動きあり
ひんやりとした空気、チリ一つなく掃除され整えられた空間。まさに最高位の聖職者であり、神の代理人たる教皇の厨房に相応しい。
ちなみに厨房といってもピアの食事を作る厨房ではない。神への供物、神聖な食べ物を作るための厨房だ。もちろん調理するのは聖職者本人、この場合はピアである。
原初の時、神から与えられたものはいくつもある。その中でも特筆すべきは聖なる食べ物と飲み物だ。
まずは聖なる飲み物ココア。そして聖なる食べ物カラアゲとヤキソバ、チョコレート。
特にヤキソバは復活祭の際に必ず食べられる重要な食べ物である。普段の供物にはカラアゲとチョコレートというのが一般的な慣わしだ。
チョコレートは専門の業者が作ったものを供える。だがヤキソバとカラアゲは聖職者みずから作るものだ。
ピアは大聖堂で心に決めたように、カラアゲをつくり、神に祈ることにした為ここにいる。
色々と不安もあれば心も乱れた上、敵であろう男に本性まで露わにしてしまったのだ。少しこころ穏やかになりたい。
そう思い、予定を多少変更してでもこの時間を作ったのだ。もし女神が降臨してくれたら、久々に色々と話したいという思いもある。
ピアは用意された教皇用の鶏肉を手に微かにため息をついた。
さきからため息ばかりだ。それも仕方ない。敵に本性を見せるなど失態以外のなにものでもないでないか。
だが本当に心の底から苦手なのだ。男たちから与えられる歯が浮くような褒め言葉が気持ち悪い。全身鳥肌がたってしまう。
自分でも不思議で仕方ない。恋愛小説やお芝居のそれは苦手どころかうっとり出来るのに。なぜだろう。それが自分に向けられた途端ダメなのだ。
以前それを亡くなった皇太子に言ったところ、彼は笑って、男達の女性に対するそういった言葉は出会い頭の挨拶に毛が生えた程度だから聞き流せと言っていたが。どうしてもそれが出来ない。
ピアは鶏肉に下味をつけながら、やはり自分には作り話のような燃え上がる恋愛は縁遠いのだろうかとぼんやり考える。もしくはそんな恋に身を焦がし、皇族としての義務を投げ出さないよう、神がこのようにつくりたもうたのかも知れない。
ピアは軽く首を振り、それ以上考えるのはやめることにした。無心になるため、ここに来たのだ。それに神への供物を作る最中、雑念に惑わされてはならない。
その後は集中してカラアゲを作った。それを侍従たちに運ばせる。行き先は教皇専用の小聖堂だ。
何人分かと言いたくなるような山盛りのカラアゲ、チョコレートをココアと一緒に祭壇へ並べ、ピアは一人跪いた。
女神が降臨するかどうかは分からない。だが、心から祈る。帝国と民のために。今回亡くなった者たちの為に。
神や天使の降臨に立ち会えるのは教皇ただ一人。ピアが聖座に座り十年の時が経ったが、神との対話はそんなに多くない。だがそれも仕方ないことだ。
神様はお忙しい。世界は他にもあるという。
そのお忙しいなかで降臨し、お言葉を頂けるだけでも有難いと思わねばとピアは思っている。
帝室の今後について祈っていたピアはふと昔のことを思い出した。まだ幼かったころのことだ。国内貴族の反乱があり、そのことで祈り、神と話したことがある。
その時、女神は言ったのだ。私はお前たち一族を人間の支配者として創った覚えなどない、と。
ならば、何もせずただ生きているだけで自分たち一族が支配者でいられると思うのは、思い上がりだ。教会は皇帝の座は神から与えられたもの、と説いている。だが神本人がそれを否定した。
さすがにピアにはそれを公表する勇気がない。一万年に渡って守ってきたものを自分の手で壊せないのだ。
だからピアは帝国と国民の為だけに生きる。それが自分に出来る唯一の罪滅ぼしなのだから。
だが兄はどうだろうか。
もしその背後にだれか居たとして、それを利用してまで戻ってきた理由もわからない今、その胸の内は想像出来ない。
本当に定位が目当てで、背後にいるであろう誰かは利用しただけ、あとは己の力で皇帝としてやっていくつもりだと言うのならばまだ歩み寄る余地はある。
だが何事も己に都合よく考えるべきでない。
※※※
翌日の昼過ぎ、ピアはベーレイニガン家を訪れていた。ハムに会うためである。屋敷ではハムは当然のことながら、当主とハムの兄が迎えてくれた。ハムの兄は社交界で多くの女たちから狙われる美しい貴公子だ。ハムと並ぶとその身体はハムの半分くらいに見える。
