第1話 選ばれし者
「ジン!」
声のした方へ振り返る。
そこには、一人の少女が立っていた。
少女がこちらに手を差し出す。
俺はその手を取った。
そして、二人で手をつないで歩き出した。
*
ガタン。
車体が揺れた。
目を開けると、バスの座席に座っていた。
窓の外には、見慣れた街並みが流れている。
『次は、駅前。駅前です』
どうやら眠っていたらしい。
俺は降車ボタンを押した。
*
俺の名前は、夜明陣。
二十三歳。
高校を卒業して、そのまま就職した。
社会人になって六年目。
どこにでもいる、ごく普通の会社員だ。
少なくとも、周囲からはそう見えていると思う。
駅前でバスを降り、改札へ向かう人の流れに混じる。
時刻は午前八時十二分。
いつもと同じ時間。
いつもと同じ道。
いつもと違うのは、俺が会社へ向かっていないことくらいだった。
ポケットの中でスマートフォンが震えた。
画面には妻の名前が表示されている。
『今日、何時に帰る?』
俺はしばらく画面を見つめたあと、短く返信した。
『遅くなる』
すぐに既読がついた。
『そう。』
それだけだった。
俺はスマートフォンの画面を消した。
妻が親友と関係を持っていたこと。
俺が自分の子どもだと思って育てていた子が、親友の子どもだったこと。
そして、二人が俺のいないところで交わしていた言葉。
すべて知ってしまった。
親友とは、小学生の頃からの付き合いだった。
俺の家庭環境を知っている、数少ない人間でもあった。
子どもの頃、家には食べ物がほとんどなかった。
親は俺に関心がなく、食事を用意してくれない日も珍しくなかった。
腹が減って眠れない夜があった。
水を飲んで空腹をごまかしたこともあった。
近所の神社に供えられていた饅頭を盗んだのは、確か小学三年生の頃だったと思う。
一つだけのつもりだった。
でも、次の日も、その次の日も、俺は神社へ通った。
ある日、神主に見つかった。
ひどく叱られた。
盗みは悪いことだと教えられた。
そんなことは、言われなくてもわかっていた。
それでも、腹は減った。
大人になってからも、あの頃のことは忘れていない。
俺は決して、立派な人間じゃない。
人のものを盗んだことがある。
嘘をついたこともある。
誰かを傷つけたことだって、きっとある。
それでも、普通に生きたかった。
仕事をして、家に帰って、家族と食卓を囲む。
休日には子どもを連れて出かける。
そんな生活ができれば、それでよかった。
ようやく手に入れたと思っていた。
けれど、違った。
俺が家族だと思っていたものは、最初から俺だけが信じていたものだった。
*
夕方。
俺は街外れの橋にいた。
昼間はあれほど人がいたのに、この辺りにはほとんど人影がない。
川の向こうには、沈みかけた太陽が見える。
スマートフォンを取り出し、写真フォルダを開いた。
遊園地で撮った写真。
誕生日のケーキ。
初めて自転車に乗れた日の動画。
笑っている妻。
笑っている子ども。
その隣で笑っている俺。
「……何だったんだろうな」
声に出してみても、答えは返ってこない。
画面を消す。
欄干に手を置いた。
冷たい。
俺は、ずっと何かを間違えていたのかもしれない。
子どもの頃、盗みなんかしなければよかったのか。
もっと勉強して、いい仕事に就けばよかったのか。
妻をもっと大切にすればよかったのか。
親友を疑っていればよかったのか。
考えても、もうわからなかった。
ただ、疲れた。
本当に、疲れてしまった。
「……誰からも必要とされない人生だったな……」
川の向こうに、沈みかけた太陽が見えた。
「……もう、いいや」
その日、俺は自ら命を絶とうとした。
*
落ちている。
そう認識した瞬間だった。
『……ネエ』
声がした。
ドロドロとした、奇妙な声だった。
男とも女ともつかない。
