夏休み前日、最後の登校
仕事か、遊びか。朝帰りの様子の隣人とあいさつを済ませた後、透は駅の方へ全力で走っていた。
彼のすんでいるアパートは、線路を挟んだ駅の向かい側にある。一応、こちら側にも大きな橋を渡すように駅の入口があるのだが、ぎゅうぎゅう詰めに建てられていく家々や、大きなマンションなどによって、駅までの道は迷路のように入り組んでいた。
それよりも、アパートを出てすぐにある線路に沿った細い道を離れた歩道橋まで走り、歩道橋を渡って折り返すように向こう側の駅へ向かった方が、「コ」の字型の道筋で迷わず走っていける。道を歩く才能の方が無い彼は、遠回りの方が速い。体力は有る方だったりする透は、毎日のようにここを走って通っていた。
電車の走る騒音と風が通り過ぎると、街の中でタッタッタッと走って行く足音が耳に残る。少しは知っていると緩やかなカーブの先に歩道橋が見えてきた。電車が通過していくと、代わりに彼が走っていく足音が辺りに聞こえてくる。駅ではすでに混雑をきわめているだろうが、ここらは別世界のように静かだ。
こういう静かな時間が、彼は好きだったりする。が、その時間を悠長に感じ入ることは出来ない。歩道橋を駆け上がった彼は、ふと、何かを感じて立ち止まった。
ポケットの携帯電話を手にとって取りだした丁度その時、電話の着信を伝える着信音を鳴らす。
画面を見た透は、思わず眉間に皺が寄る。相手は「つーたけ」とあだ名が表示されている……駅で待ち合わせをしている友人からのものだった。
「……。」
出るまでもなく、言われることの大凡見当がつく――かと言って、出ない時間が長ければ長いほど、後で怒られるのがわかっている。透は嫌々ながらも、すぐさま電話に出た。
耳に電話を当てたところで、止まっている時間がもったいない気がしたので、ペースを緩めながらも走りだした。
「……おはようございます」
電話に出た透は若干息を切らしながら、わざと敬語で出た。
「――お前、今どこよ? ――」
案の定、不機嫌な声が間髪いれずに聞こえてくる。
「今、歩道橋を渡りきろうとしている最中」
「――ん、そこか――」
意外にも反応の薄い返事(透は怒られると思っていた)が帰ってきたかと思うと、電話口から遠ざかった気配がした。一言、二言、雑音の混ざる奥で誰かと話している。
「――さっさと来い。以上――」
ほんの数秒の奥の会話を終えると、彼はぶっきらぼうに言い放った。声の調子からそんなに怒ってないことを察した透はちょっとふざけてみる。
「りょーかい。全力で向かいます、隊長」
電話口の彼が隊長と呼ばれる所以は特にない。透がにやりとしながら答えると、彼は短い舌打ちの後「まったく……急げよ」と軽く鼻で笑って電話を切った。携帯電話をポケットに戻す。歩道橋の下りの階段を下りている最中だった。
数分後、なんとか電車に間に合う時間内に着いた。おそらく、朝食なんてとれる時間などないだろう。駅に着くころには、予定の遅れを二分程に縮めた程度となった。
普段の予定から二分ほど遅れているといっても、いつもの時間の電車には十分乗れる。
「……寝起き直後のノンストップ・ランは……中々キツイ」
膝に手をつき、立ち止まって息を整える透は、急き込みながら呟いた。幾分か楽になったところで背筋を伸ばして深呼吸すると、歩き出す。時間確認に開いた携帯電話の電源を半ば条件反射のように切ると、ズボンの右ポケットに携帯をしまい込んだ。
……出るときは、暑すぎない比較的過ごし易い日かと思っていたが、今はもう、ワイシャツの下に着ている下着が汗を吸って湿っている。
終業式の時は制服をこの上から着るのかと思うと、変えのシャツでも持ってくればよかったと透は思った。
まだ少し息が上がったままに、忙しなく交差する人の流れに混じって、駅のすぐ近くにあるコンビニに入る。自動ドアが開くとともに流れてくる、冷房の利いた空気が心地いい。中は混雑していたが、その中で二人の高校生に目がとまる。二人とも本を読んでいるようだが、一人は小説か何かの様で、もう一人は携帯電話をいじりながら雑誌を立ち読んでいる。ふと、その同じ制服の二人の高校生のうち、小説と思われしき文庫本を読んでいるガタイのいい一人と目があった。
途端に、彼の仏頂面の表情が和らいで、笑顔に――ではなく、あきれ顔になった。
「おっせーよ。ヨル」
