兄皇子
ピアは目の前に跪く兄を見下ろしていた。
兄オルクスの背後には左右にずらりと貴族達が並んでいる。国中から集まった彼らの列は大聖堂の入り口にまで続いていた。
自分の手には冠があり、これを兄の頭に載せれば新しい皇帝の誕生である。ピアはそっと冠を兄オルクスの眩い金髪の上に載せた。
兄が顔を上げる。その顔を見てピアは驚愕した。真っ白な仮面——何の表情もない顔を全て覆うそれの不気味さに思わず叫びをあげた。
※※※
「——と、いう夢を見た」
昨夜衝撃のあまり飛び起きた夢を語ったピアにクロイツは呆れ顔だ。
「おそれながら、猊下。もしやオルクス殿下が偽者であるとお考えなのでしょうか?」
クロイツの問いにピアは少し迷いそれはない、と答えた。
兄が攻め込んで来た時、近衛の者だけでなく、他にも兄の姿を見た者は多い。その中に生き残りは多くいる。だからピアは戻って来た者が兄でない誰かとは考えていない。ピアの知り得ない知識や技術をもって別人を兄にそっくりにしていれば、話は別だろうが……。
「そもそも偽者かどうかなどと言うこともどうでも良い事だ。兄でない方がまだ気が楽だけど。……帝国に仇をなす者と戦う。ただそれだけの話」
戻って来た者が別人で、兄はどこか遠くで幸せに暮らしている。それならば、まだましだ。血の繋がった兄と妹でドロドロの戦いをする必要などないのだから。
だがそんな事を夢見るのは愚かだと分かっている。あり得ない事だ。
「血の呪いのようなものだ。初代皇帝の四人の息子たちは殺し合い、帝位を奪い合った。私たちはその末裔。愚かにも同じことを何千年の間で何度も繰り返している」
ピアは一つため息をついた。
なんとも言えない気分になって窓の外を眺めていたピアは、外の樹々に昨日ハムから贈られたアダムの樹を思い出した。
大量の樹々は植えようと思えば全て宮に植えることが出来た。だがそれでは景観を崩す。その為、自分の宮だけでなく教皇庁の敷地内にも植え、それでも余った分は宮殿にまわした。帝国軍と反乱軍の戦いで魔法の直撃を受け、樹が焼けたり倒れたりしていたのだ。
「そういえばアダムの樹の植樹は無事に済んだだろうか」
「はい。猊下のご指示どおりに」
「……それにしても樹か。兄の即位祝いにショーユの樹でも贈ろうか。ハムも真っ青なくらいの数を」
「ショーユの樹……実がなる時期には宮殿中がショーユ臭くなって、文官をはじめとした多くの者から苦情が殺到すると思いますが……」
「もちろん皇帝の私室近くの場所にしか植えるつもりはないけど?」
「地味な嫌がらせでございますね」
もちろん嫌がらせのつもりだから問題ない。
「それはそうと、兄が駆け落ちした恋人の件。報告はあがってきている?」
まだ二人が続いているか分からない。続いていたとて、帝都に同行しているかもわからない。しかし兄に対する切り札となるかもしれないと思い、ピアは宮殿内を探らせていた。
己の住む宮の記録を確かめさせ、彼女の名前は分かっている。ディラエ=キルシウム、帝都出身の平民だ。
残念ながら帝都の両親はすでに故人だ。その両親の死をきっかけにディラエは当時の皇弟の宮へと奉公を開始したらしい。唯一の家族といえる彼女の姉にあたる人物は離れた街に何年も前に嫁いでいる。
両親を抑えることが出来なかったピアは彼女の姉が住む街に遣いをやっている。まだそれは戻ってきていないが、数日のうちにその女性を探し出しピアの前へと連れてくることだろう。
卑怯で非人道的な手段だとは分かっていても、今のピアには手段を選んでいられなかった。
出来れば兄の恋人本人にも接触したい。だが、兄側はそれを許さないだろう。