まるで、いくつもの声が混ざり合っているようだった。
おかしい。
風の音が聞こえない。
目の前の景色も動いていなかった。
まるで時間だけが止まってしまったようだった。
『ネエ……憎イ?』
「……誰だ?」
返事はなかった。
『クフフ……』
どこからともなく、笑い声だけが響いた。
次の瞬間。
止まっていた景色が動き出した。
そして、俺の意識は途切れた。
*
「……さん」
誰かが呼んでいる。
「……夜明さん」
目を開けた。
そこは、真っ白な空間だった。
床も壁も天井もない。
どこまでも白い。
「お目覚めになりましたか?」
目の前に、一人の女性が立っていた。
長い金色の髪。
白い衣。
背中には、大きな翼。
女性は俺に微笑みかけた。
「初めまして、夜明陣さん。私は、この世界の魂を導く女神です」
「……女神?」
「はい」
「……ここは、どこだ?」
「生と死の狭間にある、神域です」
俺は周囲を見回した。
何もない。
ただ白い空間が続いている。
「……俺は、死んだのか?」
「はい」
女神は静かに頷いた。
「あなたの地上での生涯は、終わりました」
「……そうか」
不思議と驚きはなかった。
自分で選んだことだった。
「それで……俺は、どうなるんだ?」
女神は穏やかに微笑んだ。
「夜明陣さん。あなたは選ばれたのです」
「……選ばれた?」
「はい。あなたは女神の加護を授かり、異世界で勇者として新たな人生を歩むことができるのです」
「……勇者?」
「ええ。そこには魔法があり、さまざまな種族が暮らしています。これまでの記憶も、そのまま引き継ぐことができます」
「……また、生きるのか?」
「はい」
「……そうか」
俺は少し考えた。
そして、首を横に振った。
「悪いけど、遠慮するよ」
女神の笑顔が止まった。
「……え?」
「もう、生きたくないんだ」
「夜明さん……」
「俺は、十分だ。もう頑張れない」
女神は悲しそうに目を伏せた。
「あなたの人生が苦難に満ちていたことは、存じています」
「……そうなんだな」
「ですが、新しい世界では、やり直せるのです」
「……また裏切られるかもしれないだろ」
「それは……」
「また誰かを信じて、また失うかもしれない」
俺は女神を見た。
「もう、嫌なんだ」
しばらく沈黙が続いた。
やがて女神は、ゆっくりと口を開いた。
「夜明さん。過去の憎しみに囚われたままでは、新しい人生も苦しいものになってしまいます」
「……憎しみ?」
「はい。あなたを傷つけた人々を、無理に許す必要はありません。ですが、その憎しみを手放すことはできるはずです」
「……簡単に言うなよ」
女神は静かに目を伏せた。
「忘れることではありません。過去を受け入れ、新たな一歩を踏み出すのです」
「…………」
「どうか、憎しみを捨ててください。そうすれば、きっと――」
『……ナンデ?』
声がした。
女神の表情が変わった。
「……誰ですか?」
『ナンデ、憎シミヲ捨テナキャイケナイノ?』
聞き覚えのある声だった。
あの橋で聞いた声。
『クフフ……アハハッ!』
白い空間に、黒い染みが浮かび上がった。
それは少しずつ広がっていく。
水面に落とした墨のように。
けれど、その黒は液体ではなかった。
どろりとした塊の表面に、何かが浮かんだ。
目だった。
一つ。
二つ。
十。
百。
数え切れないほどの目が、次々と開いていく。
その隙間から、無数の口が裂けるように現れた。
『ネエ、女神サマ』
『ソイツヲ傷ツケタ奴ラハ、何モ失ッテナイノニ』
『ナンデ、ソイツダケガ憎シミヲ捨テナキャイケナイノ?』
女神が後ずさった。
「……そんな」
『クフフ……』
黒い塊から、細長い触手が伸びる。
『ヒサシブリダネェ』
「虚無神……ネメシス……!」
女神の声が震えていた。
『アハハハッ! 覚エテテクレタンダ!』
