Poor Man's Cocaine
――いらっしゃいませ。
確かに智恵はそう言った。僕の聞き間違いでなければ来店の挨拶をしたのだ。彼女は五年前と全く変わっていなかった。着ている服こそ違うものの声や顔、細かい仕草まで同じだった。デジャビュのように二人で住んでいたときのことが思い出された。
彼女は一通りマニュアルのような言葉を吐くと僕をテーブル席へ促した。ホステスというとやたら客にベタベタ触るものだと思っていたがそうでもないらしい。その証拠に僕はまだ智恵に触れていない。
テーブルには僕と彼女二人だけになった。僕は何を話せば良いのかわからなくなりしばらく目線を泳がせていたが、彼女の方から話しかけてくれた。さすが銀座のクラブだけあって装飾はきらびやかだった。
――お名前はなんとおっしゃるの?
――遠野良平。
そう答えたとき彼女の目に動揺が窺えた。やはり彼女もまだ覚えていたのだ。
彼女とは一年間ほど同居していた。その頃僕は金が無かったし彼女は男に飢えていた。つまりそういうことだ。僕は家事も手伝ったし彼女は出来ることを精一杯した。仕事は二人ともしていたがそれでも半年経った頃には彼女の蓄えも底を尽き、借金の取り立てが家に来るようになっていた。
そこまで追い詰められたのにはしっかりとした、あまりに単純な理由があった。僕は覚醒剤をやっていて普段から結構な本数を使用していた。針を刺すのにも慣れていたし痛みも感じなくなっていた。もしかしたらそれは薬を欲する僕が痛みを消していたのかもしれないし、そもそも感じるような痛みは無かったのかもしれない。いずれにせよ、それは家計を確実に蝕んでいき僕から彼女を奪い去った。
取り立てが始まって半年経ち彼女は倒れた。医者に診せにいく金は無かったのでベッドに寝かせるだけの治療になった。そうしている間にも取り立ての回数と激しさは増すばかりで、ある日僕が仕事から家に帰ると智恵は荷物も残さずいなくなっていた。
彼女が出て行くことなど最初からわかっていた。それでも薬を止められなかった自分が憎かった。
だから僕は、自ら捕まった。
――何かお飲み物は? ウィスキーなんてどうです?
俺を思い出したように見えたがそうではなかったらしい。僕はウィスキーは飲めない。あまりきついお酒はどうも無理なのだ。その事を智恵は知っていた。
店の喧騒が激しくなってきた。まだこの店に入って五分程しか経っていないが五分前と比べると人の数は倍ほどに増えている。
――軽いもの、あるかな? 君の好きなものでいいよ。
――。
上手く聞き取れなかったが適当に頷いておいた。きつくなければ何だっていいのだ。そもそもここへ来たのも智恵に会うのが目的だった。それ以外のことはどうでもよかった。例え請求が十万だろうと気にしないし、店の雰囲気が最悪でも智恵がいるだけで我慢が出来た。幸い店の雰囲気は良さげなので今のところ我慢するようなことはない。
柑橘系の実が入ったカクテルが二杯運ばれてきた。僕と彼女の分だろう。
僕は彼女に尋ねた。
――智恵はいつからここで働いているのかな?
――私は京子ですよ。お客さん面白いですね。
始めにそう名乗っていたのを思い出した。彼女の源氏名が京子ならここではそう呼ぶほうが無難だ。
――実は五年ほど前に親の借金を肩代わりしちゃって……。でも今は楽しいからやってます。
軽く頷いたあと僕はカクテルを少しだけ飲んだ。アルコールは入っていないようで飲みやすかった。彼女が配慮してくれたのだろうか。
――それ、サンドリヨンっていうの。素敵な名前でしょう? きっと味も気に入るわ。
彼女の言うとおり爽やかで口当たりのいいものだった。無言の僕を気遣ってか彼女は話し続けた。
――サンドリヨンはシンデレラ。私シンデレラが好きなの。子供みたいでしょう? でもいつか私もシンデレラのようになってみたいと思うの。
それは僕を誘っている文句に聞こえた。彼女は僕を覚えていてまだ愛してくれているのかもしれない。しかしそんな些細な希望さえも僕の記憶は打ち消してしまう。
裁判では執行猶予が付いた。刑務所に入れられると思っていた僕は拍子抜けした。僕の場合は覚醒剤の使用のみ――残っていた覚醒剤は処分していた――だったため軽くなったのだ。運が良かったとしか言いようがなかった。いや、この事を戒めと考えるなら悪かったとも言うのかもしれない。
裁判が終わってすぐに精神病院に入った。入院して一週間ほどは全く何も起きず平和に過ぎていった。もちろん気分は悪くなるし薬も欲しくなったが監視されているので何もできなかった。もしかしたら禁煙より楽なのではないかとさえ思った。しかしあれはそう簡単に僕を許してはくれなかった。
病院にも慣れてきたある日、突然気持ちよくなって僕が暴れ出すことがあった。フラッシュバックが起きたのは明確だった。おそらく自分でもわかっていた。制御することはできなかった。結局その日から手足を縛られながら生活することとなった。
それからはほとんど地獄だった。四六時中体が薬を欲したし、そうでないときはこのまま死ぬというぐらい暗い気持ちになった。手足が拘束されているのは自分のせいではなく、周りが悪いものだと思いこんでいた。医者は怪しい薬を飲ませようとするし、僕は本気で殺されると思い目一杯暴れた。
