第6話 ママママママママママママママママ
これは僕が実際に体験した話です。
まさかあの本を読んで本当に性別が変わってしまうとは思いませんでした。
そしてその結果、悲劇的な結末を僕の上司が迎えるとは、想像もつかなかったのです。
あれは今から一ヶ月前の図書室まで遡ります――。
「な、なんだったんだあれは……」
僕はまるで悪夢を見ているかのようでした。
なぜなら、高校生が本の中に何度も吸い込まれて行ってしまっていたのです。
普通じゃありえない、というかあってはならない超常現象が目の前で繰り広げられ、僕は唖然としてしまいました。
そして今、白目をむき、鼻血を出し、股間部分にバスタオルを掛けられて伸びているこの男子こそが、本の中に入っていった張本人だったのです。
「あのー大丈夫ですか?」
僕は彼の頬を何度か叩きました。
「うう……。ああすみません。寝てました?」
「ええぐっすりと。それとお連れさんはもう帰ってしまいましたよ」
「え! 努の奴! すみません、俺急ぐんでそれじゃ!」
「あ、バスタオル!」
「起こしてくださってありがとうございましたーーーーー」
そして、その男子はたいそう大きな某をぶら下げて走り去っていきましたとさ。
めでたしめでたし。
「めでたしなことあるか! 床が、……これなんか白い水が飛び散ってるし。バスタオルどうしたら」
僕が床と図書室の入り口を交互に見ていると、後ろから銅鑼のようながなり声が聞こえてきました。
「おい、安富! お前床汚しやがって何やってんだ!」
「い、いや……僕はなにも」
「なにもなわけあるか! 湿ったバスタオルも持って。お前、なんかいやらしいことでもしてたんだろ」
「そ、そんなことしないです。これはさっきまでいた生徒の忘れ物で……」
「つべこべ言わずに、さっさと掃除しろ!」
「は、はい」
「あとこの本、お前がしまったよな?」
「ええ、ライトノベルは僕の担当ですけど」
「じゃあ、なんで血で汚れてるんだよ! お前がやったんだろ、弁償しろよな!」
「いや、これは僕じゃなくて……」
「じゃあ誰がやったんだよ、今図書館には誰もいねえじゃねえか」
「いえ、その……」
「誰かがやったとしても、しっかり報連相はしろよ! 隠すなんて言語道断だからな!」
竹久さんは怒声をまき散らすと、スッキリしたような表情で事務所に戻っていきました。
竹久さんというのは、十五個上の上司です。
僕はこの学校の司書として去年から働き始めたのですが、初めのうちはこの竹久さんが親切に作業のことや本の仕分けを教えてくれていました。
しかし、今年に入ってから竹久さんの態度は一変しました。
小さなミスをきつく指摘したり、さっきみたいに理不尽な言いがかりをつけてきたり、それはそれは苦しいものでした。
なぜ竹久さんがそうなってしまったのかという理由はただ一つです。
それは――
「美里さん、お疲れ様! なんか困ってることない? 仕事手伝うよ!」
「お疲れ様です竹久さん。今はー……特にないですね。また何かありましたらお願いします!」
「そう。わかった」
そうです。
女です。
綺麗です。
欲情です。
今年から勤務することになった派遣社員の氷河美里さん。
彼女はとても人柄がよく、誠実で何より事務作業や本の仕分けがダントツで早いのです。
それに見た目も三十代後半とは思えないほど若々しく、下手したら制服を着ててもアラフォーとは気づかれないくらいのルックスなのです。
そんな外見も内面も完ぺきな女性が現れたら、男は誰だってほいほい近づいてしまいます。
「でも、本当美里さんって仕事早いよね!」
「いえいえ、そんなことないですよ」
「いやいや謙遜しなくても。俺より仕分け早いし、一か月で五千冊の本の場所覚えちゃったじゃない! 誰かさんとは大違いだぁ」
竹久さんはちらりと僕の方を向き、鼻で笑いました。
こうした陰口は美里さんが来てから日常茶飯事でした。
かといって僕は美里さんに卑劣なまなざしを向けたことはありませんし、自分が無能なことくらい理解しています。
だけど……。
