一 少女と上司
帝都には、名も無い古びた館がある。
それは、教会の裏であり、スラムの隅にも位置する場所。
どちらにしろ場違いにも程があるそれは、一体いつからそこにあるのか。
表通りにもなかなか見られない立派な造りは、闇の中にこそふさわしい。
スラムに囲まれ、一般人には知る由もないそれは、黒い権力の利害が交錯する場である。
当然、そこから出てくる人間は皆一様に後ろ暗いのだ。
先ず館から出て来た男は、周囲を素早く警戒した。筋骨隆々とした大男の、その目は暗く、鋭い。
やがて、連れ立って三つの人影が合流した。
二人は中背だが、ひとりはそれに比べてずいぶん小柄である。
一人は右目が陥没し、もう一人はフードで顔を覆っている。
近づいてみれば分かるだろうが、フードを被ったもう一つの小さな人影は微かに震えていた。
もっとも、それに気づいている三人の男達は何事も無いように振る舞っている。
この館を場所に指定する人間なのだ、商品に同情するようなことは無い。
彼らはもし商品が騒ぎだしたら、手を上げるのにも躊躇しない。
自らの危険を感じたら、ためらわずに盾にだってするだろう。
警戒を決して怠らず、その顔はまごうこと無き戦士である。
後から出て来た彼らも素早く周囲を警戒する。
前方を見て、右、左、そして再び右。
奇襲をかける時は呼吸の間をつく。
行動と行動の継ぎ目を狙え。
キリヤはそれに徹していた。
キリヤは館の三階、出窓の部分から音も無く身を躍らせた。
まるで友人の肩を叩くかのように、大男の頭頂部を肘で狙う。
ゴリッと嫌な音がして、大男がゆっくりゆれる。残りの二人は事態の把握に、さして時間を要しなかった。
激高した右目が雄叫びをあげながらキリヤに突っ込み、フード男は着地の瞬間の隙をうかがう。
二人の選択は概ね正しい。落下エネルギーを持ったキリヤは、着地とともにその身に衝撃を受ける。
肘打ちを食らった男が倒れ込むより先に、キリヤの足が地面に届く。
その刹那、キリヤの足下に奇妙な紋章が浮かび上がった。
二人の頭に、祈紋師という言葉が浮かんだ。
二人の判断は概ね正しかった。
失敗は、キリヤが単独犯だと決めつけてしまったこと(あの一瞬ではまあ、仕方ないかもしれない)。
もう一つ、キリヤ(達)が魔術師であったこと。それは彼らにとって大きな誤算だった。
キリヤの足下から浮かび上がった紋章は、美しくも奇妙なものだった。
歯車状の円が浮かび上がり、その歯の一つ一つに見たことも無い文字列が生物のようにうねり、つながっている。
円陣と文字列が、キリヤの足下に収束し、キリヤのつま先がそこに降りる。
その瞬間、円の収束地点から強烈な光が発せられた。
魔術を知るものなら理解ができたかもしれない。その光は、ただの祈祷紋の反応光にしては強すぎる。
「野郎、何か仕掛けてやがる!」
意外に反応できたのは、突っ込んで来た方の男だった。
彼の左目は、右目を補って光に敏感になっていたのだ。
右目が陥没した男は、閃光から目を守るとフード男に警戒を促した。
「うぐっ」
しかし、キリヤの動きを凝視していた男は閃光に目を焼かれていた。そして、キリヤの拳を受け、泥道に沈む。
右目は既にフード男を捨てていた。いかにキリヤを殺すかに集中していた。
光に過敏になってしまった左目をかばい、キリヤの気配を探る。
必ず殺すと、殺意に渦巻いていた。
だが、彼らとキリヤとでは、やるべきことが違っていた。
もっとも、右目が本来の目的を忘れていただけなのだが……。
光がようやく止む頃には、キリヤと小さなフード姿はいなくなっていた。
作戦はあまりにも見事に決まったが、ネネは不満たらたらだった。
「なーんか、キリヤさんだけかっこいいとこ持ってっちゃったって感じですね」
初めての零番隊での任務は、16歳の少女には退屈なものだったのか。
サングラスを玩びながらながら、下手すれば懲戒免職モノの言葉を口にする。
そんなネネに対して、キリヤはどこまでも冷たい。
コートのポケットに手を突っ込み、ぬかるみ道を歩いている。
「んなこと言ってるうちは、大事は任せられねぇ」
隣を歩く少女を子供扱いするキリヤだが、訳の無いことではなかった。
「面割れせずに救出できたんだ、何が不満だ?」
ようやくフードを外した小さな人影は、それはほっそりとした少女だった。
ネネも腕や腰こそ細いのだが、女らしいというかエロいと言うか、まあそんな体だ。
彼女は先ほど男二人を一瞬で叩きのめしたキリヤと、歳は近いのに胸が殺人的なネネにビビって萎縮している。
「わたしの初任務! なのにやったのは魔術学院の初等術と中等術! だけ!」
「一番隊でも任務はあっただろうが」
「わたしは零番隊です! ついでに言えばキリヤさんの部下です!」
「……何が言いたい?」
「もっとこう、わたしもカッコいいことがしたかったです! それと、労ってください!」
もうすぐスラムを抜けて表通りに出るのだから、騒ぐ分は大目に見ようと思うキリヤ。
表通りはこの時間も騒がしく、うるさいネネはかえって風景になってしまう。
ただ、くたびれた女の子を連れた男が、美しい少女に責められている。帝国魔術部の隊長には、まあ見えない。
かえってやりやすい状況であるのは確かなのだが。
「おまえはよくやってくれたよ」
キリヤは本心からそう言った。
あの状況なら、ネネ一人でも制圧できたかもしれない。しかしキリヤは安全策をとった。
三階の出窓にネネを待機させ、キリヤの落下と同時に祈祷紋を編ませる。
祈祷紋には閃光と衝撃吸収の二つの祈りを込め、着地の寸前に発動させたのだ。
「タイミングも衝撃吸収も発光も、どれも完璧だった。実地でいきなりあれだけやれる新人はいない」
「そうですか!? そうなんですか!?」
「そうだから少しは落ち着け」
「はーい」
スキップでもしかねないネネを見て、顔をしかめるキリヤ。すれ違う着飾った金持ち達の視線が痛い。
泥だらけのコートを見て、それでもまだ仕事が残っていることに気がめいってしまいそうだ。
もう、さっさと眠りたかった。
キリヤはもう片方の、背が低い方の少女を見ていった。
「これから陳述を貰うから、もう少しだけ付きあってくれ」
「……はい」
死刑でも宣告されたような顔した少女を見て、更に気が重くなるキリヤだった。