フラッシュバックが出て数日後、隔離病棟に移された。今では隔離病棟だと認識できるが当時は牢屋だと思っていた。執行猶予中だったのでフラッシュバックのせいで有罪になってしまったと思ったのだ。そして暴れるのを控えた。もちろん変な気分がして暴れることはあったが、落ち込んだ状態で暴れることは少なくなっていたと思う。
一ヶ月ほど経って安定しだした頃、智恵に手紙を出そうとした。看護婦に代筆してもらい丁寧な内容で書いた。便せんは真っ白で清潔そうだった。封筒も折り目一つなく真新しいものだった。肝心な住所を書く時に気付いた。僕は彼女の住所を知らなかった。知らされていなかったのだ。彼女が僕を捨てて出て行ったことを思い出した。
そもそも彼女が僕と一年間も同居してくれていただけでも充分信じられないことなのだ。彼女は気だても良かったし容姿もなかなかだった。町ですれ違えば大抵の人は振り向くし電話で話せば絶対に会いたくなるような性格だった。
――おいしかったよ。
サンドリヨンを飲み終えた僕は彼女にそう言った。何かもっと気の利いた言葉があったのかもしれないがその時は思いつかなかった。
――ありがとう。良平さんはなにか好きなものはないの?
彼女はサンドリヨンを少し口に含むと、中で転がすようにしてカクテルを味わった。昔は毎日していた濃い接吻を連想させた。僕はそれを見ていて、五年間の空白はすぐに埋められそうだと思った。
――これと言っては……。強いて言うなら針かな。
自分の言っていることがよくわからなくなってきた。今夜はアルコールを摂っていないので酔いではないはずだ。
――変わった人ね。
――よく言われるよ。
何かアプローチしなければ、と思った。ここまでで彼女の過去に関することは何ひとつ聞き出せていない。店は覚えているので明日も明後日も来ることは出来るがなるべく早く済ませたかった。
――君は恋人はいるの?
口にしてからしまったと思った。こういうことははっきり聞くものではない。長い精神病院生活でなまってしまったのだろうか。かつてトークは僕の得意とする分野だった。女の秘密を喋らせることはもとより事実でないことを話させることすら可能だった。自慢ではないが職場では『ネゴシエイター』と呼ばれていた。
――そう見える? 残念ながらいないわ。今までそんな余裕なかったのよ。今もね。別に営業のための台詞じゃないわ。本当にいないの。
――前の恋人はどんな人だったの?
僕には大体の予想は付いた。彼女は僕の所を出て行ったあと路頭に迷ってしまい、こんな所で働く羽目になってしまったのだ。そうに違いない。そして今こうして僕に助けを求めている。僕以外の誰が彼女を助けられるのだろうか。
――普通の人だったわ。それより良平さんはどんな仕事をしてるの? 私、知りたいな。
ハローワークに通っているとは言えなかった。アルバイトはいくつか掛け持ちしているが定職を持ちたかった。裁判の前までは普通に仕事はしていた。それなりに大きい貿易会社に就職していた。同僚の中では一番の出世株だったし未来は明るかった。それがあれのせいで一遍に駄目になった。会社はクビになり前科があるということでどこも雇ってくれなくなった。
――社長みたいなことかな。そんなに大きな会社じゃないけどね。
彼女は心底驚いているようだった。僕は自分の格好をよく見直して彼女の驚きを理解した。当たり前だ。ボロボロのジャージにタルタルのシャツを着ている僕が社長のはずがない。実際社長ではない。
――そんなに偉い人なの? なんか尊敬しちゃう。
そんな思いとは裏腹に彼女はそれを信用してしまっていた。どうしてこんな嘘をついてしまったのだろう。
精神病院を出て最初に向かったのは彼女と暮らしていたアパートだった。案の定、彼女の面影はなく、辛うじてあの頃のままの状態を保たれているだけだった。
僕はそこで生活を始めた。アルバイトも始めて順調に見えた。仕事こそ簡単には見つからなかったものの今はこのままでいいと思えた。
時々酷いことを言われたりもした。でもその頃の僕に言い返す気力もなくただただ聞き流すだけだった。
そんな時銀座のとある通りで智恵そっくりの女を見つけた。僕は智恵だと思い跡を付けた。確実に智恵だった。細かい仕草が瓜二つだったのだ。彼女はあるクラブに入っていった。彼女が行く先も告げず出て行ったわけがわかったような気がした。たぶんホステスになった自分を僕に見られたくなかったのだ。
そうは思っていても僕は彼女に話しかけずにはいられなかった。限りある時間を使い切り身を粉にして働いた。おかげで彼女が働いているクラブに出入り出来る程度には貯蓄できた。
そして今、僕はこのクラブにいる。隣には彼女。あとはアフターの振りをして店の外に連れ出すだけでいいのだ。それだけで……。
なんだかとても疲れてきた。働きすぎたせいだろうか。ものすごくお腹も空いてきた。彼女を助け出したらどこかで腹を満たしてホテルで休憩しよう。ここは繁華街なので見つけるのはたやすいはずだ。
――ここから逃げよう!
