第9話:思い出
康太とエレナは、いつも一緒にいた。
放課後の帰り道、公園のベンチ、晴れた日も曇りの日も、彼の隣にはいつも小さな妖精が寄り添っていた。
そんな二人の時間に、結衣もできる限り加わろうとしていた。
エレナはいつも、静かに見守りながらも、そっと手を差し伸べるように接していた。
エレナは、少しずつ消えかけている存在だった。それでもまだ、彼女は確かにそこにいて、二人の掌の中や声のやりとりの中に、やわらかく息づいていた。
三人は、可能な限り一緒にいて、思い出を作った。
それは、特別な冒険や劇的な出来事ではない。ただ、季節の変化に寄り添いながら、日々を丁寧に重ねていくような時間だった。何気ない会話、並んで歩く足音、微笑み合う瞬間――そうした断片のひとつひとつが、かけがえのない思い出となって積もっていった。
この日も、春の陽気に誘われて、公園のベンチに腰掛ける三人。
木漏れ日が芝生を照らし、風が優しく葉を揺らしていた。
ベンチに腰掛けた結衣が、ふと空を見上げて微笑んだ。
「今日は、あたたかいね」
その言葉に、隣に座る康太もゆっくりと視線を空へ向ける。
「うん。春の匂いがする」
エレナの光が、ふわりと揺れた。
そして、小さな鈴のように澄んだ声が、康太の掌から聞こえてくる。
「こうしていられるの、うれしいな。風の音が、やさしくて」
結衣はエレナの言葉にきれいな音色を感じていた。
「ねえ、エレナ。痛くはないの?」
結衣は恐る恐る尋ねた。声の奥に、確かな心配が滲んでいた。
エレナはしばらく言葉を発さなかった。沈黙の中に、光の揺らぎがわずかに強まった気がした。
やがて、落ち着いた声がそっと返ってくる。
「ううん。痛くないよ。でもね、少しずつ薄くなっていくのが、自分でもわかるの」
康太はその言葉に、指をわずかに震わせた。
だが、表情には笑みを崩さず、やさしくエレナを包み込むように見つめていた。
「それでも、まだ一緒にいられる。今日もちゃんと、見えてるよ」
「康太はほんとにやさしいね」
エレナの声が、照れたように笑った。
時間はゆっくりと流れ、三人はやがて商店街の方へと足を運んだ。
通りにはにぎやかな声と香りがあふれていた。パン屋の前を通れば焼きたての香りが漂い、古本屋では風にめくれたページの音が聞こえた。
「ねえ、あのケーキ屋さん覚えてる? この前通ったとき、気になってたんだ」
結衣がそう言って指をさすと、康太も頷いた。
「行ってみようか。エレナも、いい?」
「うん! おいしそうな匂い、こっちまで届いてるよ」
ショーケースには色とりどりのケーキが並び、まるで小さな宝石のようだった。
結衣は目を輝かせながら、チーズタルトと抹茶ロールを手に取るまで、何度も迷っていた。
「優柔不断だな」
康太が苦笑混じりに言うと、結衣は笑いながら肩をすくめた。
「いいでしょ、どっちも食べたいんだから」
店を出た三人は、近くの広場にあるベンチへと戻った。
紙袋からケーキを取り出し、小さな木のスプーンにひとくち分だけのせてみる。
「はい、エレナ。想像でいいから」
結衣が笑いながら差し出すと、エレナは小さな声で応えた。
「うん……おいしい気がする。甘くて、やわらかい。甘いの表現わからないけど」
結衣が楽しそうにほほ笑んだ。
エレナもそれに引きずられて微笑んだ
午後の風が通り抜け、空の青とケーキの甘さと、三人の笑い声が、やわらかく混ざり合っていた。
夕暮れが近づいても、別れがたく、三人はもう一度、公園へと戻った。
茜色の光が芝生を染め、遠くからカラスの鳴き声が響いてきた。
「もう、日が沈んじゃうね」
結衣がそう呟いたとき、空はすでに深く、優しく燃えるような色に染まっていた。
日が沈みきる前の、ほんの短い時間。世界が一瞬だけ静まり返るような、そんな黄昏のひとときだった。
ベンチに座って星を待ちながら、康太は掌を胸の上に置き、エレナを感じていた。
そこには確かに、ぬくもりがあった。
「夜の空、好きだな。遠くにあっても、ちゃんとつながってる気がする」
言葉に続いたのは、風のように柔らかな声だった。
「うん。私もそう思う」
エレナの声は、どこか穏やかで――けれど、その奥に、静かな覚悟のようなものがあった。
それは別れを恐れるものではなく、ただ、受け入れようとする優しさだった。
「エレナ、ずっと一緒にいられたらいいのに」
結衣がぽつりと、思いを零す。願いにも似たその一言は、茜色の空にすっと溶けていった。
「……私も、そう思う。でも、きっと、大丈夫。ちゃんと覚えててくれるでしょ?」
言葉の端々に込められたのは、信頼と希望、そしてほんの少しのさよなら。
その声に、康太も、結衣も、まっすぐに頷いた。
「うん。何があっても、絶対に忘れないよ」
「もちろん、私も忘れないよ」
二人の声は同時に重なり、夕闇の静けさの中へ、やさしく吸い込まれていった。
沈黙が、ゆっくりと三人を包み込んでいった。
けれどその静けさは、決して気まずさや寂しさではなかった。それはむしろ、言葉では語り尽くせないほどに――満ち足りた、穏やかな静寂だった。
結衣もまた、そっと目を閉じる。静かに息を吸い込み、風の匂いと、空の色と、隣にいる二人の気配を胸に刻む。
そうして、消えていくものに怯えるのではなく、今ここにあるものをしっかりと受け止めようとしていた。
その記憶は、きっと消えない。
彼らの中に、心の奥深くに、やわらかく染み込むように残り続ける。
だから、彼らは笑うことができた。
悲しみの先にある希望を信じながら、思い出のひとつひとつを、大切に抱きしめながら。
こうしてまた、三人の時間が一つ、静かに重なっていく。
特別な言葉はなくとも、それは確かに――かけがえのない一日だった。