小声で繰り返しながら部屋の中を落ち着きなく歩き始める。
寮の規則は厳しく、無断で門限を破ればどんな罰則が科せられるかわからない。
(ミカゲさんは影を伝って戻れるかもしれへんけど、うちは……うちはどうしたら……!)
その様子を、壁に寄りかかったミカゲは静かに見ていた。
慌てるまふゆの姿をただじっと観察している。面白がるでもなく、焦るでもなく、ただ静かに。
その視線に気づいたまふゆは、助けを求めるように彼を見上げた。
「……どうした」
落ち着いた、低い声が部屋に響いた。
「学生寮、門限終わってるんです、ミカゲさん…!」
助けを求めるように、潤んだ瞳でミカゲを見上げる。
その必死な声と表情に、ミカゲは先ほどまでの静かな観察をやめ、壁から背を離した。
「……ああ、そうか。門限、か」
まるで自分には関係のないことのように、彼はぽつりと呟く。
影人である彼にとって、壁や扉など障害にすらならない。寮の門限という規則は、彼の思考の外にあったのだろう。
しかし、まふゆの焦りは彼にも伝わっていた。
彼女がこの世界の規則の中で生きている人間(いや、エルフだが…)であり、それを破ることに恐怖を感じていることを、彼は理解した。
「……心配するな」
彼は短く、そう告げる。
「あんたが俺を選んだ。俺はあんたを守ると決めた。……寮に帰すくらい、造作もない」
その言葉には、絶対的な自信が満ちていた。
彼はまふゆに歩み寄ると、再び彼女の手を取る。先ほど影に引きずり込んだ時と同じ、力強い、しかし不安を取り除くような温かみのある握り方だった。
「目をつぶれ。少しだけ、我慢しろ」
低い声でそう言うと、彼はまふゆの手を引いて、月明かりが床に落とす濃い影の中へと、躊躇なく一歩踏み出した。
「……ん、」
まふゆはミカゲに言われた通り、ぎゅっと目をつぶる。
先ほど体験した、影の中へと沈み込む不思議な感覚。怖くないと言えば嘘になるが、今はミカゲを信じるしかなかった。なにより、彼の手は力強く、絶対に離さないという意志を感じさせてくれる。
ミカゲはまふゆの手を引いたまま、部屋の隅にある最も濃い影の中へと足を踏み入れた。
再び、世界から音が消える。
冷たくも温かくもない、絶対的な無の感覚が全身を包み込む。
────次の瞬間。
ふわりと、身体が現実世界へと押し出される感覚。
耳に届いたのは、虫の音と、布が擦れる微かな音。鼻腔をくすぐるのは、埃っぽさとは違う、清潔なリネンと花の香り。
そこは、まふゆの自室だった。
窓から差し込む月明かりが、見慣れた家具や、ベッドサイドに飾った桜の国の小物を照らし出している。
「……着いた」
彼は短く告げると、まふゆの手をそっと離す。
そして、まふゆが無事であること、部屋に異変がないことを確認すると、すぐに踵を返し、再び影の中へ戻ろうとする。まるで、自分の役目はここまでだとでも言うように。
その背中は、何も語らない。感謝も、別れの挨拶も求めず、ただ静かに闇に帰ろうとしていた。




