王配の恋人
「ローレライ、喜んでくれ。僕はついに恋人を見つけたぞ!」
「あらあら。おめでとうございます、エドアルド殿下」
にっこり。ローレライはゆるやかに唇をほころばせた。薄青のドレスの裾が風に揺れ、ルビーのネックレスが昼の光を反射して、チカチカ赤く輝いた。
ローレライはこの国の女王である。
エドアルドは彼女の夫であり、準王族の王配である。
「どんな方なんですの?」
とローレライは尋ねた。
「下町の花屋の娘さ。僕が花でも見ようと思って立ち寄ったらね、彼女がいて。目が合っただけで一瞬で分かったんだ。恋に落ちたんだと」
王配の目は子供のように輝き、まるで宝を見つけた少年のようである。
「よかったですわねえ」
ローレライの声は穏やかだった。
彼女は女王である。教育された通りに、昔から、喜怒哀楽の底を人に見せぬ。笑うときも、泣くときも、どこか舞台の上の役者のようだった。
「それでさ、ここに連れてくるから」
「まあ」
ローレライは首を傾げた。
女王の瞳は湖のように澄んでいたが、その底に映るものを見抜ける者は少ない。
「ここは王宮ですわよ。王族のための場所です。あなたはわたくしと結婚して準王族ですからいいものの、その方は平民なのでしょう? ここは窮屈ではないかしら」
「うん。でもきみが許してくれたら、みんな許してくれるだろ?」
エドアルドは少年のような無邪気さで笑った。いっそあどけないほどに。
ローレライは少しだけ目を伏せ、やがてゆっくりと頷いた。
「そうねえ。『ここにいること』は許してあげてもよくてよ。でも、それ以上はできませんわ。女王たる者が臣民の一人を特別扱いだなんて。わたくしはみんなのための女王だもの。あとのことはあなたが守って差し上げてね」
「もちろんだ。僕は愛するリオナを守ってあげるんだあ!」
それでそういうことになった。
三日後。エドアルドは少女を連れて女王の部屋を訪れた。
彼の服装の派手さが、内心の浮かれ具合を現わすようである。ワインレッドのベルベットの上着、胸元や袖口には金糸の刺繍。襟元を少し開けて、フリルのついたシャツの襟を出し気取っている。
連れてこられた平民の娘の名は、リオナ。彼女はそれはそれは美しく、春の花のように愛らしかった。
服装は、薄桃色の綿ドレス。まだ平民の仕立てで、絹ではない。袖や裾には安価な機械編みのレースがついており、花の刺繍が可愛らしい。栗色の髪はゆるく巻かれ、てっぺんに花屋らしく生花を挿していた。
くるくるの髪を顔にかかるようにふわりと揺らしながら、リオナはべちゃっと倒れ込んだ――違う、お辞儀をしたのか。ローレライの前に出てくる平民は平民でも貴族らしいお辞儀をするから、物珍しい。
許可も出されていないのに勝手に顔を上げたリオナは、鼻の穴を見せつけるように顎をあげてローレライを見つめた。それからにやあっと、なんだか不穏な感じで笑う。
「エドアルド殿下に愛されちゃった、リオナです。よろしくお願いいたしますぅ、女王陛下」
緊張の気配など微塵もない様子の笑い声。若い鳥の囀りのように軽く、高く澄んでいて耳に心地よい。歯並びが悪いようで、どこか発音が不明瞭だった。
「どうぞよろしくね」
ローレライはやはりにっこりと微笑んだ。
その日以来、エドアルドは少女と常に行動を共にした。朝の散歩も、昼の食卓も、夜会の席までも。
王侯貴族たちは眉をひそめ、侍女たちはひそひそと噂したが、肝心の女王がにこにこと何も言わないものだから、誰も口を出せなかった。
一か月後のある午後。
執務室の扉が、ばたんと乱暴に開いた。
「ローレライ! どういうことだ、これは!」
怒声が石壁に反響した。
女王は金の羽根ペンを置き、静かに顔を上げる。
「まあ殿下、お行儀のお悪い」
「この新聞だよ! 見てよ!」
差し出された紙面には、エドアルド王配殿下の愛人、平民リオナの『悪行』が大きく書き立てられていた。
やれメイドをいじめただの、やれ女王陛下の首飾りより大きいダイヤモンドを買っただの――その文面は下卑ていたが、同時に妙に真実味があった。
「あらら。たいへんねえ」
ローレライは小さく肩をすくめた。
「大変じゃないよ! なんで僕のリオナがこんなこと書かれなきゃいけないんだ。悪く書かれるのはきみの役目だろ!?」
「まあ? どういう意味ですの?」
