新皇帝の誕生
ピアは窓から外を眺めた。
外は薄暗く、豪雨に突風、雷鳴が轟いている。悪天候もここまで極まることはなかなかない。
「それにしても良き日だ。兄の戴冠式に相応しい」
きっとパレードも中止だ、と笑うピアに若き枢機卿スヴェート=ラディウスは呆れ顔だ。スヴェートはピアの従兄でもあり、一級貴族の嫡男である。普段はほとんどを本邸のある領地で父親の補佐をしながら過ごしている彼だが、今日の戴冠式のために帝都へ駆けつけたのだ。
大聖堂で行われる戴冠式。ピアはそのために朝早くから起こされ、風呂に入れられた。その後侍女達の手によって化粧を施され、髪は複雑に編み込まれている。真っ白な法衣で正装し、今ここで今日の進行について最後の確認中だ。
当然ながらピアが戴冠式を執り行うのは初めてだ。先代の教皇や今ここにいる教育係だったハイリッヒから習いはしたものの、話で聞くのと実際にやるのはまた違う。
失敗して歴史に残るのはごめんだ。ただでさえ血塗られた聖座などというありがたくない称号をもらっている身である。
とはいえ、今のピアにとって一番の心配は進行を誤ることではない。そんなことより何よりも、目の前に跪いた兄についうっかり蹴りを入れてしまわないかの方が心配だ。もしかしたらピア本人よりも周りの者の方が、それを案じているかもしれない。特に今ここにいるハイリッヒなどは。
自分は先日の兄の提案——兄の部下を婿にとる事を受け入れるつもりはない。そして兄もピアが自分で選んだ婿を認めないだろう。平行線だ。
その結果自分の婚期が延びる。
思い出したらまた腹がたってきた。
「兄め! 私の婚期を奪う気か! そのくせ自分は好いた女と結婚しようなど言語道断!」
口に出すと余計に怒りが燃え盛る。
「大体、身分ある身でありながら恥ずかしいと思わないのか。身分差の恋など、作り話だから許せるのに! 『身分など関係ない私はお前を愛している!』『私もです。二人でならばどんな苦難も乗り越えられるわ!』」
「猊下、一人芝居がお上手ですね」
「周りに反対され孤立する二人、手を取りあい苦難を乗り越える二人。確かに考えようによっては美談だ。だが現実を考えよ。皇帝たる者がそんな事をすれば、ただの色ボケだ! 万死に値する!」
確かに平民であろうとも、人の上に立つ器量のある者はいるかもしれない。貪欲に学び、皇帝たる者の隣に立つ者としてふさわしくあろうと努力する者もいるかもしれない。だがそんな者はごくわずか。
それに相応しい相応しくないの前に、貴族たちは不満を抱く。
「この私は兄のせいで結婚出来ないというのに、その兄は身分違いの恋人とよろしくやろうなど、許せるものか!」
「猊下。猊下はオルクス殿下の承認がなければ結婚出来ませんが、逆もまたしかり」
「ハイリッヒ、お前は何も分かってない! たとえ私が邪魔をしてあの二人が結婚出来なくとも、あの二人は宮殿で仲良く暮らしていくことだろう! 決して許せるものか! 死なば諸共、兄も道連れにしてやる!」
「み、道連れ……と仰いますと?」
「破局大作戦だ。あの愛し合う身分違いの恋人達を引き裂いてやろう! 兄め、絶望の涙を流して『もう愛など信じない』と叫ぶがいい!」
「猊下、まるで悪役のようですぞ!」
「まるでじゃない。私は悪役になるんだ!」
ピアの宣言にハイリッヒがため息をつく。
「これは妬みではない。私は国家に仇をなす者は排除する。そして、私の婚期を延ばす者は許すものか!」
ピアは誓った。
徹底抗戦だ。必ずこの手で愛し合う二人を引き裂いてくれよう、と。
ちなみにこれは兄への妬みではない。帝国の未来のためであり、決して妬みではないのだ。
***
正装したオルクスが大聖堂の入り口から真っ直ぐピアの元へと歩いてくる。その両脇には帝国中から集まってきた貴族たちが並んでいた。
彼はピアの元までたどり着くと、その前に跪いた。神の代理人から冠を授かるために。
