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覚醒 ドアマット夫人《改稿版》  作者: バラモンジン


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1-1 ドアマットからの脱却

1-1~1-3が改稿前の前編、2-1~2-3が改稿前の後編にあたります。


 小さな頃から私の中に誰かがいた。

 私がつらい思いをすると、私をいじめるやつを殴れとばかりに腕をぶんぶん振り回す。『いい?分かった?』と言いながら、人差し指をこっちに向けてお説教してくる。それから両手を腰にあて、偉そうにふんぞり返る。鼻息がすごい。その姿がおかしくて、つい笑ってしまう。

 私が笑うことを忘れずにいられたのは、彼女のおかげだ。



 ◇    ◇    ◇



 私はずっと夢を見ていた。

 忙しい仕事の合間に読んだライトノベルのドアマットヒロインみたいな夢。

 だけどイライラする。耐えてるだけで何もしない。

 反抗しろ!自分で立ち向かえ!ヒロインに向けてエールを送る。

 するとなぜかヒロインは笑う。笑顔が可愛くて、悲しくなる。



「ほら、いつまでそこで倒れているんです?エミリーが掃除をするのに邪魔になるので、どいていただけませんか」


 頭上から声がする。大きな声が頭にガンガン響く。なんなの?


「さっさと移動していただかないと困るんですよ」


 誰の声? マルタ? マルタって、誰だっけ?

 混乱する私の脇腹を、誰かが蹴った。


「ほら、さっさと起きて」


 薄目を開けると、片頬を床につけて倒れている私に、靴のつま先が向かってきた。顔を狙っている。冗談じゃない。明らかに怪我をさせる気だ。

 私はとっさに右腕を上げ、すんでのところで黒いパンプスを掴んで思い切り引っ張った。


「きゃああっ」


 ドタッという重い音がして、女が床に転がった。


「痛っ!何をするのよ」


「『何をするのよ』は、私のセリフだわ」


 私は起き上がった。体のあちこちが痛い。たぶん転んだ時に打ったところと、さっきこの女に蹴られたところ、そして、いつ何をされたのか分からないあちこちの痛み。たぶん日常的に暴力を振るわれていたのだろう。


 立ち上がって女を見下ろした私は、この女がマルタで、夢の中に出てきた女の子を甚振いたぶっていた侍女長だと分かった。見覚えがある。この憎々しげな面構え。


 そして私は今、あの女の子だ。結婚して女の子という年ではないが、何もできなさ加減は、頼りない少女の頃のままだ。だからこんな使用人に見下されて、蔑まれる。


『見てなさい、エレナ。あなたがまだこの体の中にいるのなら、反撃ってこうするのよ、っていうのを見せてあげる』


 私は、転がっているマルタの腹を思い切り蹴った。


「ぐぅふっ」


 マルタは体を丸めてえずいた。


「こんなことを、して、ただですむと、思って、いるんですか」


 苦し気にマルタが言葉を絞り出した。


「そうね、大変だわ。エミリー、掃除はいいからお医者様を呼んできなさい。主治医ではなく、町医者を、今すぐ!」


 強く言うと、エミリーは駆け出していった。


「さあ、お医者様に診ていただきましょう。怪我をしていたら大変だわ」




「これは、酷い・・・」


 医者に体を診てもらうと、あまりの痣の多さに絶句していた。部屋の隅で、マルタとエミリーが青くなって立っている。

 私の腕や肩、腹、背中、腿、ふくらはぎ、膝と、痣のないところが無いほどだ。


「しかも、古いものから新しいものまで、青や、黄色や、色とりどりですな。なぜこれまで黙っていなさった」


 年寄りの医者は、呆れて言った。


「反抗すると、さらに酷くされるので・・・」


 私は気弱だった彼女の振りをして答えた。


「あの、そこのマルタも怪我をしていると思うので見てあげてください。女主人の私がここまでされているのです。使用人はもっとひどい目に遭っているかもしれません」


「そんな、奥様、私は大丈夫です」


「いや、これは正式に記録しておかねばならない案件ですぞ。貴族家という密室でこのような暴力沙汰はもみ消されてしまうものだ。今後たとえば離婚とか、解雇とかいう事態に追い込まれた時、証拠として提出できるものがあれば強みになる。奥様の厚意を受け取って、診断書を作っておく方が良い。さあ、来なさい」