ローレライは目を丸くした。まるで愚かな生徒の答えを聞いた教師のように、優しく夫に問う。
「だ、か、ら! 普通、あんなに若くて可愛いリオナが悪く言われるのはおかしいだろってこと。悪口言われるのは、もう三十を超えたきみの役目だろ……はっ! そうか! きみがわざと書かせたんだな、この記事っ! そうだろ? 新聞社を脅して、リオナの悪口を書かせたんだっ。なんて底意地の悪いことするんだ!? いくら彼女が可愛いからって嫉妬して!」
ローレライはゆるく首を横に振った。
「そんなことありませんわ」
「いや、あるっ! きみが悪いんだあ!」
「まあ殿下。女王たるわたくしにご意見ですか?」
にっこり。
その笑みが氷のように冷たく見えたのは、怒りのせいではない。何の感情も込められていなかったからだ。
近衛騎士たちがざっとエドアルドを取り囲む。鋭い鎧の音が部屋に響き、彼らの手が一斉に腰の剣にかかった。
エドアルドの顔から血の気が引いた。
そして、あっけなく小さくなり、うなだれて言った。
「う。わかったよ。悪かったよ。きみは悪くない」
「お利巧さんですね、殿下」
ローレライは静かに微笑み、再び机に視線を戻した。
「今わたくしはお仕事中ですの。お下がりください」
侍従が駆け寄り、言葉もなくエドアルドを連れて出ていく。扉が閉まると、部屋には静寂が戻った。
ローレライは小さく息を吐き、窓の外を見やった。
秋の風が庭の薔薇を揺らしている。
その中に、ひときわ深紅の花が咲いていた。
それから一同は会議に戻った。
リオナの悪口記事は収まることはなかった。リオナを悪役にした劇が連日上映され、大反響を産んだ。リオナが何かを買ったりどこかに行ったりすると、早ければその日の夕方には臣民の誰もがそのことを知っているのだった。
なぜだって? そりゃ、王宮の使用人たちが喋るから。家族友人知人、なんなら行きずりの通行人にまで。
だってリオナは王族ではない。ローレライ女王陛下は生粋の王族であり、エドアルド王配殿下もそのご結婚で準王族となった尊い方である。噂話をするだなんて、そんな不遜なこと、とてもとても。
だがリオナは違う。ただの平民の悪口なら言いたい放題であるし、新聞社も高く買ってくれる。また弁えない言動が多いから、言いたいことも多い。
その上、最近は王配の寵愛をかさに着て、使用人のみならず下位貴族にまで偉そうにするのだ。平民のくせに。
だからそんなリオナのあることないことを誰にどう言おうが、王宮使用人たちはまったく後悔しなかった。
その日、外国の大使を出迎える盛大な夜会が開催された。この日ばかりはエドアルドもリオナではなく、ローレライをエスコートした。
一通りの挨拶を終え、ローレライは薔薇の間と呼ばれる大広間から抜け出した。夜の庭園の空気は冷たく、肺の中が癒される。彼女の頬には夜会の余韻がまだ残っていた。
会場から軽快な音楽が漏れ聞こえる。葡萄酒と薔薇の香り、それからわずかな嫉妬の匂いがする。
ローレライは庭園の薔薇の垣根に見惚れた。こんなとき、少しだけ自我がよみがえる気がする。とっくの昔に『女王』によって食い尽くされた、ただの『ローレライ』がまだ生きているのを実感する。
軽い靴音が追いついてきたのはそのときだった。
「女王陛下ぁ」
振り向けば、真紅のドレスに身を包んだリオナがいた。片足に体重を乗せる立ち方である。瞳はうるうる潤んでいたが、甘さというよりパーティーの酒精に酔ったのだろう。あるいは、自身の感情に。
「まあ、リオナ。あなたも来ていてくれたのね」
「あの……どうしても、あなたとお話ししたくって」
リオナの笑顔はすでに花屋の娘のものではない。
胸元の開いたデザインのパーティードレス。きらびやかなエメラルドのネックレス、オレンジの香水の強い香り。上等の仕立てのドレスなのに、いまいち着こなせていない。髪飾りも生花から金のティアラに変わっていたが、どこか似合っていない。
リオナは顔にかかったふわふわの髪の毛をかき上げ、これ見よがしにダイヤの指輪を見せつけた。
「ああ、それがエドアルドが贈ったという指輪ね。よく似合っているわ」
とローレライはにっこりする。リオナはきっと女王を睨みつけた。大粒のダイヤに勝るとも劣らない大きな目だった。
「陛下。……エドアルド様のこと、どう思っておられるの?」