「おそれながら、猊下」
クロイツの呼びかけに、ピアはあれこれと考えていたのを止め、視線を向けた。
「もし仮にオルクス殿下がその女性と未だ関係があったとして……。即位後、その女性を正室にと望まれたらどうなりましょう?」
「無理だな。皇室典範を変えない限り。そもそも皇室典範を変えるには私と貴族の過半数の同意が必要。その時点で現実的な話でない」
まず、国内貴族たちは己の娘こそ皇帝の妃にと名乗りをあげるだろう。もはや皇族の適齢期の娘はピアのみ。そうすると皇帝の正室となれる者は一級もしくは二級貴族の娘しかいない。
どこの馬の骨とも知れない娘を認める者はいないと断言できる。
「それはそうと、クロイツ。そろそろ宮殿へ向かうとしましょう」
お兄様をお待たせしてはいけないしね、とピアは立ち上がった。今日こそ兄との対面の日。
突然のことだったので、時間をあけるのが大変だった。戴冠式に参加するため帝国各地からやってきた貴族たちとの面会が多いのだ。昔から悪い評判しかなかった皇子が戻り、帝位につくとあって不安を隠さない貴族が多い。
兄側は全く貴族を無視しているかと思えば、そうでもないらしい。ピアにはなかなか会おうとしなかった兄本人が時間を作り、いくつかの貴族に接触しているという情報が耳に入っている。
教会の調べでは兄が接触した貴族たちの兄に対する評価は概ね良い。これは想像外のことだった。
オルクス殿下も大人になられた、とはさる貴族の言葉である。
貴族たちに手を伸ばし始めた兄側の動きに警戒しつつ、こちらも打つべき手を打っている。だが兄の背後関係について調べはなかなか進まない。
ピアは宮殿へ向かうため馬車に乗り込んだ。今日はクロイツだけでなくハイリッヒも同行する。
馬車の外を眺めながらピアはクロイツに気になっていたことを確認した。
「クロイツ。城下の巡回と不審者への警戒はどうなっている?」
「はい。治安維持を名目に猊下のご命令通りに。猊下が仰ったように他国から入って来たものが、民に紛れ込み潜んでいないか確認させております」
「よろしい。引き続き警戒しなさい。今、城下にいなくとも、隙を見て入り込んでくるかもしれない」
ピアが警戒しているのは、これ以上誰かを密かに送り込んで来られ、それが蜂起することだ。もし兄の背後が他国ならば自軍の兵たちに一般人を装わせ、城下に紛れ込ませる可能性を捨てきれない。こちらが油断したところで、彼らにとって邪魔な自分や他の貴族を始末する為に。特に帝国中から貴族たちが集まっている今が敵にとっては好機だろう。
正面から戦おうとすれば、不利なのは兄の背後の者たちだ。ピアが教皇軍を動かせるように、有力な貴族たちは私兵を持っている。攻めるならば正面からでなく、こちらの隙を狙ってくるに違いない。
兄の大軍がどういった経路で侵入したかも分からぬ今、油断は禁物だ。
「さあ、お兄様はどんな顔をして私と会うのだろうね」
ピアは少し笑うと、馬車の窓から遠くに見える宮殿を眺めた。
***
ハイリッヒ=プルガシオン枢機卿は己の前を歩く教皇ピア=セレネス一世の背中を見つめ、過去のことを思い出していた。
まだ彼女が聖座について間もない頃のことだ。初めて会ったのは彼女が六歳の時、自分は教育係として先代の教皇に選ばれた。
まだ子どもだった彼女はいたずら好きで散々ハイリッヒを振り回したものだ。ハイリッヒは独身者であり当然子もいない。子どもの扱いなど分からなかった彼は苦労した。抜け毛が増え始めたのはその頃からだ。