ハムの父親、ハムの兄は敬虔な信者でもあり、以前からピアとも懇意な間柄である。だがハムの存在は婿探しをするまで知らなかった。
ピアはハムに案内され、ベーレイニガン家自慢の温室に案内された。この屋敷は領地にある本邸でないにも関わらず、広く立派だ。まさか温室まであるとは思わなかった。
「温室まであるのね」
「はい。ここの温室は本邸にあるものに比べれば遥かに小さなものですけれど……」
「この帝都で温室まで備えている屋敷はなかなかありませんよ」
「そ、そうなんですか。私はずっと領地の本邸で暮らしておりましたので……」
緊張しているのだろうか。先ほどからハムは汗を手巾で拭っている。
「なるほど。ハ……失礼。今まで帝都にいらっしゃることは、あまりなかったのですか?」
「はい」
ピアは温室を見まわしながら、なるほどと思った。社交の場に顔を出さなければ存在は知られない。
「ここにあるものは殆ど、我が家の庭師が育てたものです。私が帝都に参りましたのは最近ですので……私が育てたものは少ないです。ですがこちらをご覧下さい」
「この白い花?」
「はい。この花は私が本邸から持って参りました」
「そう、綺麗ね。そういえばあの青い花も美しかった」
ピアはハムに贈られた花を思い出す。勇猛果敢、悪を挫く者、あなたは私の英雄という花言葉を持つ花。
ハムは嬉しそうに笑って頷いた。
「猊下に相応しい花を選びました。ところで猊下が好きな花は何の花でしょうか?」
温室をぐるりと見渡しながらピアは考えた。ハムはここが小さいといったが、じゅうぶんな広さがある。
「あ、どうぞこちらへ。今一番美しく咲いている花をご覧頂きたいのです」
二人は温室内を歩き始めた。今日は天気も良く、入ってくる日差しは優しいものだ。
その日差しを浴びながらピアはまったく関係ないことを考える。今朝一番に飛び込んできた、驚くべき報せだ。やってきたのは兄オルクスからの使者であり、ピアが再三求めていた面会の希望が受理されたという。
今になってどういった風の吹き回しだろうか、とピアは訝しんだ。
戴冠式も近づき逃げ回れない、と思ったのだろうか。そもそも逃げる必要もないかと思うが。もしかしたら向こうもその気はないのかもしれない。だが、あまりの不自然さにピアの周囲、特に侍女達は『戻ってきたのはオルクス殿下の偽物かもしれない』などとお伽話のようなことを言っていたくらいだ。
偽物ならば話は楽なのに、とピアは思う。
しかし、兄達が攻め込んで来た時その姿を見た者もいるはずだ。いかにも偽物な別人であれば、もっと早いうちに噂になっているであろう。
「——猊下?」
ハムの呼びかけにピアは我に返った。どうやら彼は何か話しかけていたらしい。全く聞いてなかった。
「申し訳ない。少し考え事をしていて。そういえば好きな花、でしたか。私はどちらかと言うと花よりも樹のほうが好きなのです。もちろん花も美しいとは思いますが」
ピアの言葉を聞いたハムはぱっと笑顔になる。頬がまるで饅頭のようで美味しそうだ。なかなか可愛いところがあるではないか。
「私も花も好きですが樹も好きです。雄大で力強く、人々の生活を支える樹はまさに猊下のようですね」
思いがけない言葉にピアはおお、と感心した。まさかハムがそんな事を言えるとは思わなかったのだ。
ピアは口を開こうとしたが、ハムが目の前の植物を見つめながら熱心に語り始めた為やめる。
「それに樹の自然界における役割は素晴らしいのです。何と言っても——」
樹の素晴らしさについて熱弁をふるうハムの顔をまじまじと眺めれば、何かおかしい。全くピアを見ていない。それも恥ずかしがっている訳ではなく、うっとりと植物を見つめている。もしかしたらピアが隣にいることすら頭から消えていそうだ。
彼のピアをほめるような言葉は、樹について語るための前置きに違いない。
***
ピアは温室を見せてもらった後、ハムとその父親とともにお茶を飲み、ベーレイニガンの屋敷を出た。予定が詰まっているのだ。長居は出来ない。
「ローレンツ様とのお話は如何でしたか?」