ピアは聖油を差し出されたオルクスの手に塗り、準備されていた冠をかぶせた。
オルクス=フェアラート一世の誕生である。
***
新皇帝の誕生を祝う宴の席。法衣から着替えたピアは次々と寄ってくる貴族たちから挨拶を受けていた。
時折兄の方を伺えば、貴族たちに如才なく受け答えしているようだ。昔の兄からは想像が出来ない姿である。
貴族の中には居心地が悪そうな者も多くいた。それはそうだ。昔悪し様に言っていた相手が皇帝として戻ってきたのだから。
「猊下。ご機嫌麗しく存じます」
「ユーリウスか」
次にピアに声をかけてきたのはユーリウス=ベーレイニガン。ベーレニガン家の嫡男で金髪に紫色の瞳をした、美しい貴公子だ。ちなみにハムの兄である。
「先ほどベーレニガンには会った。貴方も来ていたのか。ところで、ハ——失礼、弟君は?」
すでにハム達の父親、ベーレイニガンの当主からは挨拶を受けていた。だがハムの姿はない。
すでに何人か婿候補たちからも挨拶を受けている。彼ら自身はこのような場を好むように見えないから、ピアに会わせる為に無理矢理連れて来られたのだろう。
「申し訳ありません。ローレンツは参りませんでした」
「そうなの」
「はい。実は……本人が婿候補として猊下に残して頂けると考えていなかったようで、ギリギリまで礼服を仕立てようとせず……礼服の仕立てが間に合わなかったのです」
ユーリウスは苦笑している。ピアとは懇意の間柄だから正直に話したのだろう。
しかし、礼服の仕立てが間に合わないからとは。実にハムらしい。
以前にベーレイニガン家に行ったときは身体にあった服を着ていたから、彼は本当に一枚も礼服を持ってないのだろう。それも凄い話だ。ハムらしいが。
「なるほど、あまり——……弟君はご自分に自信をお持ちではないようだ」
「ええ。まさか自分のようなものがと何度も申しておりました。ところで、ローレンツがご迷惑をお掛けしておりませんか?」
「いや、そのような覚えはない」
「贈り物の件、大変失礼いたしました」
ピアは首を横に振った。
大量の焼き菓子は帝国中から集められ教会で学ぶ子供達や帝都中の孤児院に配った。新帝誕生の祝いとして。もちろん全てに配るには足りないので、その分は自腹を切ったが。
「ローレンツは猊下のことを『まるで勇者フィアのようなお方だ』と申しておりました」
「勇者フィア……あの童話の……」
ピアはユーリウスの言葉に自分も子どもの頃夢中で読んだ物語を思い出した。ピアもあの物語が好きで、スヴェートと勇者フィアごっこをしたものだ。三歳くらいの時かもしれない。勇者フィアと呼べと言っているのにスヴェートはピアのことをウリ坊と呼んでいた。ウリ坊とは彼の実家ラディウス家の領地の山中に現れるという伝説の生き物らしい。
「わたくしも勇者フィアの物語を子どもの頃よく読んでいた。弟君もか」
勇者フィアとは遥か昔から身分を問わず子供達に読まれ愛されている童話『勇者フィアの物語』の主人公である。フィアという少女が悪と戦い、やがて勇者、英雄と呼ばれるかの童話は作者も不明ならば、いつごろ作られたのかも不明なのだ。一説には帝国の誕生前、まだ原初の人の時代に生まれた物語だとも言われている。
「はい。ローレンツは子どもの頃あの童話をとても気に入っておりまして。いつも手放さなかったのです」
英雄に憧れる小さなハム。そして大人になり知り合った相手にその姿を重ねるハム。
贈られた花の花言葉を思い出した。貴方は私の英雄——。
思わずピアは苦笑した。
——ハム、我々はどう考えても男女が逆だ。 どう考えても自分より遥かに乙女なハムを思い出してピアは少し笑った。その笑いにハムの兄であるユーリウスは真剣な表情になり言った。
「猊下。ローレンツは興味を持ったことにのめり込む質なのです。少し変わっているところはありますが、頭は悪くありません。むしろ学問は得意でした。武術には向いておりませんでしたが……」