だがどのような事があろうとも、己は神と彼女の忠実な僕である。あの多くの聖職者が死んだ血塗れの粛清の際も教皇のそばにいたのだ。
先代教皇は聖職者として優れた人物であったが、教会を支配することにはとても向いてない人物だった。そのせいで代替わりをした時には教会の腐敗はすっかり進んでいた。
その為、ピア=セレネス一世が教皇の座についてまず最初に行なったのがあの粛清だ。とても長い時間のかかった作業だった。
ハイリッヒは今でも昨日のことのように思い出せる。
彼女が聖騎士を引き連れ、とある枢機卿の執務室に乗り込んだあの時のことを。床には血だまりが、斬り捨てられた者が倒れている。教会の腐敗の一番の原因とも言えた枢機卿は震え上がり床に座り込んでいた。
そんな彼に幼い教皇は軽やかな足取りで近づいていく。いくつも転がる首を見て、異端の烙印を押された枢機卿が『残虐なる教皇よ。地獄に堕ちるであろう』と彼女へ向かい叫んだからだ。
ピア=セレネス一世は彼のそばにしゃがみ込むと無邪気な笑顔で言った。そんなに大きな声ではなかったが、それははっきりとハイリッヒの耳に届き、今も記憶に残っている。
「周りを見てみるがいい。我々のいるこの場所こそ地獄。これ以上どこへ堕ちると言うのか」
あれから五年の年月が流れた。
ちょっとした問題は起こっても概ね平和であった帝国と教会。だがそれもかの皇子の帰還で変わりつつある。
またあの地獄がこの世に現れるのだろうか。
ハイリッヒの前を歩く彼女の姿が、あの日あの枢機卿の部屋へと向かう幼き頃の彼女の姿と重なる。
思わず心の中で神に祈った。どうか生きとし生けるものに慈悲を、と。
※※※
ピアは宮殿の一室へ案内された。
椅子に腰掛けて間もなく扉が叩かれる。その音に戦意が湧き上がった。
扉が開き、兄オルクスが入ってくる。その顔に仮面はない。密かに安堵する。
六年ぶりだが、何も変わっていない。強いて言うなら、青年だったのが男になったというくらいだろう。もう兄も二十六歳なのだ。
黙っていたら冷たく近寄りがたい印象を与える美しい顔に僅かな笑みを浮かべていた。その表情を見てピアは違和感を覚える。ピアの記憶にある兄はこんな穏やかな笑みを浮かべる人間ではなかった。兄の美しい顔に浮かぶ笑みはいつも皮肉っぽいものだったはずだ。
オルクスはピアの前に腰を下ろした。今日も将軍とシュバルツがそばに控えている。
「久しぶりだな、ピア。この間は突然後ろから飛びかかって来たから驚いた」
「嬉しくてつい……ごめんなさい」
「いや。こうしてまたお前に会う事が出来て嬉しい。あの頃はまだほんの子どもだったお前ももう大人の仲間入りか。驚くほど美しくなった」
穏やかな笑みでオルクスが語る言葉に、ピアは表情には出さないが困惑する。
誰だ、これは。
確かに兄なのだろう。見た目はそうだ。別の何者でもない。
だがこうして話していて、これがあの兄とはとても思えなかった。一体これは誰なのだろう。
ピアは少し考える時間を稼ぐため、出された茶に手をつける。今はまだ当たり障りのない話しかしていない。久々の再会を喜び、そして明日の戴冠式の話。
茶を飲みながら、兄のこの変貌を考えると無闇に斬り込むのは躊躇われた。だから少し攻める方向を変えることにする。
カップを受け皿に戻して、話を切り出した。
「そういえば、お兄様がお付き合いなさっていたディラエさんはどうなさっているの?」
ここにいるのか、と問えばあっさりとオルクスは頷いた。
「ただ彼女は体調が悪くて、伏せっている」
「お大事にとお伝えくださいね」
まるで別人と言葉を交わしているようだと思いながら、ピアは言葉を紡いだ。
