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第53話 黒翼竜が開けた穴から、温泉が出ました

黒翼竜ラグナス・リュードラは、朝ごはん配信が終わった後、竜の谷へ飛び立った。


黒い翼が空を切り、もふもふ領地の上を大きく一周する。


別れの言葉は、短かった。


「黒翼笛を鳴らせ。空が必要な時は、我が来る」


それだけ言って、ラグナスは雲の向こうへ消えた。


黒翼竜が朝ごはんを食べた。

王都の通信網が燃えた。

竜の谷へ、黒翼竜族の通信使が飛んだ。


そして翌朝、もふもふ領地に残ったのは、請求書だった。


「修繕材、警備費、薬代、工房の棚、竜用ボーロ代」


ボーロ工房の朝食席で、カゲツが手帳を開いていた。


清泉村襲撃から、黒翼竜襲来、リュシアの救命、そして朝ごはん配信まで。


怒涛の日々が、ようやく一段落したはずだった。

はずだったのだが。


「最後も修繕費なのか?」


「外交費だ。黒翼竜族の継承候補に朝飯を出したんだからな」


俺は頭を抱えた。


「もふもふ領地、また金が飛ぶな……」


カゲツは真顔で言った。


「先生。金が飛ぶってことは、まだ続いてるってことだ」


「どういう慰めだ」


「燃え尽きた領地には、支出すらない」


……否定できなかった。


隣で、くーちゃんが小さく鳴いた。


「きゅーん」


「ほらな。神獣様も同意してる」


「今のは、たぶんボーロのおかわりだ」


「それも支出になるな」


くーちゃんが、こちらを見ながら尻尾を振っていた。


「その顔で予算を動かすな」


「きゅーん」


***


午前中、被害確認のために領地の端を回った。


カゲツが地図を持ち、ヴァルフェリアが岩場の状態を読み、俺はくーちゃんを抱えてついていく。


黒翼竜が落下した区画は、岩盤が大きく崩れていた。


もともと、誰も使っていない岩場だった。

畑にもならず、建物も建てにくく、魔狼たちの通り道からも外れている。


ただの岩盤だと思っていた場所。


けれど、その岩盤が割れたことで、奥に隠れていたものが顔を出していた。


ヴァルフェリアが、鼻をひくひくさせた。


「水の匂いがする」


「地下水か?」


「違う。あったかい」


「水があったかいって何だよ」


「湯」


カゲツの地図を持つ手が、わずかに止まった。


「先生。確認しておいた方が良さそうだ」


くーちゃんが岩の隙間を嗅いで、前足でちょんちょんした。


「きゅーん」


俺も触ってみると、岩の割れ目から熱が伝わってきた。


確かに温かい。


「……本当だな」


「金になるかもな」


カゲツが即座に言った。


「最初にそれか」


「今の領地の財政は、かなりやばい」


反論できなかった。


ヴァルフェリアが岩盤に手を当てる。

鼻をひくひくさせて、奥の流れを読んでいた。


「奥で、湯が待ってる」


「待ってる?」


「出たがってる」


「……私が開ける」


カゲツがすぐに割って入った。


「姫さん。大事な資源だ。壊すなよ」


「壊さない。開ける」


カゲツが岩盤の割れ目を確認し、指で方向を示した。


「撃つならここだ。真っ直ぐじゃない。少し斜め。奥の空洞だけ抜け。手前を崩すな」


「カゲツは注文が多い」


「崩れたら温泉じゃなくて土砂崩れだ」


ヴァルフェリアが頷いた。


「……分かった。少しだけ噛む」


ヴァルフェリアが岩に手を当てた。


「月狼爆衝《ルナファング・インパクト》」


白い牙が、岩盤に噛みついた。


砕いたのではない。

通した。


奥へ細い道を、まっすぐに。


岩の向こうで、何かが割れた。


一拍遅れて、白い湯気が噴き出した。

岩の溝を伝って、温かい水が流れ始める。


カゲツが唸った。


「……川の時もそうだったが、精密すぎる」


ヴァルフェリアが、少しだけ誇らしげに言った。


「カゲツ、褒めてくれてる?」


カゲツが小さく笑った。


「ああ。今のは最高だ」


湯気が、岩場に漂っていた。


***


簡易温泉を作ることにした。


といっても今日中にできるものは限られる。石で囲った湯船。小さな肉球用の湯桶。簡易の着替え小屋。魔狼用の大きめ湯だまり。湯上がりの長椅子と月灯草茶の台。


それと、木札。


カゲツが文字を書いた。


【もふもふ療養湯 仮運用】

・傷の深い者は先生に診てもらってから入ること

・湯船で戦わないこと

・湯を飲みすぎないこと

・神獣様の湯桶に勝手に入らないこと


そこまで書いたところで、ヴァルフェリアが近くの平たい岩を見つめた。


「この岩、湯船に入れる」


「姫さん。待て」


「座れる場所になる。小さい魔狼も、足が届く」


「発想はいい。だが、今そのまま入れたら湯船が壊れる」


「温泉、難しい」


カゲツが無言で木札に一行を追加した。


・岩を追加する前にカゲツへ確認すること


***


一番湯は、くーちゃんだった。


肉球用の湯桶。全身ではなく、前足だけ入れる湯だ。


くーちゃんが湯気を嗅いだ。前足をそっと入れる。


「きゅ……」


一拍。


「きゅーん」


目を細めた。


魔狼たちがざわついた。


「神獣様が……」

「一番湯に……」

「肉球を……」


「普通に足湯だ」


俺がツッコむと、ミルナが真剣な顔で言った。