「どう、とは?」
ローレライはゆっくりと彼女を見つめた。女王の瞳は水面のように静かで、映り込むものすべてを見透かすようだった。
「だって……殿下はアタシを愛しておられるわ。でも、あの人は王配殿下よ。あなたが女王。女のあなたの下につかなけりゃいけないこと、彼はとっても苦しんでるわ。お貴族様たちはみんなして私を下に見る。あなたが微笑んでる限り、誰も私を認めてくれない!」
その声は震え、涙混じりだった。ローレライには、どうして彼女が泣くのか理解できない。そんなことはわかっていて、王宮に乗り込んできたのでは? とは、さすがに声に出せないまま疑問に思う。
「あなたがいる限り、アタシたちはずうっと不幸だわ。でも、あなたがいないとアタシたちは暮らしていけない。ひどいわっ。女王陛下、あなたはひどい人ですわ! アタシたちの暮らしを盾にして、アタシたちを縛り付けてるんだ」
ローレライは瞬きをする。
リオナは続けた。話すうちに自分で自分の言葉に心酔していくようだった。
「だから、私、聞きたいの。あなたはエドアルド様をホントに愛してるんですか? 彼、かわいそうすぎます。あなたが愛してるならちょっとは報われるわ。でもそうじゃないんだったら……アタシ、彼のこと攫っていっちゃうんだからぁ!」
ローレライは苦笑した。それからゆっくりとリオナに近づいた。それだけで、花屋生まれの少女は気圧されて一歩引いた。女王のドレスの銀の刺繍が月光を反射する。
「リオナ。あなたは若く、美しいわ」
声は静かで、甘やかだった。
「エドアルドもとても美しい人。愛されるべき人。王配殿下はあなたを愛している。あなたも彼を愛している。とても美しい絆。けれど、彼を支配しているのは……わたくし」
リオナは息をのんだ。
「そんなの、卑怯だわ……! あんたが女王だからって、何をしても許されるっていうの!?」
ローレライははらりと扇を開き、臣民に見せるべきではない笑顔を隠した。どこまでも優雅で、冷たい笑みを。
「許されるわけではなくてよ。――従わせるのです」
リオナは言葉を失った。それから、カッと顔を赤くした。
そのときにはすでに、ローレライは少女に興味を亡くしたように背中を向けている。
「それではおやすみなさい、リオナ」
「まっ、待ちなさいよ! 逃げるの!?」
「あなたの夢の中でも、わたくしの国は続いていますのよ」
ローレライははらりと扇を振った。月光が扇の骨に散りばめられたダイヤモンドに反射して、きらきらと複雑な虹彩が彼女の髪に散らばった。
残されたリオナはわなわな震えながら、庭園に立ち尽くす。
遠くで風が吹き、王宮の薔薇が一輪、静かに散った。
***
王宮の中でリオナの居場所はどんどんなくなっていった――いや、そんな場所は最初から存在しなかった。エドアルドが彼女に贈った部屋はあったが、元々賓客室だったし、侍女はいても噂を流されると思えば言動も委縮する。最初は嬉々として受け取っていた出入り商人や役人からのプレゼントも、それが女王に取り入ろうとするアプローチだと気づけば傷つくばかりである。
リオナには最初から価値なんてなかったし、これから芽生えることもない。
たとえ彼女が子を産んでも、それは王家の子ではない。
気晴らしに、エドアルド王配殿下と愛人リオナは避暑地の湖畔に遊びに行った。
女王陛下でもやらないくらい飾り立てた馬車から、まずリオナが顔より大きい羽をつけた帽子を得意げに見せびらかしながら降り立った。
と、貧しい男が見物の群衆の中から飛び出て、巨大な肉切り包丁でリオナの胸をついた。
「ウッ」
とリオナは叫び、崩れ落ちる。
「ウワウワウワウワウワー!」
とエドアルド王配は悲鳴を上げ、ばたんと馬車の扉を閉めた。
男はリオナの身体をざくざくざくざく刺した。その数三十五回。
即死ではなかった、と伝えられる。
逮捕された男は涎を垂らしながらぶつぶつ言っていた。
「税金を、俺たちの税金をあの女はあ……同じ平民のくせに!」
新聞社は躍り上がって大々的に事件を報じた。
さすがにもう死んでいるから、リオナのことは悲劇の少女として華々しい報道がなされた。彼女の名誉は死後に報われた、と言えるのかもしれない。
結論から言えばリオナは王宮に入るべきではなかったし、エドアルドも迎え入れるべきではなかった。