「あ、そういえばこの前美里さんが紹介してくれた住野よるのシリーズ全巻読みましたよ! もう面白すぎて一冊十秒で読んじゃいましたけどね! いやウィダーかい! つって、はっはっはっはっはっは!」
「ははは……」
竹久さんのなにが嫌かって、タイミングも分らないでボケて自分で突っ込むところです。
見てください美里さんの引きつった顔。
目が死んだニャンちゅうみたいになってるでしょ。
あのまま凍り付いて元に戻らなくても驚かないくらい、滑ってますからね。
「どう、面白かった?」
うわー。最悪。
自分で「面白かった?」って言っちゃう奴~~。
痛い痛い痛い! タンスの角に小指ぶつけるくらい痛い。
「ええ……まあ」
ほらぁ。美里さんも何て返したらいいかわからなくて目を逸らしちゃってますよ。
美里さん。いいんですよ、つまらないときはつまらないって言って。
「そうだ、このあと良かったら食事にでも行きませんか?」
「え、でも。竹久さん奥さんが……」
「ああ、なんか突然今日妻は実家に帰っちゃったんですよ。こういう時期でお父さんたちが心配だからって」
「そうですか。でも私さすがに……」
「いいじゃないですか。美味しいフレンチのお店見つけたんですよ。美里さんも食べたいって言ってたじゃないですか」
「言いましたけど」
「だったら! 一緒に行きま――」
「ごめんなさい!」
美里さんは頭が地面につくような勢いでお辞儀をしました。
「私、夜は用事があるんです。(どうせそっちでも……)」
「よ、用事って……」
「察してください。……とりあえず新刊整理してきます!」
「み、美里さん…………」
美里さんは丸眼鏡の位置を直し、いそいそと二階に上がって行ってしまいました。
竹久さんは、美里さんを目で追いかけた時、ちょうど視界に入った僕に対し。
「何見てんだ、安富! さっさとお前も本、入れ替えて来い!」
そう怒鳴りつけました。
僕は心なしか上機嫌に「はい!」と答え、小走りに倉庫から段ボールに詰め込まれた本を取り出してきました。
「すごい剣幕だったなぁ美里さん。ありゃ竹久さんも恥ずかしかっただろうなあ。……にしても竹久さんも竹久さんだよな。奥さんいないことをあんな堂々と言って女性を誘うとか。デリカシーなさすぎじゃねえの? こんなこと言ったら美里さんに失礼だけど、もし美里さんとくっつくなんてことがあったら、竹久さんの格も大暴落だろうなー。ま、流石に竹久さんがハニートラップにかかるなんてうまい話があるわけないか!」
マスクの下で、誰にも聞こえないような小声で僕はぼそぼそとつぶやいていました。
そして一冊目の本を棚に入れようとしたその時です。
その本のタイトルに目を奪われました。
「『Beauty and the Beast of TSF』? 赤りんごを年の数食べた後、ある呪文を唱え、くるくると回りながらスカートを履くと男性は女性になれますぅぅぅ?!」
にわかに信じがたい、というか信憑性皆無な一文なのですが、僕はもしこれが事実ならば、と思った時ピンと閃いてしまったことがありました。
そして、まさに悪運がいいというのはこういうことなのでしょう。
「はぁ~……しゃーない。一人で帰るか。それじゃ美里さんお疲れ様ー。ああ、あと安富もな。……んんー! 『ソラニオ』でも行くかぁ」
「お疲れ様です。…………ソラニオ?」
僕は竹久さんが帰ったのを見送ると、すぐさまスマホを取り出しました。
「ソラニオソラニオ……、あった。げっ、キャバクラかよ。とことん救いのないおっさんだなあの人。奥さんが実家に帰ったのって、感染症のせいじゃないんじゃねえの? まあ、どっちにしてもいいや。とりあえず家に帰ってから試してみよう」
僕は退勤時間になるとすぐにスーパーへ向かい、赤りんごとスカートを購入しました。
そして気分を高めるためかブラジャーと姿身も一緒に購入しました。
まず赤りんごを年の数だけ食べ、鏡の前で呪文を唱え、くるくると回りながらスカートをはきました。
「ププリプピピルプパヨパヨペチョンBQBな麗しき女性になぁ~れぇ!」
すると足元に紅蓮の召喚陣が現れ、瞬く間に僕は赤い炎に包み込まれました。
そして気が付くと、綺麗な女性が一人鏡に映ってるではありませんか!
