20 大人しければ、見目麗しき淑女 前編
異様に元気なエルフィンにソファの上で必死の攻防をした透だったが、一枚上手のエルフィンに服を脱がされそうになる。
「いいじゃないの~」
「ちょ、止め――」
「!?」
服を脱がさんと伸びてきた彼女の腕を掴むと、彼女をつい投げ飛ばしてしまった。
一瞬、しまったと思った透だが、ベッドの上を跳ねて落ちる彼女の表情を見た途端にそんな気は失せる。一瞬、視線があったエルフィンがぎらつく様な眼でニヤリと笑いながら落ちて行ったのだ。
慌ててソファからベッドを横切ると一目散に廊下につながる扉へ向って走り出す。
「――っえあ!?」
隣の部屋通じるドアの所で何かにつまずいた透は、躓いたものを派手に吹き飛ばしながら床に転ぶ。バサバサっと本が崩れた。
「なんだよ――」
透は自分の躓かせたものを確認しようと振り向きかけたが、テーブルや椅子の足の向こう側で、駆けて行く足が見えた。
やばい! 出口が……!
すぐさま立ち上がり、出口に向って走りかけたが、出口と透の間に横から両手を広げてエルフィンが割り込んだ。左手に持っていた服がその勢いにあわせて大きく揺れる。
「ふ、ふふ……! 優しい女性を投げ飛ばすなんて――ずいぶんな真似してくれるじゃないの~?」
たじろいで数歩下がる透に向って、息を切らせつつエルフィンが言った。
口元にだけ僅かに笑む無表情に顔を煽らせて言う様は、アーウィンには遠く及ばぬものの、まさに迫力がある。「フフフ」と息のように漏らす笑いには、不気味さが漂っていた。
年がら年中、安っぽい怒り方をする透には到底、できそうにない迫力だ。
「フフフ、可愛い可愛いトオルちゃん? 私がお洋服を、い・ま、着替えさせてあげますからね~」
あやし言葉を使うエルフィンに、逃げ道を失った透はゆっくりと歩いてくる彼女を警戒しながら後ずさりをする。
逃げ道がない……なら!
「あ、まて!」
透はサッと開かれていた脱衣室に飛び込むと同時に、内側の取っ手を握って勢いよくバタンっと扉をしめた。
すぐさま鍵を――あれ? 薄暗い中、取っ手を見た透は顔が青ざめた。この扉は元々鍵なんて付いてない。
脱衣室なら鍵が付いているのではないかと思っていた透は、自分の突飛の無い予想を恨んだ。 慌てて取っ手を固く握る。脱衣室は内側から引いて閉じる扉だが、幸い、取っ手は円形状のものではなく、棒状のものだ。
扉の向こうから引っ張ろうとする力を感じる。
「お~と~な~し~く、この服着なさい!」
分厚い、立派な木製の扉の向こう側で少しヒステリック気味に叫んでいるのが聞こえる。
「いやです、そんな服、着たくない!」
思わず『元の』透で、ドレスのような服を着たところを想像してしまった。途端、青ざめて反射的に叫ぶ。
「そんな服とはなによ!?」
透の言葉にエルフィンの声が数段階上がった。
「お、俺はこういう服の方がいいです!」
その声に縮み込そうにながらも、透は必死に叫んだ。 それと同時に、元の男の体であればこんなの必死にならずに済むのに、と透は思った。こんなに腕が細いと、これほどまで力が入らないのか。
「君ねぇ~! 最初に約束したでしょ? 部屋着は男物の服を持ってきてあげる代わりに、外行きはおしゃれに決めるって!」
どうやら、怒り気味のようだ。声に少しだけ怒気が混じっているのを感じる。
「確かに約束しましたけど!」
慌てて透は、言い訳をしながら必死に大声で訴える。
「それはさすがに行きすぎです!! ――?」
不意に、向こう側からの力が抜けた。
「……あっそ。ならいいわ」
静かになった部屋で、エルフィンの拗ねたような声とともに、コツコツと革靴が石畳の床を叩いて行く音が聞こえた。廊下側の方で扉の開閉する音が聞こえる。 透は急に心の内が冷えて、取っ手を握る手を緩めた。右手を見てみると、圧迫されたせいで真っ白になっていた。 すぐさま血が通って赤みを帯びる。
「……。」
辱めを受けたくない一心で、必死で断ったが……。
考えてみれば、自分の言い出したことの結果であるし、『そんな服』と言ってしまったが、透の『今の』外見を考えて、似合うと思い、選んでくれたのだ。
透はため息をつきつつ、今も取っ手掴んでいる左手に力が入る。
また、人の好意を粗末に扱ってしまった。強い後悔が透を渦巻く。こわばる顔を両手で揉んだ。嫌な気持ちと共に、嫌な記憶もいっしょに思いだしてしまう。
そう、昔から。あの時はこういうことの積み重ねで……。いつも、そう。気づいた時にはもう遅くて……。……? だれか……いる?
