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掌編小説集

小さな画家

掲載日:2026/07/08

きょう、あの子は腕に魚を描いてきた。

見て、と言うから見た。たしかに魚だった。背びれのあたりがいちばん赤くて、まだ少し盛り上がっている。尾のほうは細くて、もう乾きかけていた。

うまいね、とぼくは言った。本当にうまかったから。

あの子はうれしそうにした。前のは鳥で、その前は花だった。鳥はもう消えて、いまは白い線だけが残っている。花は腕の内側にあって、ぼくしか知らない。

あの子は、できたてをいつもぼくに見せにくる。ぼくは見る係だ。ほかの誰にも見せない。だからぼくは、あの子の絵を全部知っている。たぶん世界でひとりだけ。


あの子はそっと袖をまくる。夏でも長袖なのは、たぶんそのためだ。ぼくにだけ、まくる。

はじめは、あの子が勝手に描いてきた。でもそのうち、ぼくが言うようになった。つぎは犬がいい、とか、星がいい、とか。あの子はうなずいて、つぎの日にはちゃんと描いてくる。ぼくの言ったとおりの形で。星は、思ったより尖っていた。


それからは、ぼくが注文する係になった。

くじら、と言うと、あの子はすこし考えて、これは大きいよ、と言った。腕に入らないかもしれない、と。

じゃあ小さいくじら、とぼくは言った。あの子は笑って、わかった、と言った。

つぎの日、ひじの下に小さいくじらがいた。潮を吹いていて、その潮に、虹までかかっていた。そんなこと頼んでいないのに、あの子が勝手に足したのだ。

虹は、ぜんぶ赤かった。ほかの色は出ないから。それでもぼくは、それを虹だと思った。ぼくはその、赤い虹がいちばん好きだった。


あの子の腕は、だんだん絵でいっぱいになっていった。

古いのが薄くなって、新しいのが上にくる。よく見ると、消えた絵の上に、つぎの絵が重なっている。鳥のいたところに、いまは魚がいる。場所は、もうあまり残っていない。

つぎはどこに描くんだろう、と思って聞くと、あの子は、まだあるよ、と言って、反対の腕を見せた。そっちはまだ、なにも描かれていない。


つぎの日は、恐竜を頼んだ。

でもあの子は、描いてこなかった。反対の腕は逆の手で描くから、うまくいかない、と言った。線がふるえる、と。手を見せると、たしかに、いつもとは逆の手だった。


そのかわり、あの子は、ぼくの腕を見た。

ぼくのまっさらな腕を、ずっと見ていた。それから、ここに描きたい、と言った。

ぼくは、すこしびっくりした。ぼくは見る係なのに、と思った。でも、いいよ、と言って、袖をまくった。

あの子は、うれしそうにした。いつも絵を見せにくるときと、おなじ顔だった。


あの子の手は、ぼくの腕の上で、すこし冷たかった。

線が引かれていくのは、思っていたのと違った。見ているときは、いつのまにかそこにある、という感じだった。でも自分の腕だと、はじめからおわりまで、ぜんぶわかる。痛いのがどれくらいか、はじめて知った。あの子が、ちょっと痛いよ、と言っていたのは、これか、と思った。

恐竜はうまくできた。ちゃんと首の長いやつだった。あの子はそこに、頼んでいないのに、小さい卵をひとつ足した。足もとに。ぼくはその卵がいちばん好きだった。


それからあの子は、自分の反対の腕を、ぼくのほうに差し出した。

こっちにも描いて、と言った。まっさらなほうを。


ぼくは、描いたことがない。

線はきっとふるえる。あの子の逆の手より、もっと下手だ。

それでもあの子は、腕を引っこめなかった。まっさらな腕を、ぼくのほうに向けたままだった。

ちょっと痛いよ、とぼくは言った。

さっき、あの子がぼくに言ったのと、おなじ言葉だった。痛いのがどれくらいか、いまはぼくも知っている。

あの子は、うん、と言った。知ってる、というふうに。


ぼくは、はじめて線を引いた。

ふるえて、まがった。恐竜にも、魚にもならない。ただのまがった線。あの子の腕に、ぼくの下手な線が一本、残った。

それでもあの子は、それを見て、好き、と言った。ぼくが絵を見て、うまいね、と言うときと、おなじ声だった。

これで、ぼくの腕にも、あの子の腕にも、線がある。

おそろいになった。

ぼくは、それがうれしいのか、こわいのか、わからなかった。


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