「わかっている。送られてきた論——いや、手紙からもそれはよく分かる」
「ありがとうございます。ローレンツは猊下を煩わせることのない良き夫となりましょう。どうかご検討下さいませ」
さすが嫡男と言うべきだろう。弟を弁護しつつ売り込むのも忘れない。
ピアが頷くのを確認すると、ユーリウスは優雅に一礼し、その場を去っていく。ピアから離れた彼はあっという間に貴族の令嬢から取り囲まれていた。そういえば今、彼の婚約者はいない。幼少時に定められた相手はいたのだ。だが彼女の身体があまりに弱すぎ、次期当主の正室に相応しくないとされ、婚約破棄となった。
そんな事を思い出していると、また別の者から声をかけられる。
「猊下、ご機嫌麗しく存じます」
「お姉様、ごきげんよう」
降嫁した異母姉メリュジーヌだ。
メリュジーヌは笑顔でピアへと近づき、興味津々といった顔で尋ねた。
「ところで猊下。ボタンの君はどちらに?」
「ボタン?」
姉の口から出た言葉の意味が分からず困惑する。そんなピアに姉はふふ、と笑った。楽しくて仕方ないという顔だ。
「あら、猊下がわたくしのお茶会にいらっしゃった時に仰っていたではありませんか。婿候補のお一人のことです。あのはじけ飛んだボタンの運命の君ですわ!」
ハムのことか、とピアは合点がいく。貴族たちとの結束を強める一貫として、一級貴族に降嫁した姉が催した茶会に参加した時に、婿候補の話をしたのだ。
しかし……ボタンの君、運命とは。姉は頭の中で勝手にあれこれと物語を作っていそうである。
「ベーレイニガンの次男のことですね」
「ええ。わたくし、是非お姿を拝見したいと思ったのですけれど。ベーレイニガン卿のお近くにも、ユーリウス様のお近くにもいらっしゃらないでしょう?」
「ええ。ユーリウスが弟は来ていないと申しておりました」
「まあ、そうなのですか……」
メリュジーヌはよほどハムを見たかったのだろう。落胆が顔に浮かぶ。ピアは実際に彼女がハムを見たらどんな反応をするのだろうか、と思った。
がっかりしている様なメリュジーヌはふと真顔になる。そして手にした扇を開いて口元を隠すと、さりげなく周囲を見渡していた。どうやら他人に聞かれたくない話があるようだ。
ピアも周りを見る。一番近くにいる者とも少し距離はあり、そしてその者は知り合いらしき者と話し込んでいた。これならば聞かれることはない。
「大丈夫ですよ」
「わたくし、先ほどお兄……陛下にご挨拶させて頂いたのですけれども。すっかり変わられてしまって」
ピアは歳の離れた自分などより、母親の違うこの姉のほうが兄と仲が良かったことを思い出した。もちろん彼らが子どもだった頃だ。歳を重ねるにつれ、兄妹とはいっても性別の違う二人はともに遊ぶことを禁じられた。そして、その交流は減っていったと聞く。
だが姉は大人になっても兄のことを案じていた。
「もちろん皇族としては良きことでしょう。ただ不思議ですわね。話し方や雰囲気、人のあしらい方、そういった全てが変わったお兄様と話していると、まるで別人と話しているかのような気分になってしまって……」
「ええ……」
「誤解なさらないでくださいませ。とても良きことですが、少し寂しく感じてしまって。いまのお兄様はお亡くなりになった皇太子殿下と似ておいでですわ。皇族として非の打ち所がない——」
※※※
ピアはグラスを片手にテラスにいた。既に雨は止んでいる。
目の前は月夜に照らされた庭園だ。咲き乱れる花々と噴水からあがる水飛沫を眺め、宴で話した貴族たちとの会話、兄との会話を思い返す。これといった情報は得られなかった。ただ兄の如才なく振舞うその姿に未だに違和感を捨てられずにいる。
「猊下」
振り向けば兄の配下である将軍だ。
また厄介な相手が来た、と思った。とりあえずピアはいつも気色の悪いことを言う、見た目だけは良い、総合判断では気色の悪いという思いが勝ってしまう男へ対抗すべく心の盾を準備する。だが今日は疲労困憊しており、その強度は心もとない。
