1-2 動揺する使用人
翌朝。
いつもなら、夜明けと同時にエレナの布団をはぎ取りに来るエミリーが来なかった。おかげで私は気が済むまで眠ることができた。自然な目覚めの何と気持ちの良いことか。
私が起きた気配は感じているだろうに、誰も朝の支度の手伝いに来ない。まあ、いつものことだ。ひとりで着替えて食堂に向かう。
廊下ですれ違う使用人の顔を見て、私はフルネームで呼び捨てにする。目を見て、はっきりと。どちらが上の立場か明らかにするために。全員の名前を覚えているぞというアピールのためでもある。エレナは、少しでも侯爵家に馴染もうと、努力して使用人の名前を覚えたのだ。
『おはようございます』の挨拶をしたか。あるいは『はい』という返事をしたか。それとも、頭も下げず無言を通すか。私は手帳に記入していく。だがすぐに止めた。誰も口を開かない。記すまでもなかった。
食堂で食事を待つ。
エミリーによって、冷めた貧しい食事が並べられた。私はそれも記入する。硬くなったパン、色の変わったチーズ、萎びた野菜サラダ、申し訳程度にベーコンが浮かんだスープ。最初はここまで酷くはなかったと思う。
「あの、奥様、何をしているのですか」
恐る恐る、エミリーが代表して声をかけてきた。マルタは遠くの壁際だ。
「ええ、リスキン侯爵家の朝食を記録しておこうと思い立ったの。いつか本当に没落した時に、昔もこんな食事で我慢していたのだから、と子孫に伝えるためよ。ところで」
と、脈略もなく私は席を立って、厨房に向かって走った。
ドレスは本来なら走りづらいが、さいわい生地が薄っぺらで軽い。靴もヒールがほとんどないので走りやすい。
突然のことに、使用人たちは動くのが遅れた。エレナは実家でもよく働いていたので、動きは機敏だ。すぐに厨房にたどり着き、使用人たちのまかないの朝食を確認する。椅子に座って食べていた使用人は、面食らって動きを止めた。その後ろに立って、声に出してメニューを言う。
「湯気の立ったトマトとベーコンのスープ。柔らかそうな焼き立てのパンね。瑞々しい野菜もこのお屋敷にあったのね。スクランブルエッグにはバターをたっぷり使っているし、ソーセージも美味しそう。あなたたちの朝食は素敵ね。これも記入しておきましょう。領主は自分は我慢してでも、使用人に美味しい食事を提供するのが侯爵家の家訓かしら。旦那様がお帰りになったら聞いてみるわね」
私は、石のように動かない料理長の名前を呼ぶ。
「悪いけれど、私は侯爵夫人の朝食メニューは口に合わないみたい。使用人のまかないと同じものが食べたいわ。今すぐ持ってきて」
料理長は、侍女長のマルタの方を見るが、マルタは俯いて目を合わせない。
「どうしたの? あなたの上司はマルタなの? それも記入しておくわね。命令系統が侯爵家と伯爵家では違うのか確認しておかないと。じゃあ、エミリー、あなたが運んできて」
エミリーは慌てて一人分の食事をよそい、ワゴンに載せて食堂に運んできた。
「ありがとう」
私はエレナの身体で、美味しい食事をいただいた。
使用人たちは、いつもと様子の違うエレナに、反発というより動揺していた。やっていることは圧倒的に自分たちが悪い。若奥様を冷遇するのは旦那様の指示ではない。一介の侍女長の思い付きに乗っただけだ。知られたらどうなるか。
「おい、マルタ、あれはやべーぞ。今までわざと爪を隠していたんじゃねえか。旦那様のいない時に、使用人がどういう態度に出るか報告することになってるかもしれねえからな」
「式を挙げてから二人で話す時間もなかったし、全然会話しているところなんて見なかったわよ」
「だとしてもだ、今朝の朝食を報告されたらアウトだろう。昨日医者を呼んで体中の痣の診断書を書いてもらったらしいじゃねえか」
「あーあ、面白がって小突いてたやつ、どうなるかな。旦那様だって、今は奥様の見た目が子供っぽ過ぎて手を出さないだけで、年ごろになればそれなりに関係を持つだろ?あの女たらしだ。そん時に、俺たちのしたことを告げ口されたらまずいだろ。俺は下りるからな。前みたいに真面目に働く。わざと不味いもの出すって、料理人としてやっぱ気分悪いわ」
「私も最近シーツの洗濯をしてないのが気になってたから、行ってくる」
こうして、侍女長マルタの声がけで始まったエレナへの嫌がらせは止むことになった。
エレナに手を出していたのは主に侍女と部屋の掃除を担当しているメイドだった。ドレスに隠れた部分なら気付かれないと思ったのだろう。まさか医者を呼び、診察を受けるとは思わなかった。先行きに不安を感じ、その不安はマルタへの恨みに変わった。
「な、何よ、みんな楽しんでやっていたでしょう。私だけのせいにしないでよ」
「だいたいあなたが言い出さなければ・・・」
「いちばん先に手を上げたのは・・・」
云々。
私は厨房から聞こえてくる使用人たちの話を聞いていた。声を潜める配慮も忘れているらしい。
「ごちそうさま。さてと、使用人の人事について執事と話をしに行きましょうか」
私はわざと周りに聞こえるように言って、食堂を出た。後ろで騒ぎ声が大きくなったが、知ったことではない。
執事のアルバーノとは、初めて侯爵家を訪れた時と、結婚式の当日にしか直接顔を合わせていない。
その短い時間の印象では、話し方に品があり、さすが高位貴族の執事であると思わせる知性を感じた。
それなのに、使用人がこれだけ好き勝手やっているのに咎めもしないのはなぜなのか、侯爵のジュリオの放蕩をいつまで黙って見ているつもりなのか、聞いておきたいと思った。
ノックをして侯爵の執務室を覗くと、アルバーノではない見知らぬ男が、主の椅子に座って書類仕事をしていた。
