第1話:断頭台の甘い罠、あるいは欠けゆく歴史の歯車
1770年5月15日――ヴェルサイユ、婚礼前夜
翌日にフランス王太子との結婚式を控えた少女の部屋に、いつの間にか一通の古びた手紙が置かれていた。 封筒には、流麗な、しかしどこか見慣れぬ筆致でこう記されている。
『マリー・アントワネット。フランスと王家の存続のために、この手紙を読みなさい』
キャンドルの灯りに照らされた少女――マリーは、その不気味な宛名を見て鼻で笑った。未来の自分の運命を予言するような傲慢な文面。 「悪趣味な悪戯だこと」 彼女は封を切ることさえせず、その紙を窓の外、夜の闇へと投げ捨てた。 それが、彼女が「運命」を修正できる最初で最後の機会だったとは知らずに。
23年後、1793年10月16日――コンシェルジュリー監獄
石壁から滴る水の音だけが響く独房で、マリー・アントワネットは力なく呟いた。 「……重税ですって? 納税は国を維持するための義務ではないの。特権を持つ者が優遇されるのは、この世界の理でしょう? なぜ、すべてを王政の、私の責任にするというの……」
白髪混じりの髪を短く刈られ、手首を粗末な縄で縛られた彼女の頭の中では、日々の贅沢と、民衆を苦しめる重税がどうしても結びついていなかった。彼女にとって、政治は「他人任せ」にするものであり、自分はただ、その庭に咲く一輪の華であれば足りると信じていたのだ。
そこへ、一人の女が面会に訪れた。 名は、笑美。幼い頃から彼女の影として仕え、革命の荒嵐の中で誰もが去っていった後も、唯一マリーを案じ続けた侍女である。
かつての栄華の欠片もない地下牢で、エメリーは震える手で、エプロンの裏に隠し持っていたものを差し出した。それは、ライ麦の殻が混じった、酷く硬く、黒ずんだパン・デピスの小さな欠片だった。
「マリー様……これしか、用意できず……。下賤な者が口にする、卑しい食べ物でございますが……」
マリーはその石のように強張ったパンを口に含んだ。 ライ麦特有のザラついた食感と、喉を焼くようなスパイスの刺激。しかし、噛みしめるほどに、その奥に潜んでいた**「はしたないほど濃密な、はちみつの甘み」**が、唾液に溶けて広がっていく。
(ああ……不思議ね、エメリー。あんなに贅沢なフォアグラや砂糖菓子よりも、この泥臭いパンの方が、私の乾いた体の中に染み渡っていくわ……)
ただの麦の塊なら、飲み込むことさえ苦痛だったろう。だが、そこにある「甘み」が、無骨な素材を「命の糧」へと変えていた。 「甘くないものを甘くすることで、少量の糧で最大の満足を得る」 知恵と工夫。その生存の極意を、マリーは死の直前、皮肉にも舌の上で理解した。
涙が溢れた。人民は、こんなにも工夫して生きている。私は、税の使い道を一度でも工夫しただろうか。人任せにし、自分は関係ないと目を逸らしてはいなかったか。
エメリーが彼女をギュッと抱きしめ、耳元で切なく囁いた。
「Je t'aimerai pour l'éternité(永遠に、あなたを愛しております)」
二人は力の限り強く抱き合ったが、非情な看守の手によって引き離された。
コンコルド広場、断頭台の上
後ろ手に縛られ、ギロチン台へと引き立てられていくマリーの耳に、群衆の罵声が突き刺さる。 「あいつが我々を苦しめたんだ!」 「『パンがなければお菓子を食べろ』だと? 我々が飢えているときに、とんだ贅沢三昧をしやがって!」
(……そんなの、私の言葉じゃない……)
なぜ、言ってもいない言葉で、これほどまで憎まれねばならないのか。誤解されたまま命を終える悔しさが、熱い塊となって胸を焦がした。 ギロチンの刃が落ちる直前、一瞬、目の前の群衆の姿が大きく傾き――意識も、命も、絶望と共に途絶えた。
「共和国万歳!」 熱狂的な歓声が、冷たくなった王妃の骸を包み込んだ。
漆黒の闇の中
どれほどの時間が過ぎたのだろう。 真っ暗闇の中で、マリーを呼ぶ声が聞こえた。
『パンがなければケーキを食べれば良いと言った、あなたの噂を聞きました。私はあなたに、大いなる期待をしています』 『マリー……私の、希望の星』
(……あなたは、誰? わたし、もう、疲れたの……)
『……歴史を変えるのです。今度は、あなたのその手で』
不意に周囲が眩い光に包まれ、まったく理解できない言葉が鼓膜を震わせた。 「産まれましたぞ! 元気な双子の男の子と女の子にございます!」
泣き声を上げる赤子の視界に、金色の豪華な装飾を施された襖が映る。 「男の子は、拾丸。女の子は……真理、と名付けよう」
抱き上げられた瞬間、その魂に新たな名が刻み込まれた。 かつての王妃マリーは、豊臣の姫として、日ノ本の戦国乱世に降り立った。
――歴史の歯車が、音を立てて欠けた。