「今の『きゅーん』は、温度は良い。ただし、もう少し深くてもいい、です」


「足湯の深さまで分かるのか」


くーちゃんは湯桶から前足を出さなかった。


しばらくして湯から出すと、肉球がほんのり温まり、前足の毛がふわりと立っていた。


ヴァルフェリアが真顔で言った。


「前足が、ふわふわになった」


カゲツが即座に反応した。


「肉球ふわふわ効果……売れるな」


「神獣様の肉球を広告に使うな」


「実績になる」


「使うなと言っている」


そう言ったものの、カゲツの目はすでに事業計画の目だった。


もふもふ療養湯。

傷と疲労を癒やす湯。

そして、神獣様の肉球と前足をふわふわにする湯。


……変な方向に伸びないことを祈ろう。


***


夜になってから、俺とカゲツはもう一度、温泉の様子を見に来た。


理由は安全確認だ。


湯の温度。

岩場の崩れ。

足元の滑りやすさ。


決して、男二人で先に湯に入りたかったわけではない。


「先生。そういう言い訳は、誰にしてるんだ?」


「自分にだ」


「正直でいい」


湯気の中、俺は肩まで湯に浸かっていた。


思ったより、気持ちいい。


戦いの後の疲れが、湯の中にほどけていくようだった。


カゲツは湯の縁に背を預け、手帳を濡らさないように片手で持っている。


「先生」


「何だ」


「俺たち、人間二人で何やってるんだろうな」


「温泉の安全確認だろ」


「そうじゃなくて。魔狼王がいて、魔狼姫がいて、神獣様がいて、黒翼竜まで朝ごはんを食って帰った領地で、人間二人が湯に浸かってる」


「言うな。俺もたまに、ここが何の領地なのか分からなくなる」


「ついでに、トキシードもいる」


「魔狼と神獣と竜までは、ぎりぎり分かる。あいつだけ何の枠なんだ」


くーちゃんが、専用の湯桶で前足を温めながら鳴いた。


「きゅーん」


「神獣様は、自分の領地だと言ってる」


「否定できないのが怖い」


カゲツが小さく笑った。


「でも、悪くないな」


「ああ」


俺は湯気の向こうを見た。


「悪くない」


くーちゃんは目を細めている。

神獣様の肉球は、今日二度目の温泉を楽しんでいた。


その時だった。


湯気の向こうから、足音が聞こえた。


ひとつではない。


軽い足音。

静かな足音。

少し弾んだ足音。

それから、桶の持ち手が揺れる音。


「温泉、こっちで合っているのかしら?」


リュシアの声だった。


「湯が呼んでる」


ヴァルフェリアの声もした。


「神獣様の湯桶、もう少し深くした方がいいと思うんです」


ミルナまでいる。


「記録します。もふもふ療養湯、女性利用時の安全確認」


フィーネもいた。


全員いた。


俺とカゲツは、同時に固まった。


「……先生」


「分かってる」


「これはまずい」


「分かってる」


「黒翼竜、ナイトハウンド、王都医務卿。色々あったが」


「今それを並べるな」


「今回が一番、逃げ方が分からない」


「分かってる!」


湯から上がるには遅い。

正面から出れば、完全に出くわす。

岩陰に隠れるしかない。


俺とカゲツは、湯の中で静かに移動した。


その間にも、湯気の向こうから楽しそうな声が近づいてくる。


「リュシアさん、寒くないですか?」


「平気よ。湯気があるもの」


「でも、胸元が……」


「あら。ミルナは優しいわね」


胸元。


俺は岩陰で動きを止めた。


カゲツが小声で言った。


「先生。今、聞いてはいけない単語が聞こえた」


「聞こえなかったことにしろ」


「リュシアさん、姿勢が綺麗です。腰の線も、すごく整っています」


フィーネの声だった。


「フィーネ、それは記録しなくていいわ」


「すみません。つい観察を」


「でも、褒め言葉として受け取っておくわね」


「ヴァルフェリア様も、すごいです……!」


今度はミルナの声だった。


「すごい?」


「はい。背筋がまっすぐで、湯気の中でも、月狼姫様って感じがします」


「月狼姫……」


「綺麗です」


少しだけ間があった。


「……月なら、いい」


ヴァルフェリアの声が、どこか満足そうだった。


「先生がいたら、今ごろ目をそらして固まっているでしょうね」


リュシアが楽しそうに言った。


「リュシアさん、それはからかいすぎです」


「だって、想像したら少し楽しいもの」


楽しそうだった。


とても楽しそうだった。


そして、俺たちにとっては、完全に聞いてはいけない会話だった。


「くーちゃん」


俺は小声で言った。


「今だけ、鳴くな」


くーちゃんが、こちらを見た。


「きゅ?」


湯気の向こうで、リュシアの声が近づく。


「……あら?」


足音が止まった。


「誰か、そこにいるの?」


俺は心の中で祈った。


頼む。

今だけは、番犬ではなく置物になってくれ。


くーちゃんが、嬉しそうに尻尾を振った。


「きゅーん!」


置物ではなかった。


湯気の向こうが、一瞬だけ静かになった。


「……くーちゃん?」


まだ、終わったと決まったわけではない。


ただ、湯気の向こうの沈黙が、俺の社会的な終焉を告げていた。

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