こちらに気づいたスポーツ刈りの少年は、手に持っていた本を挨拶するように軽く上にあげた。彼の名前は、樋野 松之介。彼の言った『ヨル』とは、透の名字の夜茂木沢の『夜』を訓読みにしただけの愛称だ。
松之介とは中学生からの同級生で、仲が良い友達の一人である。透と限ったことではなく、彼の行き過ぎない真面目さや、温厚的な性格からか親交のある人が多い。
最近では滅多に見せないものの中学の頃は若干、気が短いところがあった。幾度か無謀にも、彼との小競り合いで喧嘩に発展して倒されるといったことは、ままあったことだ。
そこが出ているのかどうかは分からないが、少し前からずいぶんとお世話に(?)なっているTVゲームなどでは、味方の先陣を切って敵陣に突っ込んでいく勇姿に、『特攻隊長』としばしば言われている。
四人でパーティを組み、連携していくといったゲームなので、時折無謀だが、彼の攻撃的な行動は主力となっていた。
対戦ゲームでも強く、現実でも柔道部に入っていたりと肉体的にもとてもつよい。結構、謙遜する(というよりも、『接待』に近い)節があって、クラスの友達にはゲーム下手だと思われているらしい。
「いやぁ、すま――」
「あ、お前! やっと来たのか……!」
上がりきった息を少し詰まらせながらも、透が苦笑しながら謝りかけると、それを聞きとる前に一人の少年が言った。携帯電話をいじっていたが、松之介の声で気付いたらしい。
若干怒り気味のこの少年。彼の名前は、竹居 由久。
いつもは軽薄なノリに色々と知っている雑学者な上、時折妙に頭のキレが良く、透には少しつかみどころが無いような気もしている。
目は少し釣り目で、話しているといつも薄笑いを浮かべている。少し独特な雰囲気を漂わしていて、友達も結構というか、多い。取り敢えず、透よりかは段を違えて社交的なのかもしれない。
松之介と同じく、彼も一緒にTVゲームをやっているのだが、彼は主に「指揮役」を担うことが多い。二人が知らない攻略法をしっているからということなのだが、防御力の高さや、回復役も担っているので、ぴったりと言えばそうだった。
彼は周囲から「つーたけ」と呼ばれていて、透も携帯電話の登録に「つーたけ」と入れている。何故、そんなあだ名なのかは知らない。気が付いたら、そのあだ名が定着していた。
「だいたい……お前が一番駅に近いのに、毎回のようにぎりぎりなのはおかしいだろ?」
「あ、いや……ご、ごめん」
ひやりとした呆れ口調でいう。ここ三日ほど連続でギリギリだったので、さすがに不味かったみたいだ。
松之介は「最終日くらいまともに起きりゃぁいいのに」と、独り言なのかわからない位の声で愚痴る。苦笑する透が目をやると、肩にかけている鞄に持参した推理小説の本をしまっているところだった。
息切れをしてへとへとの透を一瞥して、由久はため息をしながら、本を元の場所へ戻すと携帯電話を素早くマナーモードにしていた。由久は携帯をしまうと幾らかの食べ物とペットボトルジュースを手にとってレジに歩いていく。一方で松之介は、まっすぐにコンビニを出て行った。
透もサンドウィッチを一つと缶ジュースを手にとってレジでお金を払い、コンビニを出た。
よかった。これなら学校に着いてからでもすぐに食べられるだろう。式中は長くて退屈なうえに自由が利かないだろうから、向こうに着いてからすぐに食べようか。
「それで? 今回はなんで遅れたんだ?」
電車を待っている時に由久が先程買ったお握りを食べながら聞いてきた。パリパリとなる海苔の匂いで、急におなかが減っていることに気がついた透は、食べられてくお握りを注視しすぎて、危うく由久の言葉を聞き落とすところだった。
「――なんで遅れたんだ?」
聞き遅れに合わせて返答を考えていると由久が再度聞いてきた。前かがみになって息を整えている透は、今更になって大量に額に滲んできた汗を手の甲で拭いながら答える。
「いや……実はこういうわけで」
「……うぉ」
膝に着いていた手でズボンをつかむと右足の脛を見せた。今朝の痣は、心なしか更に痛々しく青みを増しているように見える。
由久の半目になった視線だけでも呆れているのが伺える。
「あ~あ。お前、またやったのか」
由久の横に立って携帯音楽プレイヤーを取り出していた松之介は、少し笑いながら言った。
「で? 今回でどれくらい壊した?」
「今回のはすごいよ。吹っ飛んで破片が少し飛び散ってた。案外脆かったよ。安かったからかね?」