「これ、僕?」
毛先を少し内巻きに遊ばせた艶やかな茶髪。
細くて艶やかな指と白い肌、そしてクリッとした猫目。
いかにも僕好みの女性がそこには佇んでいました。
頭の先からつま先、後ろ姿や、胸の谷まで隅々を舐めるように観察しました。
「うっはぁ……すごいものをお持ちで。こりゃどこからどうみても女性だ。しかし、この胡散臭い本は本当だったんだなあ。これで竹久さんに近づけばイチコロだぞぉ~。よし、今すぐにでも行こう!」
僕はホステスが持ってそうなブランドのバッグを抱え、足早に出かけました。
9月なのに、途轍もなく肌寒かったのを覚えています。
おそらくノースリーブのドレスのせいでしょうが、私はあの男を陥れるためなら手段を選びませんでした。
戻る方法も知らないままに。
まさか元に戻る方法が、あんな屈辱的な行為だとは、この時の僕には知る由もありませんでした。
ソラニオに着き「今からでも働きたい、お金に困っている」ということと、男性との経験人数を捏造して伝えたらすんなり今日から働かせてくれました。
怪しいお店ほどそういうのは緩いんですね。
店の奥の事務所みたいなところに通され、衣装やメイクをし直してもらいました。
それが済むともっと奥の方から、黒のタキシード姿でサングラスをかけたおじさんがやってきました。
「それじゃあ君の源氏名は輝星月ね。ユイちゃんこれからよろしく!」
「はい。お願いします」
「ユイちゃんは、キャバレーの経験はあるの?」
「いや、初めてです」
「そう。このキャバレーは他のキャバレーとはちょっと違うんだけど、初めてがここだったらすぐに慣れるし、他のとこに行ったとしてもすぐトップ獲っちゃうよ。ま、そんなことはおじさんがさせないけどね。がっはっはっは!」
「はははは……」
ああ、こういう気分だったんだな美里さんも。
「それじゃあ、あとは教育係に任せるからよろしく頼むね、セラちゃん!」
「ええ、分かりましたわマスター」
セラと呼ばれた女性が、若いタキシード姿の青年二人を後ろに連れてやってきました。
長い黒髪をお団子にしたミディアムヘアで、ガッツリ化粧をしてはいるものの素の顔が本当に美しいと分かるほど、肌はきめ細やかでぬかりなかったです。
ですが、キャバ嬢というより女将のような雰囲気を醸し出しているこの女性に、僕は心当たりがある気がしました。
「よ、よろしくお願いします。セラさん」
僕は小さくお辞儀をすると、セラさんは耳元まで近づいてこう呟きました。
「よろしくね安富さん」
「はい! ……えぇ?! なんで僕が安富だって?」
「こうすれば分かるかしら」
セラさんは丸眼鏡をさっと付けました。
その姿はいつも同じ職場で働き、ともに本を出してはしまっているあの、氷河美里さんにそっくりだったのです。
「もしかして美里さん?」
「ご名答。でも、ここではセラって名前なの。だから金輪際ここでは、美里の名は禁句ね」
「わ、分かりました。で、でもなんで僕だって気づいたんですか?」
「それは二階からあなたのこと見てたからよ。なんか変な言葉を練習してるみたいに呟いてたし。それにここを調べてたじゃない? なにか怪しいと思ったのよね。そしたら案の定、飛んで火にいる夏の虫ってわけ」
「見られてたんですか、恥ずかしい。で、でも完璧に女性だと思うんですけど」
「そうね、わたしもびっくりしたわ。まさかあの本で本当に変わってしまうとはね」
「え、美里さんも知ってたんですか?」
「もちろんよ。広辞苑みたいに厚くて全面パステルピンクの表紙じゃ誰が見たって目立つじゃない。それにあれはわたしが倉庫にしまっておいたのよ」
「そうだったんですか」
「あとは、あなたの喋り方とか、ずっと《《僕》》っていっているじゃない。周りはぼくっ子だって思うかもしれないけど、この一連の事を知っていたら大体あなただって察しが付くわ」
「う、確かに。女の勘ってやっぱすごいんですね」
「勘じゃなくて、推理よ。ま、どうせあなたも私と同じ目的でここに来たんでしょ?」
「同じ目的? まさか!」
「ええ。そろそろ来る頃よ。飛んで火にいる蚊が」
「VIP卓にお客様はいりまーす!」
セラさんが振り向いた方向に、薄汚れた服を着た見覚えのある中年のおっさんが、幅を利かせてやってきました。
「今日もセラちゃんを頼むよ」
「かしこまりました。セラさん。一番卓に」
「かしこまりました。ではユイさん。あなたも行きますよ」
「ぼ……あたしもですか?」
「あたりまえでしょ。二人であの腹に一物もった男を叩きのめしてやるんだから!」
セラさんは目を真っ赤に燃やして奮起していました。
セラさんはおしとやかにかつ力のこもった足取りでその男の隣に座りました。
VIP席には黒色の高級感あふれるソファと、机にワインやシャンパン、ドンペリがすでに用意されてありました。
そしてその後ろにはお酒がづらりと並んだカウンター席があり、一人のバーテンダーが、席には誰も座ってないのにカクテルを作っていました。
「お待ちしていました《《竹久》》さん。お元気そうで何よりです」
「いやいやこっちこそ、セラちゃんママに会えたならいつでもビンビンだよ!」
しょっぱなから下ネタかい!