「猊下におかれましては本日も益々お美しく。月夜に銀の御髪が煌き、まるで妖精のようでいらっしゃる」
やはりこいつは人畜有害だ、とピアは思った。どこか遠くにやるべきだ。人のいない無人島とか未開の森の奥深くとか。これに比べるとハムがいかに人畜無害か分かる。
大量の樹も焼き菓子も、この男の気色悪い言葉に比べればマシだ。気色悪い褒め言葉で嫌がらせしてくるのは死んだ元婚約者一人だけでいい。
見た目が良いからと言って勘違いするな、とピアは心の中で目の前の男を罵る。こいつもあと数十年すれば中年太りに悩まされ、髪はハゲ散らかすことだろう。そうなれば残るのはかつての栄光と過剰だった自意識くらいだ。
笑顔で頷いてはいるが、ピアは鳥肌がたってしまった。
「ところで猊下。陛下が猊下の婿選びの話をお気にされていらっしゃいました。如何ですか。もし何でしたらシュバルツ以外の者をお目にかけましょう。猊下と直接お言葉を交わさせて頂いた者はまだおりませんので」
「その気持ちだけ受け取ろう、将軍」
そっけないピアの回答に面白そうに笑い、将軍はとんでもない発言をした。
「全員婿にして頂くのも一つの選択肢かと存じます」
ピアは自分の三歩後ろを男たちがずらりと並んで歩いている姿を想像した。冗談のつもりだろうが、こちらからすれば冗談ではない。そんな光景は鳥の親子だけでいいのだ。
元婚約者の皇太子には側室が死ぬ間際で十人近くいた。以前に比べてましになったとは言え、不妊と短命に悩む皇族である。もっと側室を増やせとピアは彼に言っていたくらいだ。別にこれは皇太子が鬱陶しかったからではない。そう、皇族の未来のためである。
だが自分の婿は他に妃を持てない。つまり鬱陶しいと思っても、側室の部屋に蹴り込むことが出来ないのだ。それで鳥の親子化するのは、命を縮める。これもまた自分の暗殺計画かもしれない。
ピアは吐き気がした。
——ああ、今すぐこの場で転げ回りたい。
ピアは満面の笑みを浮かべ、将軍の足を全体重かけて踏みつけた。
※※※
「なぁにが、全員を婿に、だ! バーカ! バーカ!」
宴が終わり、自分の宮に帰ってすぐピアは自室で転げ回っている。叫びながらの高速回転だ。ドレスも髪もぐちゃぐちゃだが知ったことではない。もはや我慢の限界だ。
散々転げ回り気が済んだところで、ばたりとうつ伏せになる。その機を逃さず侍女が近づいてきた。いつまでもこうしていては仕方ない。渋々と立ち上がると、鏡台の前に移動した。そして彼女たちに髪を解き、化粧を落としてもらう。
今日は不愉快極まりなかった。さっさと風呂に入って寝よう。
明日から自分は悪役となり、兄とその恋人を引き裂いてやるのだ。寝不足などでは立派な悪役は務まらないだろう。
それに兄は皇帝となった。今まで以上に警戒しなければならない。これから兄がこの国をどうするつもりかもピアには分からないのだから。
兄の背後にいる者は今頃勝利に酔いしれているだろうか。まだ見ぬ黒幕を想像すると、再び怒りがこみ上げる。
いざとなったらバカ兄諸共、この拳で殺ってやる。明日からオルクス人形が復活だ。就寝前の修練の内容を増やさねばならない。
ピアはそう心に決め、風呂へ入るため立ち上がった。
***
「ご機嫌斜めですね、猊下」
スヴェートのからかうような言葉にピアは少し目を上げて彼を見た。だがすぐに手元の書類に視線を戻す。
ピアに聞き流されたからだろう。彼はすぐ近くにまで歩みより、執務机に手をつく。まだ領地に戻らないつもりらしい。
ピアは深々とため息をつき、こちらの様子を伺うスヴェートに問いを投げかけた。
「クロイツから聞いたか?」
「いいえ。何も」
「そう。兄から依頼があった。宰相となるべき者を推挙して欲しい、とな」
驚いた表情を浮かべる彼の顔を見ながら、手にした筆記具を机の上に放り出す。