無数の口が、一斉に笑った。
俺はその異形を見つめた。
「……お前は」
黒い塊の目が、すべてこちらを向いた。
『アッ!』
『サッキノ人間ダ!』
『クフフ……マタ会エタネェ!』
「……橋にいたときの?」
『ソウダヨ!』
触手が一本、俺の目の前まで伸びてくる。
女神が叫んだ。
「夜明さん! 離れてください!」
『アハハッ! ヒドイナァ!』
『ボク、マダ何モシテナイノニ!』
女神は俺を庇うように前に出た。
「夜明さん、その存在の言葉に耳を貸してはいけません!」
「……どうしてだ?」
「それは、かつて神々によって封印された邪神です。あらゆるものを虚無へ還し、世界そのものを喰らおうとした存在なのです!」
『クフフ……間違ッテハイナイネェ』
黒い塊が、ゆっくりと揺れた。
『デモサァ』
『女神サマハ、ソノ人間ニ何ヲシテアゲタノ?』
「私は、この方に勇者として新たな人生を――」
『イラナイッテ言ッテルヨ?』
「……!」
『ソレニ、憎シミヲ捨テロッテ?』
『アハハッ! 面白イネェ!』
無数の口が笑い続ける。
『ボクハ違ウヨ』
一本の触手が、俺の足元に伸びた。
『ネエ、人間』
『キミハ、憎インダヨネ?』
「……ああ」
『殺シタイクライ?』
俺は答えなかった。
『クフフ……ソッカァ』
黒い塊の中心に、ひときわ大きな目が開いた。
『ソノ憎シミハ、大切ナモノダヨ』
女神が何かを叫んでいた。
けれど、俺にはその言葉しか聞こえなかった。
『忘レナクテイイ』
『許サナクテイイ』
『キミガ憎イナラ、憎ンダママデイイ』
黒い塊が、ゆっくりと俺に近づいた。
『ネエ、人間』
『ボクヲ、ココカラ出シテヨ』
「ネメシス! やめなさい!」
女神の声を無視して、異形は笑う。
『クフフ……ソノ前ニ』
『面白イモノ、見セテアゲル!』
一本の触手が、宙をなぞった。
すると、白い空間に景色が浮かび上がった。
見覚えのあるリビング。
俺の家だった。
ソファには妻が座っていた。
その隣には、親友の姿があった。
親友は妻の肩を抱き寄せ、唇を重ねた。
「んっ……もう、急にしないでよ」
「いいだろ。もう隠れる必要もないんだから」
「ふふっ、そうだね」
妻が親友の胸に顔を埋める。
「やっと二人でいられるね」
「ああ。長かったな」
親友は笑いながら妻の髪を撫でた。
「しかし、生命保険くらいかけときゃよかったな」
「ちょっと、やめてよ」
「ははは! 冗談だって!」
「もう、ほんと最低!」
そう言いながら、妻も笑っていた。
親友がもう一度、妻に口づける。
今度は妻の方から、その首に腕を回した。
二人の笑い声が、リビングに響いていた。
俺が毎日帰っていた家だった。
気づけば、強く唇を噛みしめていた。
口の中に、鉄の味が広がる。
顎を伝って、一滴の血が落ちた。
それでも、俺は何も言わなかった。
*
『クフフ……アハハハッ!』
景色が消えた。
無数の口が、一斉に笑い始めた。
『イイネェ……』
黒い塊が、愉快そうに蠢く。
『ソノ憎シミ……ソノ憎悪!』
『最高ダヨ! アハハハハッ!』
「ネメシス! あなたは、なんて残酷なことを……!」
女神が声を荒らげた。
『クフフ……ボクハ邪神ダヨ?』
俺は黙っていた。
握りしめた拳が震えている。
唇から流れた血が、顎を伝って落ちた。
『ネエ、人間』
黒い塊から、一本の触手が伸びてきた。
『ボクニハ、キミガ必要ナンダ』
世界を滅ぼそうとした邪神。
そんな存在に必要とされるなんて、皮肉な話だ。
きっと、ろくなことにはならない。
それでも。
最後に誰かから必要とされるなら、それでいいか。
「夜明さん! 決して触れてはいけません!」
女神の声が響いた。
俺は、ゆっくりと手を伸ばした。
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