「おや、そっちの娘は?」
「今日から入りました。輝星月と申します。気軽にユイちゃんとお呼びください」
我ながらよくもまあこんなセリフがスラスラ出てくるもんだ。メイドもののラノベに感謝せねばいかんな。
「ユイちゃんママか! 物凄い別嬪さんだね。いくつなの?」
「こら! 竹久さん。女性に年齢を聞くもんじゃありませんよ。あと、ママ呼びはやめてくださいって言ってますよね」
「いやいやごめんね。ついくせで。でも若いし、こりゃセラちゃんもすぐにトップ獲られちゃうんじゃないの? 危ないんじゃない?」
「うふふふ。そんなことないですよ。ねぇ、ユイさん?」
「あ、はい。セラさんには敵わないです!」
え、これ演技だよね? 仮にも男だよ、そこに女の妬みとか複雑な憎悪とかないよね? てか二人でこの男を叩きのめすんだよね?
というか叩きのめすって何ーーーー?!
「竹久さん今日はどのお酒にしますか?」
「じゃあシャンパンで。ユイちゃんは何にする?」
「あ、じゃあ……同じのでお願いします」
「それじゃあ皆で飲もうか! カンパーイ!」
男女三人で酒を煽りました。
僕は少なくとも一時間いて、竹久さんとツーショットをして帰れればそれでオッケーだったのです。
そしてその写真を後日竹久さんの奥さんに直接渡し、浮気の疑いをかけてやれればそれだけで十分だったのです。
しかし事が大きく動いたのは、竹久さんがべろんべろんになって呂律も回らなくなった時でした。
「うぱー。のんだろんだぁ」
「飲み過ぎですよ竹久さん。あっちょっとお酒零れてるじゃないですか!」
セラさんはハンカチで竹久さんの首元を拭いていました。
より接近したからか、竹久さんはいやらしい目でセラさんの胸元に熱い視線を注いでいました。
「ごめんねえー。お水が欲しいなー、こっちからお水でないかなー!」
「……! キャーーーーーー!」
なんと竹久さんはあろうことかセラさんの胸元をまさぐったのでした。
これにはセラさんだけでなく僕も驚き、思わず口に含んでいたシャンパンを吹き出していました。
「なにしてる――」
僕が「なにしてるんですか竹久さん!」と言おうとしたその時です。
後ろからガシャガシャガシャガシャーーーーン! というガラスが割れる音がしました。
何事かと振り向くと、バーテンダーがボジョレーヌーボーを双剣のように抱え襲い掛かって来たのです!
「こんのドスケベおっぱい魔人がぁぁああああ!」
ワインボトルを振り下げ、竹久さんの腕に直撃しました。
ガラスなのに金属同士がぶつかったかのような轟音を鳴り響かせて、ワインボトルは粉々に粉砕しました。
「いっだぁぁあああ!」
「お前なんかバカルディに乗ってるミントになっちゃえ! 捨てられる運命なんだよぉぉおお!」
「誰だお前! いきなりなにしやがる!」
「誰だとはいい度胸ね。十年も一緒にいるのに、顔も忘れちゃったわけ?」
バーテンダーがカツラと口ひげをとると、そこにはショートヘアの似合う凛々しい女性が現れたのでした。
「和美?!」
「そうよ! 和美よ! あなたの妻のね!」
「え、どういうことですか、セラさん!」
「詳しい話は後でするわ、今はあの二人の壇場なの。そのちっぽけな目で修羅場というものを刮目しなさい!」
僕はセラさんに言われたまま凍り付いてしまいました。
竹久さんとその奥さんの和美さんの間にある緊迫した雰囲気で、僕らは全く動けませんでした。
「あなたはいっつもそう。ちょっとおかずが足らないからって、ちょっとほこりが残ってるからって、ママはこんなんじゃなかった。隅々まで掃除してくれてた。味噌汁は赤味噌じゃないと食べられない。とか言い出して、赤ちゃんかよ! 三十六にもなって母親の事ママって、フロイト先生も仰天のマザコン野郎だな!」
「だって仕方がないじゃないか! お前と結婚するまでずっと実家暮らしでママの料理を食べ、ママと生活をし、ママが買ってきてくれた服を着て、ママと一緒に出掛けて、ママと一緒に風呂入って、ママと一緒に寝てたら、どうしてもそうなっちゃうじゃないか!」
「ママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママ、うるっさいのよぉぉぉぉおおおおお! 知ったことかそんなこと、私と結婚したなら私をママと、思いなさいよ!!」
激昂した和美さんは、目をつぶりもう片方の手でもっていたワインボトルを綺麗なオーバースローで投げました。
球速八十キロは出てたんじゃないでしょうか?