 医者は私の姿に同情して、すっかり協力的だ。

 しかし、マルタの身体の痣がお尻と腹の二か所だけで、拍子抜けしたようだった。


「なるほど、使用人の方は、転んだ時の痣だけのようですな。他は健康そうで何よりだ。ところで、この家のご主人はご在宅かな」


 私は分からなかったので、マルタを見て、答えなさいというように顎を上げた。


「旦那様は、ここしばらく帰ってきておりません」


「ほお、・・・なるほど」


 とだけ言って、マルタに不審げな目を向けた。女主人の痣は、誰がやったのだろうな、と言っているように見えた。マルタの顔色が一段と悪くなった。


 医者はさらに続けて言った。


「言っておくが、町医者だから黙らせることができると思わない方がいい。ワシは引退前は王宮に勤めておったのでな。頼りになる知り合いは山ほどいる」


 私は老医師に、診断書は私の手元に置くと盗まれたり廃棄されたりするかもしれないので、診療所に保存してほしいとお願いした。医師は快く引き受けてくれた。



 医師が帰った後、私はしばらく一人になりたいからと言って、自室にこもった。

 夢の中の彼女エレナと、自分のことをきちんと思い出さないといけない。

 

 私はエレナから体を委ねられたことで、彼女の記憶も引き継いだようだった。



  ◇    ◇   


 

 エレナは、ダンスキン伯爵の長女だった。


 伯爵領の主な産業は牧羊と毛織物の生産で、安定した税収を得ていた。堅実といえば聞こえはいいが、伯爵には販路を広げる気概も、新製品を開発する才能もセンスもなかった。


 他の領で始まっている自動織機への移行が本格化して、より質の良い毛織物が安価で大量に出回るようになれば、瞬く間に価格競争で負けて、領の財政は先細っていくだろうと思われた。


 エレナの家族は両親と兄二人で、エレナ以外は王都のタウンハウスで暮らしていた。エレナは生まれた時から領地に留め置かれ、早くに隠居した祖父母に育てられた。理由は、母と折り合いの悪かった祖母に容貌が似ているからだった。特に、ブルネットの髪色が嫌われた。濃すぎて暗いからと。


 自然の中で自由に育ったエレナは、貴族女性としてのマナーや教育を祖母から習った。淑やかであったが、いかんせん古臭かった。王都では、すでに廃れたマナーもあった。


 エレナが十歳の時、祖父母が相次いで亡くなった。

 そこでエレナは、王都で両親と兄と暮らすことになった。


 両親たちとは年に数日しか会わなかったので、エレナは彼らに懐かず、彼らもエレナには冷たかった。祖母譲りのマナーを笑い、田舎臭い言葉遣いとイントネーションを馬鹿にした。


「あーあ、こんなのが妹だなんて、恥ずかしくて友達に紹介できないよ。日焼けしてそばかすだらけな貴族令嬢なんて見たことないし。俺が友達を招いても出てくるなよ」


「そうね、パオロたちの婚約者探しに障りがあるから、エレナは表に出さないようにしましょう」


「いっそメイド服着てればいいんじゃないか。うっかり鉢合わせしても、俺の妹だとは気付かれないし」


 そんな兄パオロの言葉で、エレナはメイド服を着せられ、部屋も使用人棟に用意された。部屋だけでなく、使用人としての仕事も割り振られた。掃除と洗濯だ。


 領地でも手伝っていたのでそれ自体は苦にならなかったが、下働きの仕事に慣れていることで、また家族からバカにされた。


 こうした伯爵家の人々の態度を見て、エレナのことを『令嬢と認められない田舎娘』と蔑む使用人も現れた。中には、夫人や子息から理不尽な叱責を受けたからと、その鬱憤をエレナにぶつけてくる者もいた。


 十二歳から三年間は、貴族子女の義務として、王都の女学院に通ったが、家に帰れば仕事が待っていた。宿題などやる時間もなかったが、学院の授業を集中して聞いて、休み時間に宿題を済ませたので、成績は中の上くらいでいられた。そのことが、成績のぱっとしない兄たちの機嫌を損ねることになり、家での仕事を増やされ、睡眠時間を削ることになった。