馬車の中でクロイツが問いかけてくる。今は宮殿へ移動中だ。と言っても今日兄に会うわけではない。
別の客人と会う予定があるのだ。本来ならば教皇庁に足を運ばせるところだが、宮殿に用事があるからこちらから出向くと相手には言ってある。実際は用事などない。宮殿内でもし兄を見かけたら、飛び蹴りしてやろうという企みがあるだけだ。
もっとも宮殿の広さを考えれば、偶然会う可能性は低い。だが諦めてはダメだ。めげない心、これはなによりも大切である。
「ハムの奴は樹について熱く語っていた。私の存在など最後は忘れていた気がする。あいつにとって隣にいる私など、その辺を飛び回る羽虫のようなものらしい」
「そ、そのようなことは……」
引きつった顔で慌てているクロイツを手をあげて制した。
「いや、それくらいで良い。私が求める婿とはそんなものだから。そうだろう?」
ピアはうんうんと頷いた。
「御意にございます……。猊下、到着した様子です」
「そう。兄め! 首を洗って待つがいい!」
「猊下……本日お会いになるのはオルクス殿下ではありません。お忘れになりませんよう」
「わかっている!」
気合をいれたピアはクロイツ、侍女と護衛の騎士達を連れて宮殿へ入る。微笑みを浮かべ、兄がいないか周囲に目を配りながら。もちろん下品にならないように気をつけているし、引き連れた供たち全員にオルクスを見たら即座に報告せよと命じてあった。今度会う約束はしているとは言え、まず一度蹴りくらいはお見舞いしたい。
宮殿の奥へと進もうとしたピアは進行方向に見知った顔を見つけ立ち止まった。
「お待ちしておりました、猊下」
「ハイリッヒか」
今日一緒に客人と会う予定の枢機卿ハイリッヒが深々と頭をさげる。彼は教皇庁から先にこちらに来る予定だった。だが控えの間で待っているはずの彼が何故ここにいるのだろうか。
「先に到着していたはずのお前が何故ここにいる?」
「先ほど申し上げました通り、猊下をお待ちしておりました」
「だからその理由を聞いている」
頭をあげたハイリッヒの視線は鋭い。ピアは負けないように睨み返した。
別にハイリッヒはピアの敵ではない。むしろ逆だ。中年を過ぎようかとしている彼はピアの教育係でもあったのだから。
だが枢機卿でもあり教皇の教育係でもあった立場上、非常に口うるさい。
「猊下が何か企んでいらっしゃるご様子でしたので。随分と血走った目をなさって殺気を漂わせ周囲を見回しておいでですが……」
どうやら彼にピアの飛び蹴り計画が漏れているようだ。思わず振り返り、背後のクロイツを睨みつける。彼はさっと頭を下げ、ピアと目が合わないようにした。
腹が立つが仕方ない。気を取り直し、ハイリッヒに向き直ると笑いかけた。
「お前は何か誤解している」
「ならば良いのですが。猊下のご様子に廊下にいる者たちが怯えておりますよ」
ピアは廊下の隅にいる貴族の青年たちに気づいた。全員慌てて一礼し、目をそらす。その様子に舌打ちしたくなったが我慢した。
彼らに恐れられているのは今に始まったことではない。
そう。大切なのはめげない心だ。
「ハイリッヒ、お前は年々髪が減っていくが小言は増える。逆にしたらどうだ?」
ピアの言葉にハイリッヒの顔が引きつった。彼に頭髪の話はご法度なのだ。
何か言おうとした彼を手で制す。ここで何か言わせれば延々と説教される。客人も待たせているし、兄を見つけ蹴りも入れねばならない。自分は忙しいのだ。
「後で聞こう。客人を待たせてしまうのでは?」
その言葉にハイリッヒは頷くと、歩き出したピアの後ろに続いた。一行は宮殿の奥に進む。行政の場であり、普段ならば文官が書類を抱え慌ただしく行き交う一画にまでやって来た。だがあまり人がいない。
文官も入れ替えるのだろうと考えながらピアは階段をのぼる。やはり二階にもあまり人影がなかった。
客人の待つ部屋はこの区画を抜けた先だ。ピアは何気無く窓から中庭を見下ろした。
「人が少ないですね」
ハイリッヒが思わずといった様子で呟いた言葉もピアの耳には入らない。
何故ならば、窓の外——こじんまりとした中庭となっているそこに目が釘付けとなっているからだ。そこにはピアと同じように供を連れた、長身の男の後ろ姿がある。
後ろ姿と金髪しか見えない。だがピアは確信した。
あれは間違いなく、己の兄であると。