不意に、扉の向こうに人の気配を感じた透は、いつの間にか放してしまっていた取っ手を急いで掴みかかる。だが、それより早く扉は透の手をすり抜けて奥に開かれていった。
そう、いつも気づくのは遅いのだけれど……。
取っ手をつかみ損ねてバランス崩しかけた透は、前のめりになる。視線を落とした先には、わずかに見覚えのありそうな、ブラウン色のニーソックス。
こういうのは、初めてかな。
「ハロ~? しょ・う・ね・ん」
「あ……」
引き攣った顔で見上げた先には、ニヤニヤといかにも楽しそうな表情に得意そうな声で、仁王立ちするエルフィンが居た。
やられた。
透は目をそらせないまま、心の中で呟いた。エルフィンは、部屋を出て行ったと思わせておいて、忍び足で脱衣室まで歩いてきていたらしい。
おしゃれな革靴を履かず、靴下で歩いているのはその為だろう。こんな初歩的な事に引っかかるなんて……。
「さ~て――いい加減観念しなさないよ?」
「!」
再び取っ手に手をかけた透の手首をつかむと、エルフィンがにこやかに言った。部屋から脱衣室に向かって光が入ってきているため、見上げる状態の透からは、エルフィンの顔の中央付近一帯に黒い影があらわれている。
無表情から口元を緩やかに釣り上げた『にこやか』が、数倍の効力を発揮した瞬間だった。
「えっと……あ~、ちょっとシャワーを――」
言い訳を言いかけたが、透は途中で止めた。口元だけの『にこやか』が、意地悪な笑みに変わったからだ。
「そう? じゃぁ、私が手伝って――」
「結構です!!」
顔面真っ赤にして叫んだ透は、エルフィンの手を振り払って乱暴に扉を閉めた。 薄暗い脱衣室の中で、扉の向こう側から彼女が話しかける。
「あなた、相当うなされてたのよ? 大丈夫なの?」
言いつつも、エルフィンの忍び笑いが聞こえた。心配も含まれていると信じたいが、悪戯好きのエルフィンのことだ。 ほぼ間違いなくからかっているのだと、透は思った。それでも扉を半開きにして腕を伸ばす。
「……服、貸してください。出た後で、着ますから」
一瞬、キョトンとした表情になったエルフィンは、次の瞬間には満面の笑みが広がっていた。
「はいはい、どうぞどうぞ」
「……。」
複雑な表情で受け取った透は、黙ったまま扉を閉めた。 受け取った服を棚に丁寧に置いて、何時も通りに他のことを考えながらシャワーを浴びにいく。今日はあの夢のことで頭がいっぱいで、むしろ意識しなければじっとシャワーに打たれるだけになっていた。
あの夢は、久しぶりに見る。もう随分と見ていなかったので、透はすっかり治ったものだと思っていた。なんで、今更になって……。シャワールームに入った彼は、手を伸ばして蛇口をひねる。冷たい水が流れてきたあと空気の壁の様なものが辺りに広がり、お湯が出てくる。
床を叩く水の音が、透の意識を内面へと引き込ませていく。 後頭部からお湯を浴びながら壁をぼんやりと見つめる彼は、夢の情景について思い出していた。
あの夢は、いつも透に激しい怒りをぶつけてくる。憎い、殺したくてたまらない。そんな感情が全身に響いて、透を動けなくする。 黒く塗りつぶされた小学生の透はいつまでも、あの姿のまま透の前に姿を現す。
以前、カウンセリングを受けていた時、その手の夢や幻覚症状を時折見る意外、異常は見られないとのことだったが……。
『――記憶のない時期が気になりますね』『それは……』
両親が少し後ろの両脇に座り、しばし言いにくそうにしている。別に気にしている様子のない小学生の透は、脚をぷらぷらとさせながら両親の顔を見上げている。
『――事故があったと聞いていますが……』
『ええ、まぁ。雨の日のことで――』
父が話す。医者は少し片眉を吊り上げて透を見た。透が見つめ返す。
『この子には、何か断片的にでも記憶が?』
『いえ、全く……』
母は透の頭を撫でつつ、即答した。
『病院で目が覚めた時、私たちに発した言葉は「誰?」でしたから……』
言葉尻が湿り気を帯びてゆく。透が母の顔を上げると、悲しそうな顔をしていたのが分かった。
――キュッ
蛇口の閉める音がシャワールームに響き渡り、床を叩く降り注ぐお湯の音は立ちどころに止んだ。
「……。」
しばしの無言の後、ふぅっと息をついた透は後ろ髪を絞りあげながらシャワールームを後にする。 古い、思い出……さ。今はもう関係のない。風化した記憶に興味なんて、ない。 タオルで頭をくしゃくしゃと拭きながら、透は心の内で言い聞かせるように呟いていた。
過去なんて、いらない。