それくらいの猛スピード、猛回転で飛んできたワインボトルを、竹久さんは、「危ない!」と言いながら後ろに逃げようとしました。
しかし、竹久さんの後ろにちょうどいたのは、この僕でした。
「キャ!」
「あ゛!」
「は!」
ブチュゥ……。
僕は竹久さんに覆いかぶさられ身動きが取れませんでした。
いや、それだけならまだしも最悪なことに、僕はこのろくでもないおっさんに「ファーストキッス」を奪われてしまったのです。
「ぶっ! べっべっべ!」
「ご、ごめんユイちゃ……えぇ?!」
僕の身体の下には蒼い召喚陣が浮かび上がり、蒼い炎に包みこまれました。
そして気が付くと。
「うげぇ、ファーストキッスがヤニの味かよ! って、ええ! 顔が戻ってる!」
零れたワインの水溜りに映った自分の顔を見て血の気が引きました。
そう、口づけを交わすと元に戻る、『Beauty and the Beast』つまり『美女と野獣』をモチーフとした魔法だったのです!
「お、お前安富じゃないか! 何でここに! というかお前に女装の趣味があったなんて」
「そうじゃありません! 早くどいて和美さんと話してください!」
「そうだった。かず――」
和美さんの方を振り向くと、和美さんは顔を床に付け、うずくまって泣いていました。
「ど、どうしたんだ和美?」
「あなた……マザコンだけじゃなく、そっちの趣味もあっただなんて……」
「そっちの趣味って……そんなわけないだろ! 今のは偶然で――」
「私にはもう手に負えないわ! マザコンとソレが組み合わさった人とどう接していったらいいのおおおおおおおおお!」
「か、和美待ってくれぇえーーー!」
和美さんと竹久さんは走って店を出て行ってしまいました。
残ったのは女装姿の僕とセラさんと大量のガラスの破片。
そしてお酒の弁償代でした。
一ヶ月後。
あれから竹久さんは司書を辞め、図書室に来なくなりました。
仲直りするために奥さんを探しているようです。
「ところで、結局あれはいったい何だったのですか? セラさん?」
「しっ! ここでは美里さんでしょ。あのキャバクラはね、『ドッキリキャバクラ』なの」
「『ドッキリキャバクラ』?」
「そう、あのVIP席の場所では、VIP待遇された人がターゲットとなって、私たちが仕掛け人としてドッキリをしかけるの。普段はパイ投げとか優しいドッキリもあるんだけど、今回は事情が事情だったからね」
「それって、もしかして竹久さんの浮気ですか?」
「まあ、当たらずとも遠からずだね。一昨年くらいからかな、初めは竹久さんがちょくちょくうちの店に訪れてたの。それを和美に伝えようかなって思った時に、やっぱ和美も、最近竹久さんが帰るのが遅かったり、高いお酒の話ばかりしたりして変に思ってたらしいの。だから、竹久さんがうちの店に来ていることを伝えたのね」
「女性の勘って本当に鋭いんですね」
「だ・か・ら、推理! わたしも本当に竹久さんが性根の腐った人なのかわからなかったから、確かめるために、今年から入ったの。で案の定、安富くんへの関わり方とか見てたら、ハッキリとそういう人なんだなって分かったの。そこで今回のドッキリを計画したわけ」
「つまり、ハニートラップってわけですか」
「ま、簡単に言っちゃえばそういうことだね。竹久さんに最後のチャンスを与えたっていう感じかな。結局、精神的にも経済的にも、コテンパンに叩きのめせたとは思うから爽快、爽快!」
「(……敵に回したくないな)」
「なんか言った?」
「いえ! 何も!」
「そう。でもあなたすごくいい接客してたわよ!」
「え?」
「もう一度ホステスやってみたらいいんじゃないの? わたしとやったら歌舞伎町のトップ狙えると思うの!」
「いやぁ、もう結構です」
「どうして?」
「だってその甘い蜜、ヤニの匂いがしますから」
――おまけ――
「ちなみになんですけど、どうして美里さんはホステスなんてやってるんですか?」
「決まってるじゃない。お金のためよ。世の中そういうもん」
「気持ちいいくらい勉強になります……」