こんな風に貴族たちの丸め込みをはじめたのだろうか。もしこれが演技ならば自分と並べる位の狸になったものだとピアは舌を巻いた。兄はそういうものを蛇蝎のように嫌っていた。皇族も貴族も、その社会につきものの権謀術数も何もかも。
「ところでお兄様、お聞きしたかったのですけれど……ディラエさんとご結婚されるおつもりですか? それも正室として側に置かれるご予定でしょうか?」
オルクスは微笑んだ。ひどく優しい笑みだった。侍女たちが見たら失神するかもしれない。美形の笑顔はある意味で凶器だ。
ピアの鋼鉄——クロイツが言うには伝説の金属オレイカルコスの心には何の意味も持たない。むしろ気色悪い。何か企んでいそうだし不快だ。
オルクスは何も答えない。言うつもりはない、ということか。それならばそれで良い。いずれにせよ、兄は皇族。独断で平民の彼女とは結婚出来ないのだ。
そう簡単に思い通りになると思うな、と考えていたピアの耳にオルクスの爆弾発言が飛び込んできた。
「結婚といえば……お前の婚約者はもういない。どうだ、私の部下を婿に取らないか?」
ピアは手にしたカップを取り落としそうになるのを堪える。そして思った。
そういう手で来たか、と。
まさか兄が自分の配下を婿として押し付けてくるとは思わなかった。
いや、よくよく考えれば一番良い方法なのかもしれない。自分の手の者をピアの伴侶としてしまえば、面倒なく事を運べる。その者にピアを懐柔させれば良いのだ。そうすればピアが掌握している貴族たちも共に抱き込むことが出来るだろう。
だが、とピアは兄の思惑を否定する。自分は男に懐柔されたりしない。それが敵の手下ならば尚更だ。
自分には自分の選んだ婿候補がいる。
しかし、そこまで考えたピアは凍りついた。思い出したのだ。
兄が独断で平民の彼女と正室、側室を問わず結婚出来ないように、自分も独断では結婚出来ない。皇女でもあり、教皇でもあるピアが結婚するには皇帝が結婚するのと同じくらい多くの者の承認を必要とする。
今のような皇帝不在の時は皇族会議全会一致、貴族会議賛成多数が条件だ。皇帝がいるときは皇帝の賛成、皇族会議賛成多数で結婚が承認される。
つまり兄が自分の配下を婿に、と考えている以上、即位前であろうと後であろうとピアは自分で選んだ婿と結婚出来ない。兄は邪魔をするだろう。
思わず頭を抱えたくなった。自分としたことが、と叫び転げ回りたくなる。
ピアは兄が恋人と結婚出来るかの鍵を握っている。皇室典範を改正しなければ兄はディラエを妻に出来ない。たとえ側室であろうとも平民は皇族の妃にはなれない。皇室典範を変えたければ皇室会議と貴族会議の承認が必要で、ピアはその両方を兄などより掌握しているからだ。
だが反対に兄もピアの結婚の鍵を握っていた。
とんでもない話だと思う。このままでは婚期を逃してしまうではないか。
「ねえ、お兄様。お兄様の部下って誰のことを仰っているの?」
ピアの婿になれるのは貴族だけだ。それを考えればピアが知る限り、兄の配下で帝国貴族の出というとシュバルツしかいない。だがシュバルツは瞳を伏せている。こちらもお断りだが向こうも嫌なのだろう。
「そうだな。即位したら今回の功労者に貴族の身分を与えるつもりでいる。だからピアは選り取り見取りだ」
兄は楽しげに笑うが、ピアはまったく楽しくない。
兄の配下など婿にするつもりはない、たとえ誰であっても。兄の配下は全て敵だと考え、警戒しなければならないのだから。
ピアには今、二つの敵がいる。
今回、兄の背後にいて資金や兵力などを支援した者。
そしてすっかり昔とは変わってしまった目の前の兄。