少し元気を取り戻した透が、自分でも可笑しくて笑いながら答えると松之介も苦笑しながら「いや、そうじゃなくて」と手を横に振った。
「何個目だよ、壊したの」
「あ、そういうこと」
松之介の突っ込みに、透が頷きながらも思い出してみた。少なくても十の後半は壊している。
「ああ、もう二十個かな」
松之介が驚くと、由久も、おいおい……と言いつつ呆れまじりに笑っていた。もう目覚まし時計を買うのを止めようかね……、と透が呟きかけたところに電車が着いて、会話が打ち切られた。
押し流されるように電車に乗り込む。電車の中では基本的に会話はしない三人は、松之介も由久も、それぞれイヤホンをつけて音楽を聴いていた。透も音楽を聞こうとポケットへ手を突っ込み、ハッとする。携帯型ミュージックプレイヤーは充電をしていたために、部屋に置きっぱなしだったのだ。携帯電話の方で聞こうとしても、イヤホンすらない。
仕方ないので、透は黙って考えを巡らせることにした。
今日の予定……。学校から帰ってからゲームをするか。バイトの方は、今日を含めて五日ほど連続で有給を使わせてもらっている。
夏休み中のお盆など、忙しい時期に昼夜入れる代わりにといった感じなのだ。
松之介、由久、そして透。透が友達と遊ぶ時は、大体この二人と一緒にTVゲームをしている。
もっとも、三人がなぜTVゲームに夢中になっているかというと、なんとなくだったりもするのだが。もともとは、透が一人暮らしをしていて、まだ不慣れているせいか生活のやり繰りが大変で、あまり遊びにお金を費やせないからだ。
本来なら駅前のカラオケBOXなどに行って遊んだり、透が一人だと、時折ふらりと日帰りの手軽な旅行に行ってしまったりすることが多い。
透の思考は、ゲームから生活。生活費からアパートへと転がって行った。
今朝の女性。
久我さんは隣の一〇五号室に部屋を借りている。見た目からして透は多く見積もっても三十歳くらいの人だ。
仕事が好きでバリバリに働いているらしく、金曜日の朝に部屋に帰ってくる姿はよく目にする。彼女の定休日はどうやら金曜日らしい。なぜ一日ずれているかは知らない。
おばさんって感じがしないんだけど、でも、若くはなさそう。
それが大家さんに紹介してもらいながら住人へのあいさつ回りをしていた時の感想だった。
大家さんの話では、今のところ透を抜けば久我さんが一番若いらしい。他の若い人は、最初は家賃の安さで住んでいる様だが、一年もすると近くの他の物件に流れて行ってしまうらしい。
事務的、という言葉から大分離れている大家さんは、彼女が二十代後半と年齢をばらすと、物凄い速さで「ベシッ」と殴られていた。……まぁ、とにかく安くてバイトと学校に行きながらでも住める所を探していた結果がこれだったというべきか。
住んでいる人たちの話をするのは正直、あまり良いとは思わない。
それは「会話をしたくない」という意味ではなく「その人たちの身の上話は考えたくない」という意味だった。今はどんなところに住んでいるにせよ、その人たちにも何かあってあそこに住んでいるのだろうと思わずにはいられない。
透はあのアパートでも別段、不満はないのだが、定住するかどうかを聞かれると悩めるところだった。
何か理由があるのかもしれない。でも、それがどんな理由にせよ、透が考え付いてしまうのはよくないことばかりで、あまり知りたくなかった。だが、久我さんの場合、状況がちょっと変わる。彼女の場合、休日とかで、外で偶然会ったりすると、自分から話してくるのだ。
彼女は「面倒見がとても良いことで良く褒められるのが、ちょっとした自慢だ」と言っていた。ここに越してきて、最初に話しかけてきてくれたのも大家さんを抜けば久我さんだった。
彼女は引っ越すお金もありそうなのだが、そうはしないらしい。どうやらここが気に入っているらしいのだが、それには少し同意しかねる。
どうしてここに住んでいるんですか? と尋ねた時、言った直後に、結構失礼なことをきいたかもしれないと後悔した透だったが、彼女は笑って「住めば都」とだけ答えた。笑っている年上の女性に、透は愛想笑いを返す。
最近は大分慣れてきてたが、透にはあそこが都とは思えない。
人と人との間で埋もれかかっている窓の外で流れゆく景色に目をやりつつ、せめてもう少しあの部屋が静かだったらなぁ、と思っていた。