存在とその記憶
<定義>
「名前」というものは、
ものの存在を定義するもの。
ものの存在証明には、
必ず他人からの観測を得なければならない。
<名前>
「名前」をつけるのは、いつも他人である。
「名前」がある故に、存在は証明される。
「名前」がある故に、記憶があるのだ。
いわば記憶の本棚からある存在を見つけ出すための索引だ。
「名前」がつけられるからこそ、それが存在の証となる。
<自己証明>
自己の存在証明など、私には出来ないのだ。
「私」が「私」であることを証明できるのは、
「私」以外の人間であるのだ。
<私と無関心とたわごと>
「無関心」というものが、
どれほど恐ろしいことか。
私はそれを、どこかで意識的にしようとしている。
記憶へのアクセスの不具合も、きっとそれ。
思い出したくない記憶にアクセスしないため。
辛い記憶にアクセスしないため。
「名前」を暈してしまえば、
記憶が、存在が、僕の世界では定義も暈される。
これは自衛だ。きっと思い出したら苦しいから。
感情は既に湧かないのだ。
他人に対して、「無関心」であるのだ。
そうあろうと、努力しているのだ。
なにかの衝撃で、全て消えてしまえば。
私という存在は、私の中では定義が消滅する。
今の私の世界から、今の私が消えるのだ。
そうなってくれたら、どれほど楽なことか。
<結論>
これは、いつも変わらない、永遠の理である。
「名前」というのは、それほど大事なのだ。