兄から想像もしない依頼が届いたのは、今朝教皇庁に着いてすぐのことだ。曰く、長く帝国を離れていた上に、まだ貴族との交流も浅い為、適任者を決めかねている。是非、適任者を推挙して欲しい、と。
「それは……どんな狙いがあるんだろうね」
「そうだな。本音は自分の側近で固めたいところだろうが……。おそらく……私に意見を仰ぎ、それを尊重する姿勢を貴族たちに見せることで、過去の兄の悪い印象を多少は払拭出来る。それに加えて、貴族に歩み寄る姿や良き皇帝であろうとしていることを周知することが出来るだろう。そうすれば、例え悪い過去があろうとも今は皇帝だ。貴族たちからすればそれに敵対する理由はない。あくまで兄の背後に誰かいると気づいている貴族以外の話だが」
「まあ、そうだね。良き権力者であれば、皇族内での簒奪は認められるお国柄だから」
「そうだ。さらに言うと、もし私と兄が対立が続くとする。まあ、当然続くわけだが……。良き皇帝であることを知らしめておくことで、先々それを知った中には兄側の勢力に流れる者もいるかも知れない。教皇よりも皇帝を選ぶ、と。察しの良い貴族は兄の背後を恐れている者も多い。隠れた牙がいつ、どのようにして、この帝国を滅ぼすのだろうかと不安を抱えている。だが貴族の中には国のことを考えない恥知らずもいるだろう。兄におもねる事で、たとえ他国に帝国が乗っ取られても己は生き残れるのではないか……とね。バカらしい話だが」
ピアは机の上のカップをとり、一口飲んで喉を潤した。スヴェートは黙ってピアの言葉の続きを待っている。
「兄側は表向きは私を尊重しているように見せつつ、一部の貴族を取り込み、己の勢力を強くするつもりだろう。確かに兄は怪しい。背後に誰かいるに違いない。それは他国、もしくは国に匹敵するような財力や兵力をもつ存在だと思う。——しかし、我々にはそれを証明出来る証拠がない」
ピアは思わず苦笑を浮かべ、続けた。
「もしそんな中で私が露骨に兄に対し敵対すれば、何も知らない者からすれば、ただの帝位目当てか言いがかりに過ぎない」
「厄介だね……全く! 異端認定してやりたいくらいだ。その方が手っ取り早い」
スヴェートは忌々しげだ。
話をややこしくしているのはピアが教皇であるからだ。ただの皇女ならば兵を挙げ、力尽くでオルクスから帝位を奪うのも問題はない。また御家騒動か、と思われて終わりだろう。家族や親しい者が戦死した者たちに恨まれ、呆れられることはあっても皇族の身分が揺らぐことはない。
だがピアは教皇なのだ。聖職者である。証拠もないのに言いがかりをつけ兄を処刑したり権力目当てで兵を挙げたとなれば、信徒たちからの信用を一気に失う。
「だから異端認定も出来ない。一番手っ取り早いのは分かるが」
そう言うとピアは頬杖をつき、五年前に終わった教会内の粛清を思い出した。
身分を問わず、この国において最も恐れられる異端認定。それは万死に値する罪だ。異端の烙印を押された者はその身分が貴族であろうとも関係ない。暴徒と化した信徒たちから引き摺り出され、八つ裂きにされることすらあり得る。たとえ民衆の手を逃れても、教会から処刑される。いずれにせよその先に待つのは死だ。
それは皇帝であろうとも同じこと。
ピアがオルクスを異端認定すれば、己の足元に火をつけられたくない貴族たちは同調する。だが全ての信徒が教皇の決定こそ全て、異端者憎し、と考えるわけではない。果たしてこの教皇は聖職者として、教皇として相応しい人物なのだろうか、と疑念を抱く者もいるに違いない。
今はピアが教会内を掌握している。だがそれは完全で決して綻びぬものか、と問われれば否だ。あの粛清から飼い殺しにしている聖職者は当然のこと、高位の聖職者の中にも密かにピアを邪魔に思う者はいる。そういった者たちが信徒を煽り、自分にとって邪魔な教皇を引き摺り下ろそうとする可能性は捨てきれない。
