神様はいない
八、
気づいたときには、 ―― 《ニヘエ》は、あのじじいの小屋にいた。
小屋は、沼のはいりくちにあったはずだ。すぐにここから逃げようとしたのだが、どんなに走っても、なんど逃げる方角をかえようとも、どうしてもヨツ沼に着く。
しかたなくあきらめて、そのままヨツ沼で漁をして暮らし始めた。
名をいって網をなげ、とれた魚はほとんどアシ沼へもどした。
百匹もどせばいいんじゃろ
百匹よけいにとって『とりつかれた』ならば。
ひっしで漁をつづけ、七十匹もどすころにはあのじじいと同じように、もうなにもくちにしなくともよくなり、小屋の中に水が湧いたように土間がしけて、臭くなった。
これは、沼の神様にとりつかれたのか? それとも、 ―― あのじじいにか?
九十をこす数をアシ沼へもどしたころには、からだがいたくなりはじめ、動くのもつらくなった。だが、這うようにして沼へゆき、どうにか魚をとって《アシ沼》へとかえす。
そうしてやっと、百匹目をとって、《アシ沼》へと戻した。
ところが、いくら待ってもなにもかわらず、からだは痛いし、うごかない。
『 あんたも動けんようになったら、つぎの《ニヘエ》にかわってもらえばええ。
そしたらここへ、あんたもはいれる 』
ここでようやく、気がとおのくまえにじじいとたくさんの顔がわらっていたことをおもいだす。
なあにが沼の神様じゃ
きっとアシ沼に神様などいないのだ。
だれかは知らぬが、はじめにきっと、魚のとりぶんでもめたかして殺された漁師が《アシ沼》に捨てられ沼にとりついて、それからヨツ沼で漁をする漁師たちをのろい、魚の数をきめ、しょうじきに魚をもどさなかった者にとりついて、アシ沼へひきこむようになったのだ。
そうしたものたちがあの蛙となって、背中に顔を連ねているのだろう。




