小さな画家
きょう、あの子は腕に魚を描いてきた。
見て、と言うから見た。たしかに魚だった。背びれのあたりがいちばん赤くて、まだ少し盛り上がっている。尾のほうは細くて、もう乾きかけていた。
うまいね、とぼくは言った。本当にうまかったから。
あの子はうれしそうにした。前のは鳥で、その前は花だった。鳥はもう消えて、いまは白い線だけが残っている。花は腕の内側にあって、ぼくしか知らない。
あの子は、できたてをいつもぼくに見せにくる。ぼくは見る係だ。ほかの誰にも見せない。だからぼくは、あの子の絵を全部知っている。たぶん世界でひとりだけ。
あの子はそっと袖をまくる。夏でも長袖なのは、たぶんそのためだ。ぼくにだけ、まくる。
はじめは、あの子が勝手に描いてきた。でもそのうち、ぼくが言うようになった。つぎは犬がいい、とか、星がいい、とか。あの子はうなずいて、つぎの日にはちゃんと描いてくる。ぼくの言ったとおりの形で。星は、思ったより尖っていた。
それからは、ぼくが注文する係になった。
くじら、と言うと、あの子はすこし考えて、これは大きいよ、と言った。腕に入らないかもしれない、と。
じゃあ小さいくじら、とぼくは言った。あの子は笑って、わかった、と言った。
つぎの日、ひじの下に小さいくじらがいた。潮を吹いていて、その潮に、虹までかかっていた。そんなこと頼んでいないのに、あの子が勝手に足したのだ。
虹は、ぜんぶ赤かった。ほかの色は出ないから。それでもぼくは、それを虹だと思った。ぼくはその、赤い虹がいちばん好きだった。
あの子の腕は、だんだん絵でいっぱいになっていった。
古いのが薄くなって、新しいのが上にくる。よく見ると、消えた絵の上に、つぎの絵が重なっている。鳥のいたところに、いまは魚がいる。場所は、もうあまり残っていない。
つぎはどこに描くんだろう、と思って聞くと、あの子は、まだあるよ、と言って、反対の腕を見せた。そっちはまだ、なにも描かれていない。
つぎの日は、恐竜を頼んだ。
でもあの子は、描いてこなかった。反対の腕は逆の手で描くから、うまくいかない、と言った。線がふるえる、と。手を見せると、たしかに、いつもとは逆の手だった。
そのかわり、あの子は、ぼくの腕を見た。
ぼくのまっさらな腕を、ずっと見ていた。それから、ここに描きたい、と言った。
ぼくは、すこしびっくりした。ぼくは見る係なのに、と思った。でも、いいよ、と言って、袖をまくった。
あの子は、うれしそうにした。いつも絵を見せにくるときと、おなじ顔だった。
あの子の手は、ぼくの腕の上で、すこし冷たかった。
線が引かれていくのは、思っていたのと違った。見ているときは、いつのまにかそこにある、という感じだった。でも自分の腕だと、はじめからおわりまで、ぜんぶわかる。痛いのがどれくらいか、はじめて知った。あの子が、ちょっと痛いよ、と言っていたのは、これか、と思った。
恐竜はうまくできた。ちゃんと首の長いやつだった。あの子はそこに、頼んでいないのに、小さい卵をひとつ足した。足もとに。ぼくはその卵がいちばん好きだった。
それからあの子は、自分の反対の腕を、ぼくのほうに差し出した。
こっちにも描いて、と言った。まっさらなほうを。
ぼくは、描いたことがない。
線はきっとふるえる。あの子の逆の手より、もっと下手だ。
それでもあの子は、腕を引っこめなかった。まっさらな腕を、ぼくのほうに向けたままだった。
ちょっと痛いよ、とぼくは言った。
さっき、あの子がぼくに言ったのと、おなじ言葉だった。痛いのがどれくらいか、いまはぼくも知っている。
あの子は、うん、と言った。知ってる、というふうに。
ぼくは、はじめて線を引いた。
ふるえて、まがった。恐竜にも、魚にもならない。ただのまがった線。あの子の腕に、ぼくの下手な線が一本、残った。
それでもあの子は、それを見て、好き、と言った。ぼくが絵を見て、うまいね、と言うときと、おなじ声だった。
これで、ぼくの腕にも、あの子の腕にも、線がある。
おそろいになった。
ぼくは、それがうれしいのか、こわいのか、わからなかった。