だが、今更言っても仕方ない。もうことは起こり、終わってしまったのだから。
「はい、殿下」
にっこりと艶やかに女王の笑みを浮かべながら、ローレライは夫に一枚の契約書を差し出す。
「ローレライ。こ、これは……?」
「人が一人、死んだのですよ、殿下。このまますべて元通りというわけにはまいりません。精神病院への入院承諾書です。とても設備のよいところで、先生方も信頼がおけますことよ。たっぷりと残された余生を、解放された場所でゆるりとお送りくださいませ」
「いっ、いやだあ! 僕はここを離れないぞっ!」
エドアルドは走ってローレライから離れると、柱のひとつにしがみつき、わめいた。
「僕はっ、僕はここが好きなんだ。僕は王宮に住む、準王族だっ。いくらきみの命令とはいえ従わない!」
「まあまあ殿下。それではまるで、王宮そのものに恋しているよう。おかしいですわね……」
コロコロとローレライは口元に手を当てて声を立てる。間近に控えた臣下たちも、互いに顔を見合わせ低い忍び笑いを漏らした。
「しかしそれでは、ご両親に御遺体の引き取りを拒否され共同墓地に眠るリオナに示しがつきません。――さあ」
ぱちんとローレライが指を鳴らすと、近衛騎士が音を立てずに出てきてエドアルドを取り押さえる。今度は直接、彼の身体に手をかける。
「おまっ、お前たち無礼だぞ! 僕は王配、準王族だあああああーっ!」
最後まで見苦しく、エドアルドは王宮を追い出された。
ローレライは深い溜息をついた。窓から見える庭園には、今日も薔薇が咲き誇る。この王宮の暮らしは国一番の贅沢さだが、それには多くの使用人の奉公が元になっている。
メイドがしずしず進み出て、湯気の立つカップを机に置いた。
「ありがとう」
一礼して立ち去る彼女に、きっとエドアルドだったらお礼も言わなかったのだろう。思えばそういうところから、驕りが目立つ男であった……。
そのとき、執務室の扉の外から小さな声がした。
「お母さまー、入ってもいい?」
ローレライはカップを戻し、顔を上げた。
「お入り」
とたんにわあっと三人の少年が雪崩れ込んでくる。
長男アルノー、八歳。
次男ルシアン、六歳。
そして末男テオ、三歳。
エドアルド王配に何か成し遂げたことがあったとするならば、その結果がここにいる。
「朝からどうしたの?」
ローレライは両手を広げて子供たちを抱き留めた。アルノーが胸を張って答えた。
「お父様が行っちゃって、お母さまが寂しいと思って!」
「まあ、いったい誰がそんなことをおまえたちに教えたの」
「せんせえが……」
と、ルシアンがお付きの家庭教師を指差す。ローレライは肩をすくめた。彼女自身も初期教育を彼から学んだのだ、彼の厳格な掟はよくわかっている。
「ないてう?」
母親の膝に小さな手をついて、テオがその顔を覗き込んだ。
「おとたまいないいない、おかたま、ないてる?」
ローレライはわずかに目を伏せ、三人をまるごとぎゅっと抱きしめる。
「泣いてなんかいませんわ。会いに来てくれてありがとう。あなたたちは優しい子ね」
小さな頭を順番に撫でながら、清潔な石鹼の香りがする髪の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。
政治も権力も知らぬ、ただ慈しまれているだけの時間が持つ香り――
窓の外では薔薇が朝露に濡れ、白い光の中でゆるやかに揺れている。
やがてローレライは子供たちを離し、静かに言った。
「――さあ、あなたたちは行きなさい。今日も学び、遊びなさい。この国は、あなたたちの未来の庭ですもの。アルノーが統治し、ルシアンが目を配り、そしてテオが最後まで見守るの」
三人の王子たちは口々にわかりましたと叫んだ。くんずほぐれつ、互いにじゃれ合いながら部屋を出ていく小さな背中を見送り、ローレライはインク壺に手を伸ばす。
「遅くなってしまいました。さあ、朝の報告会を始めましょう。いつも通り、順番に発言してください」
臣下たちは胸に手を当て、従順に女王に頭を下げた。心からの忠誠と、敬愛が彼女に伝わることを願った。
――王国は静かに続いていく。
たとえ女王が斃れようとも、新しい王が何度入れ替わろうとも。
それこそがローレライの生きる意味。
この世に生まれてきた証。