 そんな日々をエレナがくじけず過ごせたのは、自分の中に昔からいる誰かが、エレナに精いっぱい応援をしてくれたからだった。


『あんなやつ、ぶっ飛ばしちまえ』『でっぷりした腹をなぐってやれ』『足払いをかけて転がしてしまえ』などと、身振り手振り付きでけしかけてくるのだ。そのあまりの熱演ぶりに、エレナはクスクスと笑いが込み上げてきた。エレナの願望が見せるエレナ応援団は、常にエレナに寄り添ってくれた。



 あれは、私だ。いじらしくてもどかしいエレナを、夢の中で全力で応援していた覚えがある。


 私自身の記憶の最後は、日本という国の地方都市で、高校卒業後、就職して七年目だった。仕事は順調だったが、コロナ禍を境に顧客が減り、社員を減らすという時に、私が肩を叩かれてしまった。営業成績も悪くなく、パートさんが足りない時は人一倍フォローしてきたはずなのに、なぜ私が、と聞いたら、『養う子どもがいる者を辞めさせるわけにいかないだろう』と言われた。


 まあ、それもそうか、と納得してしまった私は、その後どうなったのか覚えがない。何かの拍子に死んでしまったのか。意識がここにあるということは、あちらの私はもう存在しないのだろう。



 ダンスキン伯爵家のエレナは、女学院を卒業後、厄介払いのようにリスキン侯爵家に嫁がされた。侯爵家といっても名ばかりで、前侯爵夫妻の散財のせいで内情は火の車。嫁入りさせたい貴族などいなかった。そこにダンスキン伯爵が、『持参金なしでいいなら、うちの娘をやろう』と、猫の子でもあるまいに身一つで送り出した。



 エレナを受け入れたジュリオ・リスキン侯爵は二十六歳で、サーラという劇団女優の愛人がいた。ジュリオは中々の女たらしで、愛人のサーラに貢ぐどころか、サーラから小遣いをもらっていた。これも世間ではよく知られた話であった。取り潰しにならないのが不思議なくらいの体たらくである。領地も代官に任せきりで、不正があってもジュリオは気がつかないだろうと噂されていた。


 ジュリオに嫁いだ時、エレナは十六歳だったが、栄養状態が悪かったせいで、せいぜい十四歳くらいにしか見えなかった。結婚式は、神官一人とリスキン家の執事一人の立ち会いの元、署名をしただけで終わった。お披露目も何もなかった。ジュリオは、式当日に初めて見たエレナに全く食指が動かず、その夜から外泊して帰って来なくなった。


 エレナを夢の中で見ている私は憤懣やるかたなかったが、当のエレナは男性に免疫がなく、やたら顔がきらきらしい夫が帰って来なくてほっとしていた。無理もない、茶会に連れて行かれることもなく、女学院育ちで卒業したばかり、兄や父とも疎遠だったのだ。本当の夫婦になる覚悟が決まるまで、猶予ができたのは良いことだったかもしれない。


 主人が留守をしている侯爵邸では、予想できたことであったが、エレナは使用人に侮られた。

 何しろ初夜も済まさずに、主人は出かけてしまったのだ。侯爵夫人として認めていないということだ。それなら、自分たちも、奥様として敬う必要はない。そのように使用人の意識を誘導したのは、侍女長のマルタであった。


 マルタは子爵家出身で、ジュリオの婚約者がまだ見つからない時、ひそかに自分に声がかからないかと期待していた。財政がどうあれ、侯爵夫人の名と、見目麗しい夫というのはマルタの憧れであった。このまま婚約者が見つからなければ、伯爵家から妻を娶るのを諦めて、子爵家から探すのではと、同僚にもそんな話をして、すでに侯爵夫人になったつもりで立ち振る舞っていた。


 同僚の間では、『行き遅れの27歳に話がくるわけないだろう』と囁かれていたが、逆らってヒステリーを起こされるのは面倒だとばかりに、しばらくはマルタに従って、エレナを冷遇することにした。