教皇は神の代理人と言われている。だがその威光に全ての者が平伏す訳ではない。所詮はピアも人間であり、神ではないのだ。
「じゃあ、どうするわけ?」
「ご要望にお応えする他ない。検討して何人か候補を挙げると答えた」
「誰にするつもり? ねえ、ピア。すごく悪い笑顔を浮かべてるけど」
「人聞きの悪いことを言うな。推挙する者は中立派から選ぼうかと思っている。いざという場合の痛手を減らしたい。かと言って、全く付き合いもない能力も分からぬ者を推挙すれば、私の人を見る目が疑われる」
「いざと言う時……どういうこと?」
「万が一向こうに抱き込まれたときのことを考えてだよ。中立派が向こうに寝返っても、さほど気にしない。だけど、私に従っていた有力な貴族が寝返れば動揺は広がるし、それに追従するものも現れる」
「なるほど……。僕は領地にいたから事情にはまだ疎いけど、ピアは陛下の背後にいるものについて予想はついてる?」
「兄の背後にいるのは東大陸の手のものではないかと」
「東大陸……何故、沈黙の大陸だと?」
スヴェートの問い掛けは驚きよりも困惑の方が強い。それも仕方のないことかも知れない、とピアは思った。
この世界には神に創られた四つの大陸がある。東西南北のうち、西大陸が今ピア達の暮らすこの地。原初の人の血筋が皇帝として、教皇が神の代理人として大陸を支配している。
「消去法でいくとそれしか残らなかった」
ピアは自分の知る北と南の大陸の国々——大小様々な生まれては滅ぶを繰り返すそれを思い浮かべる。
北も南も自分たちとは違う。かの二つの大陸では原初の人の血筋は他の者たちと交わり、薄れていき、今や子孫と呼べる者が誰かも分からない。この帝国のように原初の人の家系などないのだ。そして血が薄れることで、原初の人特有の強大な魔力を受け継ぐ者はいなくなった。
残るは東大陸だけだ。だがこの東大陸は他の大陸に対し完全に門戸を閉ざしている。一万年前、世界が誕生してからずっとこの大陸を支配していた帝国の歴史を遡っても、東大陸との交流は一度も無い。だから東大陸にどんな国家や歴史があるのかも分からないのだ。
もちろん東大陸へと上陸しようとした国は過去に数え切れないほどあるが、その全てが失敗に終わっているという。謎の障壁に阻まれて。
いつの頃からか東大陸は沈黙の大陸と呼ばれるようになっていた。
「もちろんまだ推測でしかない。ただどんなに考えても私には東大陸しか思い浮かばない。今まで沈黙し続けたかの大陸が、何故今になって……という思いはあるが」
「猊下……」
スヴェートもクロイツも顔色が良くない。ピアは少し笑った。
「恐れる必要はない。警戒する必要はあるが……相手も所詮は我々と同じ人間。確かに正体が分からないのは不気味だが、我々は恐怖し立ち止まってよい地位でも身分でもない」
それに午後には内偵させていた者が戻ってくる、とピアは付け加えた。
「そこでだ。まず二つのことを私は考えた。まずは今三人まで絞り込んでいる私の婿候補。これを一人選び確定させる。勿論、兄の承認を取り付けられないだろうから、公式な確定ではないけれど」
「誰にするんです?」
「ハムで良い。ベーレイニガンの家にも腹を括ってもらおう。身内の恥を晒すことになるが、ベーレイニガンの当主に全て話す。あれは皇家への忠誠心が強く、敬虔な信徒でもある。既に兄に——正確に言えばその背後に対して疑念を持っている。他の婿候補の家たちも信心深い家を選んでいるから、婿に選ばれなかったからと言って離反はしないはずだ。だが念には念を入れて、甘い汁は吸わせてやる。今、教会から貸し付けている金を無金利にしてやろう」
「いいんですか、猊下?」
「スヴェート、忘れたか。教会には腐る程金がある。別に痛くも痒くもない」
「それにしても、ベーレイニガンの次男が婿かぁ……」
何とも言えない表情で呟くスヴェートにピアは首を傾げた。
「それが何か?」
「いや……前の婚約者だった皇太子殿下とは随分違うタイプだと……」