「おはようございます」
私が挨拶をすると、男はようやく顔を上げた。
「これは、奥様、おはようございます。こんなところまで何の用です」
明らかに面倒くさそうな態度だ。
「執事のアルバーノさんに聞きたいことがあって来たのですが、こちらにはいらっしゃらないのですか」
「アルバーノはしばらく前侯爵様のところです」
「あなたは?」
「やつの代理です。執事代理。ルーティーンの仕事だけやっていれば良いというから引き受けました」
「執事代理さんは、どちらの方ですか」
束の間の代理だとしても、侯爵夫人であるエレナに、挨拶くらいはあっても良かったはずだ。
「アルバーノは父方の遠縁です。それと、学生時代の友人でもある、マッテオ・サルトーリと申します。以後、お見知りおきを」
胸に手を当て芝居がかった礼をした。
「それで奥様の御用は何でしょう。こう見えて私も忙しいのですよ」
マッテオはわざとらしい笑みを浮かべ、脇に積み重ねた書類の山をぽんぽんと叩いた。
「では、単刀直入に。
まず、この家での私の扱いはどうなっているのか。
侍女や使用人たちの私への仕打ちを見過ごしているのには、理由があるのか。
旦那様は今どこで何をしていて、いつ帰って来る予定なのか。
最後に、アルバーノさんは、なぜあなたのような人を執事代理に据えたのか。
お聞かせ願えますか」
マッテオの笑顔が固まった。
「私のような、とは聞き捨てならないセリフですね。どういう意味でしょう」
「たとえ代理だとしても、使用人の監督と言う職務を全うできないような、という意味です。仮にも侯爵夫人である私を使用人たちが蔑ろにしているのはご存知ですよね。マルタが声高に話して回っていましたから」
「たかが食事が一、二品減ったくらいでしょう。大したことではないですよね」
「食事の具体的な内容については?」
「量も足りないのですか。それほど動き回らないのですから、腹も空かないでしょう」
「使用人のまかないの方がよっぽど充実しているのを、今朝厨房で確認しました。料理長に言って、これからは私にもまかないと同じものを出してもらうことにしました」
「は? 奥様にまかない以下の食事を? 例えば今朝はどんな内容でしたか」
私はマッテオに手帳を見せた。
「硬いパン、チーズ変色あり、萎びた野菜、スープにベーコン少々・・・。これが、本当に?」
マッテオは信じられないという顔で私を見た。
「ええ。少しずつ皿数を減らされ、内容も貧相になり、今はこれです。いかがです? まかないをお願いしたくなる気持ち、分かるでしょう?」
マッテオは答えない。答えられないのが何よりの答えだ。
「それから、私が日常的に暴力を振るわれていたことも知っていますよね」
「ああ、それもお遊び程度でしょう。所詮は女の力ですし。派手な痣くらい、うっかりテーブルにぶつけたってできますよ」
「所詮は女の力と言いましたね」
『エレナ、見ていて。言葉より先に分からせるから』
私は右手を拳固にかため、机を回り込み、マッテオの横に立った。そのまま無言でマッテオの頬を殴った。
ガタン、という音とともに、マッテオは椅子ごと倒れた。呆気に取られて私を見上げている。
私はこれまでの人生で人を殴ったことなどなかった。もちろんエレナもだ。だから力の込め方なんて分からない。もっと体重を乗せればよかった。
「な、何をするんだ」
「殴りました。たった一発です。私がこれまで何回叩かれたか知っていますか。唯一止められる立場のあなたが見過ごすから、私は甚振られ続けたのです。これくらい甘んじて受け入れてください。それに、所詮は女の力だったでしょう?」
マッテオは、まさか自分が殴られるなどと思っていなかったのだろう。言葉が続かない。だから私が聞く。
「殴られるって、どんな気持ちですか」
マッテオは腫れてきた頬を抑えながら立ち上がり、再び椅子に座った。
「奥様も、座ったらいかがです」
マッテオに促されて、私もソファに腰を下ろした。
「だいたいそこまで反撃できるなら、今までだってやりかえしたら良かったじゃないですか。抵抗しないから使用人たちが付け上がるんですよ」
「つまり、私自身が反撃すべきだからと放置していたのですか」
「いや、正直そこまで酷いことをされているとは思いませんでした。町医者を呼んで怪我の診断書を書いてもらったのだって、大袈裟だなと思ったというか・・・。現に昨日はマルタを倒して蹴り飛ばしたそうじゃないですか。私の出る幕なんてなかったですよ」
マッテオは分かっていない。大袈裟なものか。エレナの心はすでに限界だった。
しかし、それを説明することはできない。私がここにエレナとして生きているからだ。ここは吞み込んで話を進めるしかないのが悔しい。
「そもそも旦那様が、こうまで長く留守をするのは、なぜでしょう。メイドたちの噂話では、これまでは外泊してもせいぜい二日。今回のようにひと月以上出かけているのは珍しいことのようですね。なにしろ信用のない旦那様は、それほどお金を持たせてもらっていないから。愛人の女優さんだって、そうそう舞台を休むわけにいかないでしょうし。
さて、旦那様は、今どこにいるのでしょう。執事代理のあなたが、知らないわけはないですよね」
追及すると、マッテオは頭の後ろで両手を組んで、椅子の背に凭れかかった。
「あーあ、厄介なことを引き受けちまったな。こんなことなら、もっと報酬を釣り上げておくんだった」
私は、その行儀の悪さを苛立たしく思ったが顔には出さず、マッテオの返答を待った。
沈黙はしばらく続いた。
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