 エレナに対する使用人の嫌がらせは、最初はささやかなものだった。


 食事の内容を通常より一品少なくするとか、シーツなどの交換をたまにサボるとか、部屋の掃除の手を気付かれない程度に抜くくらいのものであった。


 エレナの着替えの世話や髪の手入れなどは、マルタが雑に行った。


 世話と言っても下着や衣類を手渡すだけで、手は貸さなかった。髪は乱暴に梳いたので、エレナは痛さに呻いた。


「なによ、これくらいで大袈裟ね。だったら自分でやりなさいよ」

 

 マルタはそう言ってブラシをエレナに投げて寄越した。


 エレナはダンスキン家にいる頃から、虐げられることに慣れてしまっていたので、使用人たちの狼藉にも何ひとつ口答えせず、ひたすら耐えた。すると使用人たちはますます図に乗って、エレナを貶めることに抵抗がなくなっていった。


 メイドはあからさまに仕事の手を抜き始め、なぜこんな人が侯爵夫人なのかしらと、聞こえよがしに言うようになった。エレナが、おはようと声をかけても誰も返事をしない。掃除に来たメイドは、わざとらしく箒の柄をエレナにぶつけたり、手が滑ったと言って、脇腹を突いたりした。


 いちばん酷いのはやはり侍女長のマルタで、マッサージをしましょうと言って、力任せに体中を揉みこんだり、すれ違いざまに足を引っかけて転ばせたりした。


 これらの暴力は主にエレナの部屋の中で行われ、侍女やメイドが黙っていれば露見しないはずだった。しかし、マルタが他の使用人の前で得々と語ってみせたので、屋敷中の人間の知るところとなった。


 中にはこれに嫌悪感を覚える者もいたが、表立ってエレナを庇えば、とばっちりは自分に来ると分かっていたので、敢えて口を出さなかった。



 リスキン家における生活で、エレナにとって何より辛かったのは、誰も口を利いてくれないことであった。


 次期時期公爵夫人として丁重に扱ってくれないことよりも、見えないところでの暴力よりも、問いかけや挨拶に誰も答えてくれないことがこたえた。おまけにやることが何もない。まるで自分が存在していないかのようだった。


 実家のダンスキン家にいた時は、学校にも通っていたし、家では言いつけられた仕事もしていた。苦しくはあったが、確かに生きているという実感があった。


 それに比べて、ここでのエレナは空気のようだ。いてもいなくても同じ。これから先、幸せが待っているとも思えなかった。エレナの思考は内に向かってどんどん潜り込んでいった。




 ある日エレナは、何もかも放り投げて屋敷から逃げ出そうとした。準備もなく着の身着のままで、どこで死んでも構わないという覚悟で、玄関ホールに下りてきた。


『待って!待って、エレナ。私の話を聞いて。このまま逃げるなんてダメ。死ぬくらいなら、最後にこんな連中、全員殴ってからにしようよ。夫のジュリオも、一発お見舞いしてからじゃないと、エレナは成仏できなくて地縛霊になっちゃうよ』


 私の切羽詰まった言葉に、エレナが立ち止まった。


「じゃあ、私の代わりに、あなたが全員を殴って。お願い」


 その言葉と同時に、エレナは全身の力を抜いた。すると体がくずおれて、エレナは玄関ホールに伏した。


 そしてそこにマルタの声が降ってきたのだ。


「ほら、いつまでそこで倒れているんです? エミリーが掃除をするのに邪魔になるので、どいていただけませんか」



 その時、エレナの体の中で私が覚醒した。マルタの大声が頭に響く。


「さっさと移動していただかないと困るんですよ」


 マルタは躊躇なくエレナの脇腹を蹴った。


 痛みを感じたのは、私だった。エレナは本当に、私に身体を譲り渡してしまったようだ。

 今は、私がエレナだ。


 それから私は、エレナの体を蹴ったマルタを引き倒し、腹を蹴った。町医者を呼びに行かせ、診察を受け、使用人からの暴行の結果を診断書に残してもらうことに成功した。



  ◇    ◇


 

 エレナと私の記憶の擦り合わせが終わった。


 私はエレナのベッドに寝転がって、彼女に語り掛けた。


『エレナ、まだ体の中にいる? マルタを蹴飛ばしたよ。まだまだ全員に仕返しするから、見ていてね。疲れているでしょう? 眠って英気を養ってね。私も寝ようかな。明日から本気で戦うからね』




読んでいただき、ありがとうございました。

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