「誤解するな。あれは私がえらんだんじゃない。それにあれは見た目は良かったが、気色の悪いことばかり言う奴だった!」
「ピア、三歳くらいの時から気色悪い、気色悪い言ってたよね……。あんなもの社交辞令の挨拶みたいなものだけど。それに皇太子殿下もピアをからかって遊んでいらしただけだよ」
「私の生涯において、あんなのは死んだ奴だけでじゅうぶんだ!」
婿は人畜無害に限る。そう憤るピアにずっと黙っていたクロイツが声をかけた。
「恐れながら、猊下。二つのお考えの内、もう一つは何でしょうか」
「え、ああ。話がずれたな。もう一つは魔法技術の研究と開発。もし東と戦うならば必要だろう」
「しかし、猊下……」
クロイツが言い淀む。
彼の考えは分かる。ピアもかつてはそう思っていた。一万年前から祖先たちがそう考えてきたように。
だが今その考えに固執していては国は守れない。
「我々は神から与えられたものを大切に使ってきた。それに満足していたし、神から与えられたものに手を加えるなど神を冒涜するに等しいと考えていた。だが、そんなことを言っていられる場合ではない。それに神へ許可を取る。そうすれば他の者たちも何も言えまい」
「仰る通りです。しかし神はお許しになるでしょうか」
五年前のことを思い出し、ピアは苦笑した。神と会って話したあの時、自分は神の言葉の意味がわからなかった。
「逆だ、逆。それこそ神が望んでおられること」
私はお前たちに多くを与え過ぎたのかも知れない、と神は言っていた。それゆえに人間は真っ直ぐ先へと進もうとせず、その場に留まっている。一万年前と人の生活は変わらない、と。
ピアはその時それの何が悪いのかわからなかった。神に与えられたものを大切にし、それを不満とすることなく生きる。それが正しい生き方ではないのかと尋ねたが、神は黙って首を振っただけだった。
今ならば分かる。神が望むのはそんなことではない。親が子の自立を望むのと同じように、神も人間の自立を望んでいるのだ。そうでなければあのような事を言わないだろう。
「一万年前も続いてきたことを変えるのは恐ろしい。しかし国家の存亡がかかっているならば、別だ。近々公会議もある。その前に神にお会いし、許しを乞う。そして公会議で枢機卿以下高位の聖職者たちにそれを伝えよう」
「そこまで考えているなら、僕は何も言わない。クロイツもそうだろう」
「勿論です」
ピアは二人へ頷いた。
それにしても自分は運が悪い。在位中にこのような事が起こるとは。あのオルクスの妹として生まれた事が不運の始まりなのかも知れない。いや、兄こそ己の不運を呪い生きてきた可能性がある。だが、そんな事を考えていても仕方ない。
神よ、原初の人シェイドよ、私を守りたまえとピアは祈った。
***
ピアは退室して行くスヴェートとクロイツの後ろ姿を腰掛けたまま見送った。侍従を呼び茶器を片付けさせ、自分は執務机の椅子に座る。午後には内偵させていた影が戻り、ここへ報告に来る。それまでに少し仕事を片付けておこうと思ったのだ。
未決の書類のそばには、今朝宮に届けられた未開封の手紙があった。教皇庁に来る前に届けられ渡されたそれにまだ目を通していない。
差出人はハムである。
ひょいと摘みあげれば封筒は薄い。この薄さならば中身が論文ということはないだろう。もはやハムから何が届いても驚くことはない、と断言出来る。
しかしこの自分を二度も驚愕させたことは褒めてやろう、と思いながら封筒から手紙を引き抜いた。読んでみれば戴冠式にも新皇帝の即位を祝う宴にも参加しなかった非礼を詫びる手紙だった。当たり障りのない文面に、これはハムの兄ユーリウスが書かせたものではないだろうか、と考える。あの如才ない貴公子ならばあり得そうだ。
手紙を引き出しに仕舞って、ふとピアは思った。
ハムの奴は私の本性を知らなそうだが、知ったら慌てて逃げたりしないだろうか、と。