そして重要なのは何のために兄はここへ戻って来たか、だ。
権力を嫌い恋人と逃げた兄は戻って来ないだろう、とピアは考えていた。そんな兄が変わり果て戻って来た理由が分からない。
純粋に皇帝になりたくてというならまだ良い。兄が自分を支援者している者の魂胆を理解した上で利用し最終的には切捨て、決して傀儡になどならぬというのならば、ピアは兄へ歩み寄る余地がある。
なぜならば兄も皇族だからだ。皇帝として真剣にその義務を果たすのならば、帝国をめちゃくちゃにしたり、他国へ売り渡したりしないのなら、自分が無理矢理兄を引きずりおろすことはない。そんな必要はないのだ。
結局、自分の一族は血で血を洗い、帝位を奪い合ってきた。その繰り返しだ。気が遠くなるほどの年月の中で、数え切れない程あった帝位簒奪劇と今回の一件が同じならば、ピアはそれを糾弾することは出来ない。
所詮自分たちは簒奪者の末裔。
だから帝位簒奪した、親族を殺した、というだけでは兄を排除できないのだ。ピア自身が帝位につきたいと思っていない限り。
もし兄を排除する必要があるならば、帝位につくのもやむを得ないと思っていた。他に誰もいないからだ。生き残りの皇族はピアだけでないが、みな聖職者である。年老いて政務は無理だろうという者、浮世離れした者——とても向いていない者しかいない。だから兄を排除すれば自分が帝位につくしかないのだ。
だが正直なところ、皇帝と教皇、この二つを併任するのは覚悟が必要だ。どちらも激務である。最悪の場合どちらも中途半端となってしまう。その結果被害を受けるのは国家と国民なのだ。
確かに婚約者だった皇太子を尻に敷き、皇室を牛耳るつもりだったが、自分自身が帝位につくのとはまた話が別である。
あれこれ考えていたピアは吐き気がした。自分の考える事どれもが可能性に過ぎない。何もかもが分からない。兄の本心や狙いも、兄の背後にいる者の思惑も、何もかも。
でも今、言えることは一つだ。兄の配下など婿にする気はない。いずれ自分は消される可能性が捨てきれないからだ。他の皇族や貴族ごとピアを取り込み、兄の支配が安定すればピアは不要どころか邪魔者になりうる。あれだけ一族を皆殺しにした兄が自分のことだけいつまでも生かしておいてくれる、なんて自分に都合の良い解釈だ。
ピアは渡る必要もない危険な橋を渡るつもりはない。自分は最後まで国家と国民の為に生きねばならない。
そのためには自分に都合の良い解釈など一切捨てる必要がある。
ピアは兄へ微笑みかけた。
「今回の件で帝国内の貴族から反発が予想されます。事実そういった声も聞いています。お兄様の部下であり功労者の方との婚姻が悪いとは申しません。ですが今は皇族から貴族が離れていかぬようすべきだと思います。婚姻は一番良い手段でしょう。わたくしも有力な貴族の息子を婿にとり、お兄様も有力な貴族の娘を正室や側室にする。そうして貴族たちと手を携え、帝国の安寧と繁栄を築いて参りましょう」
一息に言い終え、オルクスの様子を伺った。彼は気分を害した風もなく、穏やかな笑みを浮かべている。
「そうか。確かにそのような考えもあるだろう。だが私の提案も考えてもらえれば嬉しい。お前はまだ若いのだし、今この場で決めてもらわなくても良い」
「なるほど。検討いたしましょう」
検討にも値しないが、とピアは思った。社交用の笑顔を浮かべてはいるが、きっと今の自分の目はとても冷たいに違いない。
「恐れながら、猊下。そろそろお時間でございます」
頃合いだと判断したのだろう。クロイツが告げる。
