第一話
世の中には忘れてしまっても許されることがある。
前世とは、その最たるものではなかろうか。
公爵家令嬢アイーダ・ロドリゲスは、その秀麗な眉をひそめた。
何を隠そうアイーダには前世の記憶がある。
生まれたときから薄っすらとあった違和感のある記憶は、年を取るごとに深くなっていった。
そして十歳を迎えたとき、それが前世の記憶であるとアイーダは確信したのだ。
前世のアイーダは社畜OLと呼ばれる生き物だった。
必死に勉強して就職し、薄給を得るため残業につぐ残業をこなし。
ある日、限界を超えた体は死を迎えた。
享年25歳。死因は過労。
死を迎えるには若く、過労死するにも早過ぎた前世のアイーダを哀れんだ女神が、異世界へ転生させてくれたのだ。
アイーダとして公爵家に生まれた転生者は、苦労を知らずに育った……とも言えるし、そうではないとも言えた。
現代日本に生まれ育った前世を持つアイーダにとって、異世界の貴族社会はとても窮屈だ。
価値観が全く違う。
それに公爵令嬢として求められるものは、知性や美しさなど様々な面においてレベルが高い。
とても高い。高すぎること山の如しである。
それでもどうにかこうにか生きてきたアイーダであったが、十八歳を迎えて学園を卒業するのと同時に大変レベルの高い難問にぶち当たった。
婚約である。
公爵家の一人娘であり家を継ぐ立場であるアイーダに割り当てられたのは、第三王子であるナルシスだ。
アイーダの家は公爵家というだけでなく、領地経営も上手く行っているし、商売も手広くしていて裕福である。
金ある所に義務あり、とばかりに役に立たない第三王子を押し付けられたのだ。
だが問題の本質はそこではない。
アイーダが好む男性のタイプとナルシスの間には、広くて深い河がある。
ぶっちゃけナルシスは、アイーダの好みでは全くないのだ。
ナルシス第三王子は、キラキラ輝く艶やかな金髪に澄んだ青い瞳を持つ顔立ちの美青年だ。
しかし、体の方はガリガリの痩せっぽち。
身長はスラリと高く180センチほどあるのに、とにかく細い。
対してアイーダが好むタイプは、マッチョ一択なのであった。
アイーダの筋肉好きは前世からの筋金入りである。
筋肉マッチョ好きな社畜OLであった前世では、バリッバリに自分の体も鍛えるほどの筋肉マッチョ好きなのだ。
そんなもの王命でも止めようがない。
アイーダは国王の命と引き換えであっても、ガリガリではなく筋肉マッチョを迷いなく選ぶ自信がある。
しかし、ここは異世界の貴族社会。
貴族令嬢が自分で結婚相手を決められるような世界ではない。
御年二十歳の第三王子には男爵令嬢である愛人もいるが、そんなことは丸っと無視して公爵家に迎え入れなければいけないのだ。
今日はアイーダとナルシスの婚約式の日である。
よく晴れた麗らかな春の日。
公爵令嬢と第三王子のために、神殿には貴族たちが一堂に会していた。
婚約が調えば挙式は一年後と決まっている。
よって、この国の貴族令嬢にとって、婚約式は割と重要な日なのだ。
しかも、この国には女性が男性の胸を触ると婚約が成立するという不思議な習慣がある。
(あの胸を触る……)
男性の胸筋くらい、さっと触って終わらせればいい。
そうも思うアイーダであったが、いくら服の上からといっても男性の胸筋を触るのは勇気がいる。
そもそも胸筋触ったら婚約な! という世界である。
令嬢は異性の胸筋すら触らず清らかなまま嫁ぐものなのだ。
求められる覚悟が違う。
アイーダは緊張のあまりガチガチだった。
筋肉のないガリガリの胸を触る程度のことでガチガチになっている自分に腹が立つほどであったが、緊張感マックスでリラックスするには程遠い。
前世では筋肉マッチョ好きな社畜OLだったのだ。
無残にも過労死して転生したというのに、今生の割り当てパートナーがコレって不幸すぎないか?
神官の横で待つ笑顔全開のナルシスのもとへ一人向かうアイーダの胸に、さまざなな思いが去来する。
ナルシスの、さぁおいでベイビー、と言わんばかりのあの笑顔。
ぶん殴りたい。
そんな思いを胸に、また一歩、アイーダは前に進む。
(いいのか、私。あの胸を触ったら私は――――)
クッと唇を噛み締めた拍子にバランスが崩れたのか、アイーダはコケた。
公爵令嬢としてあるまじきことであったが、倒れていく体を支える物も見当たらない神殿の真ん中で、アイーダはなす術もなく崩れ落ちていく。
「危ないっ」
張りのある低くて深い男性の声が、聞こえたような気がした。
(ん? ぽよん?)
アイーダの両手の先に、なにやらぽよんとしたものが当たった。
(あっ、なんか気持ちいい)
アイーダはグッと手中にあるモノを揉んだ。
ぽよんぽよんとしたソレは適度な弾力があり、触っていてちょうど良い人肌の温度だった。
(ん? 人肌)
アイーダが顔を上げると、黒の短髪と茶色の瞳をした彫の深い精悍な顔があった。
その男性は困惑したような表情を浮かべ、浅黒い肌を赤く染めてこちらを見ている。
気付けばアイーダは逞しい男性の腕の中にいて、その人の胸筋を揉んでいた。
「婚約が成立いたしましたー!」
神殿のなかに神官の声が響いた。