言い忘れるな
また、ばかにされたような気がしてこんどこそ始末してやろうとおもったのだが、ふところにしまった匕首をさぐってひいたのに、鞘とはなれない。
そんな《ニヘエ》をみながら、年寄りはわらいながらつづけた。
「 ―― 言い忘れるところじゃったが、よけいにとれた魚はな、まんなかの『アシ沼』へおいてこい」
「そんなばかなことしねえ。多くとれたらそのぶん売ればいいだけだ。数を見張るようなほかの漁師だって、もう、いねえんだろ?」
「 いいや、『沼の神様』が、かぞえてなさる」
「『沼の神様』が、草がボウボウの底なし沼にいるってエのか?」
《ニヘエ》は鼻でわらってやった。
「 へっ、くだらねえ。まあいい、おいじじい、おれに言い忘れてることはねえだろうな?」
『ヨツ沼』へ行ってみたら、実際にはまだほかの漁師がいるということも考えられる。
刃のぬけなくなった匕首はあきらめて、この家にある包丁でも持っていこうかと、小屋のなかをみまわした。
「じじい、包丁はどこだ?」
「 ないわ。茶碗もな」
いわれてみれば、この小屋には七輪どころか火を焚けるところもないのだ。
ぐじゅり、と音をたてる莚をふみにじるようにして、《ニヘエ》は壁にかかった網をとりにいった。
「 ―― 魚はじいさんが売りにいけ。おれはひとがおるところには出られん」
網はおもったよりもしっかりとしたつくりのようで、重かった。
「 あんたのほうこそ、言い忘れんでなア 」
きゅうに声をひそめ年よりが枯れた声でささやいた。
「あんたにか?べつに礼をいうつもりもねえ」
ふりむいた《ニヘエ》に、年寄りは網からつきだしたとがった指先をこちらへむけ、にたり、とわらいかけた。
「 ―― 沼で、言い忘れるなよ。 名を言うてから、網を投げるんじゃ。言わねえと魚は一匹も捕れんわ。あの沼は『沼の神様』のもんじゃから、わしらは魚をわけてもらうだけじゃからのオ」
年寄りのかすれたわらいごえがまとわりついてくるようで、《ニヘエ》はつかんだ網でそれをふりはらうようにわざと大きくまわし肩へとかつぐと、戸を蹴とばして沼へむかった。