「もうそんな時間。それではお兄様、わたくしは失礼いたします。今日はお時間を頂き、ありがとうございました」
「ああ。久々に話せて嬉しかった。先ほどの件、検討してくれ」
「ええ。それでは戴冠式の日にまたお会いしましょう」
ピアは兄へ別れを告げると、部屋を出た。宮殿の入り口へと向かう。これからまたやるべきことが山積みだ。急いで教皇庁に戻らねばならない。
廊下を歩きながら、ふと先ほど考えたことを思い出す。
兄が国家に仇をなすなら排除し、自分が帝位につき、そうでないならば兄が皇帝となることを認めるという考えを。
思わず自分を笑いたくなった。
結局、国家や国民のためと言いわけしつつも、己の一族が支配者であることを捨てきれない。
決して忘れてはならないと思った。自分も長く続いた一族の権力を捨てられず、しがみつく——そんな愚か者だということを。
※※※
ぎゅうぎゅうに詰め込んだ予定を全てこなし、ピアは教皇庁から自分の宮へ戻った。
今日は色々あったせいか疲れてしまった。転げ回る気力も体力も残っていない。風呂に入り、早めに休もう。自室に戻り、侍女達にに着替えを手伝わせ、出された茶を飲んでいると、執事に呼び出されていた侍女が部屋へ戻ってきた。
「殿下、ベーレイニガン家のローレンツ様からお手紙とまた贈り物が届いております」
そう言うと彼女は一通の手紙を差し出した。
そういえば樹をもらった礼状をハムへ出したのだ。その返事だろうか。それにしては随分厚い手紙だ。分厚過ぎる。
とりあえず受け取り、封を切る。文面を目で追っていたピアは顔が引きつった。
「殿下」
露骨だったのだろう。侍女たちが気遣わしげに声をかけてきた。
「なんだこれは」
「如何なさいましたか?」
ピアは目の前の侍女たちを見渡し、その一人に手紙を渡す。それを受け取ると彼女は失礼しますと断ってから、手紙を読み始める。他の侍女たちもそれを覗き込み、そして全員の顔が引きつった。
「これは、論文ね」
「ぎ、御意にございます。殿下」
「ハムのアダムの樹に関する研究結果をまとめた論文だ! これを私にどうしろと!」
「お、恐れながら……殿下。実は先ほど申し上げましたが、本日もローレンツ様から贈り物が届いているのです」
「そういえば申していたな……。ちなみに聞くが、本音は聞きたくないが、贈り物とは何か?」
今日は何だろう。また樹か。はたまた花か。
「お菓子です」
その言葉にピアはほっとした。
菓子ならば食べれば良いだけだ。植える場所に困る、ということもない。
だがピアの安心と裏腹に侍女は落ち着きがなかった。
「どうしたの?」
「そ、それが……今回も……」
まさか宮に入らない巨大ケーキか、とピアは嫌な予感がし、思わず立ち上がる。
「案内なさい」
※※※
侍女に案内されたピアは呆然とそれを見上げていた。
焼き菓子だ。焼き菓子の山である。
一体何十人分あるのだろう。いや百人分くらいあるかもしれない。
これはベーレイニガン家を訪ねた際、お茶とともに出された菓子だ。かの家の料理人が作った自慢の焼き菓子。ピアはそれを誉めた覚えがある。
だからハムはこれを贈ってきたに違いない。確かにこの焼き菓子は美味しかった。だが多すぎだ。
たえきれずピアは叫んだ。
「何だこれは! あいつは私のこともハムにするつもりか!」
今日は散々だ。やっていられない。数日後に迫っている戴冠式も投げ出したい。
思わず踵を返し、その場から走り去る。
「殿下!」
執事が侍女がピアを呼ぶがそれどころではない。もう我慢の限界だ。
ピアは部屋に駆け戻り、叫びながら部屋中を転げ回ったのだった。
【第一章 兄皇子の帰還 完】