――え? 何? 新しい冗談?
僕は今しかないと思った。ポケットにはあらかじめ用意しておいたナイフとポンプが入っていた。いざとなったらナイフを使えばいい。僕は彼女の手を握り立ち上がった。
――ちょっと何?
――君を助けるんだ。
他のテーブルの客が一斉に振り向いた。どうやら頭のおかしい客と思われたらしい。何も知らないでのんきなもんだ、と思った。
――君はそのままでいいよ。
ウェイターや他のホステスが寄ってきた。彼女が何か呟いたが聞き取れなかった。何だか体が変だ。凄まじい疲労感が僕を襲った。僕はナイフを取り出し野次馬に突きつけてこう言った。
――動くと怪我するぞ!
そうは言ったものの気力が持たずさっきまで座っていた席に再び座り込んだ。彼女は相変わらず隣にいるが自分の体が動かなかった。
あっと言う間に大勢いた客は全て出口に向かい店内は僕と彼女と数名の従業員だけになった。今なら絶対に逃げ出せる。そう確信していた。
体が動かないのは薬が切れているせいだ。早く打たないと逃げ切れない。
店内はこの上ない緊迫感に包まれていた。もちろん僕がそう感じるだけで実際には何ともないのかもしれない。
正面の入り口が開く音が聞こえた。
警察が店内に踏み込んできたらしい。入り口のほうで騒ぐ音が聞こえた。裏で違法な博打でもやっていたのだろうか、と思ったがどうやら違うようだ。僕はポケットからポンプを出しいつも通り左腕に刺そうとした。ナイフは横に置いておいた。警官が僕の方に向かっていた。智恵は僕から離れ何処かへ行ってしまっていた。でも今はそれどころではない。早く注射を打たないとだめだ。
「おい! これは何だ」
いつの間にか右手は警官に握られており針が刺せなくなっていた。仕方なくポンプを持ち替えようとした。
「駄目だな。これは預かるから」
ポンプを警官に奪い取られた。全てが終わるような気配がした。
「やめろよ! 返せよ!」
僕の腕を掴んでいた警官はポンプを他の警官に渡すと側にあったナイフを手ではじき僕に話しかけた。
「お前、クスリやってんのか?」
何も答えなかった。しばらく黙秘していると警官は喋るのをやめた。そしてポンプを渡された警官が戻ってきた。
「覚せい剤でした」
「午後十一時三十七分。覚せい剤取締法違反で逮捕だ。罪を増やしたくなかったら騒ぐな」
両腕を押さえられ手錠を掛けられた。外して欲しかった。智恵を助けなければならないからだ。
「放せよ! やることがあるんだよ!」
僕の要求は受け入れられそうになかった。たぶん正常な思考が出来ていればもっとやりかたがあったのだろうが、今の僕には暴れることしか出来なかった。そう、いつか精神病院でしたように。
「俺が智恵を……」
気付いたとき僕は刑務所の中にいた。可笑しい。思わず笑い出す。覚せい剤が必要なんだ。あれさえあればこんな所抜け出して智恵を助けられるのに。あれさえあればこんな惨めな気持ちにならずにいられるのに。あるいはあれさえなければ……。
薬が欲しい。クスリが欲しい。欲しい。欲しい。欲しい。欲しい。欲しい。欲しい。欲しい。欲しい。欲しい。欲しい。欲しい。欲しい。欲しい。欲しい。欲しい。欲しい。欲しい。欲しい。欲しい。欲しい。欲しい。ホシイ。ホシイ。ホシイ。ホシイ。ホシイ。ホシイ。ホシイ。ホシイ。ホシイ。ホシイ。ホシイ。ホシイ。ホシイ。ホシイ。ホシイ。ホシイ。ホシイ。ホシイ。ホシイ。ホシイ。ホシイ。
シニタイ。