二 華族と零番隊
しばらくは世界観の説明が多くなります。
上手に説明できるよう、勉強中です。
「時任カスミです」
汚れたコートを纏った少女のひとことで、キリヤはどっと疲れた。
彼らがいるのはウシュナルギ官庁街の一角にある帝国軍総本部、そのなかの魔術部事務所であった。
時間はとっくに午前4時を回り、早番の兵士や魔術師が廊下を行き交っている。
ついでに言えば、未だにシャワーさえ浴びていないキリヤは泥だらけの軍服に辟易していた。
更に部屋の脇のソファには、部下のネネが上司である自分を差し置いてぐっすりと眠っている。
そして目の前の少女は、明らかに自分を見てビビっている。
そんでもって極めつけは”時”の字だ。
悪い夢なら覚めてくれと、あくびをしながら願うキリヤであった。
「へー、君が時任カスミちゃんか。ふんふん、悪くない。あと4年と125日か。俺は前野タクマ、よろしくな」
「おいこら、華族に手ぇ出すな」
キリヤは珍しく早番をサボらなかった部下をたしなめる。あの悪質な指令書はこれを見越しての判断なのか。
思わず頭を抱えたくなるキリヤであった。
「華族も貴族も関係ないッすよ。かわいい女の子は等しく愛でるのが俺のポリシーッすから」
「だったらあっちにしとけ」
そう言ってソファに寝そべるネネを指差すキリヤ。もちろん起きる気配はない。
「ネネちゃんは後で、今はカスミちゃんに惚れてるッすから」
タクマは適当に答えながら再びカスミに話しかける。もともとキリヤの相手をするつもりはなかったようだ。
職務放棄になるけど、寝ちまうかな……そんな不埒な考えがキリヤの頭に浮かぶ。
「タクマ、今日の早番はおまえと誰だ?」
「赤石のじいさんッすよ」
「そうか、ならおまえはしばらく仮眠とっていていいぞ」
「マジっすか!? 俺、今初めてキリヤさんの部下になれて嬉しかったッす!」
そう言いながらタクマはネネのソファにこっそり上る。見なかったことにしようと決めたキリヤであった。
そして再び時任カスミに向き合った。
「それじゃあもう一度聞くが、あんたの曾じいさんの名前はなんだ?」
「はい、時守ユキチ……です……」
帝国の皇帝の姓は代々時守である。つまり、この少女は皇族の血を引くやむごとないお方なのだ。
帝国において、貴族とは様々な分野で帝国ひいては皇帝に貢献した者に贈られる称号だ。
彼らは種々の特権を皇帝から直々に受け、条件付きそれらは世襲されることもある。
そして、その貴族でさえ頭を下げなければならない存在。皇帝の血を引くもの、それが華族だ。
時の字は偉大なる血脈の証、勝手に名乗ればそれだけで一族郎党の首が飛ぶほどの権威がある。
ちなみに、華族の跡取り息子に流れ弾を当ててしまった将校が打ち首となった事件が少し前にあった。
でっぷりとしたガキが腕に巻いた包帯をこれ見よがしに喚いていたことを、キリヤはよく覚えている。
「あの……ご、ごめんなさい……」
カスミがしくしくと泣き出した。そこに来てキリヤは自分がどんな顔をしているか、事務所の鏡を見て青ざめた。
「あああっ、すまん、泣かないでくれ! 別に怒っちゃいないから、な? な?」
「くすんっ、ふぇ、ふえ〜ん……」
ヤバい、冗談じゃなく俺の首が飛ぶ! 命の危機をリアルで感じるキリヤは、なんとかカスミを宥めようとした。
「ほらもう泣かない、ね? そうだ、ケーキをあげるから! うちのアホが買ってたとっておきのだ。美味いぞぉ」
もう文字通り必死のキリヤであった。
「くうぉら、ガキを泣かしてんじゃねぇ」
スパコーンとキリヤの頭を叩いたのは、零番隊の最古参、赤石オキノブであった。
「ああっ、赤石さん! ちょっと聞いてくれよ!」
「あー、だいたい事情は分かったから落ち着け」
キリヤが零番隊に配属される前から副隊長を務めていた老人は、一切のデスクワークを取り仕切る切れ者である。
魔術の腕は落ちたものの、その知識と人脈は零番隊の屋台骨をしっかりと支えていた。
もっとも今は部下に仕事を任せ、コーヒー片手に事務室でまったり過ごすことも多いのだが。
「カスミちゃんっていったかい? ほれ、儂と甘いものを食おうか」
孫ほど歳のはなれた少女に優しく接する姿を見て、キリヤは赤石がこれほど頼れる人だったのかと感動していた。
既に泣き止んだカスミは、赤石の不器用な冗談にクスリと笑っている。
「おい、てめぇは紅茶くらい入れて来い」
朝っぱらからモンブランを食べる羽目になった老人は、不機嫌そうに言った。
目を覚ましたネネが騒いだりタクマが死にかけたりしたが、キリヤは調書を取り終えて一息ついていた。
ようやくシャワーを浴びると時刻は6時にほど近く、もう仮眠をとる気も失せたキリヤであった。
カスミは取り調べが終わるとすぐに眠りに落ち、今は事務室のソファに寝かせてある。
「華族っていっても、寝顔はかわいらしいですねー」
ついさっき先輩であるタクマを叩きのめしたネネは、キリヤの側に立って寝入った少女を眺めていた。
キリヤは自分で入れた紅茶をすすりながら赤石に話しかける。
「華族が絡んでたってことは、やっぱり枢密院の決定だったんですかね」
切れ者の老人はキリヤの言葉を聞いて、いや、と言った。
「恐らくは軍部のお偉い方だろう。指令書はあるか?」
「はい、ここに」
キリヤは自分の机(隊長専用のデスクである)から、1枚の封筒を取り出した。
「これな、目標は貴族かもしれないし、そうじゃないかもしれない、一応傷は付けるなってあるだろ?」
かなり意訳しながら複雑な指令書を読み解く赤石。これは一種の暗号技術に近いのかもしれない。
「枢密院なら落ちぶれ華族を放っておくはずないし、軍部ならもともと華族に縁がない」
華族は軍人の血縁を嫌うからな、と付け加えて赤石は紅茶を飲む。
薄い紙切れをひらひらさせながら、赤石はキリヤとネネに解説する。
まるでその様子は社会の仕組みを子供に教える教師のようでもある。
「枢密院の人たちが、婚姻関係を結んで華族になるってことですか?」
「そうだ。彼女が四代目でその次には時任は廃絶になる。だが、それまでは特権は維持される」
つまり、華族であるカスミを巻き込みかねない雑な指令は枢密院によるものではないということ。
軍部は華族を利用して零番隊に責任問題を突きつけようとした訳である。
もしキリヤ達があそこでカスミに傷を負わせていれば、彼らの首は飛んでいたかもしれない。
キリヤが華族と聞いて嫌な顔をしたのも、まったく無理のないことだった。
「軍部って、酷いですねえ」
カスミの髪を撫でながら、ネネはため息まじりに呟いた。
自覚の薄い部下をたしなめるように、キリヤは言ってやった。
「お前だって軍人だろうが」
「わたしは軍人じゃありません、零番隊の隊員です」
嬉しそうに言い返すネネから思わず顔をそらすキリヤ。赤石はそれを黙って見守っていた。