第7話:過去の引出し
放課後の公園は、夕焼け色に染まっていた。低く傾いた太陽が、遊具の影を長く伸ばし、舗道に落ちる木々の葉の影を揺らしている。風は優しく、どこか切なさを孕んだ匂いを運んでいた。
康太はベンチに座り、そっと手のひらを開いた。そこには、淡い光を帯びた小さな姿――エレナが、掌にちょこんと立っていた。彼女の体は以前よりもさらに透明に近く、指先さえも見失いそうになるほど儚い。だが、その小さな手を康太はそっと握りしめる。確かにそこにいる。そう信じられるぬくもりが、かすかにあった。
深く息を吸い込んだあと、エレナが口を開いた。
「康太、あのね。……私、また夢を見たの」
風を受けた髪がかすかに揺れる。けれど、その姿は静かに美しかった。
「夢……?」
康太は視線を落とし、掌の中の彼女に問いかけた。
「どんな夢だったの?」
エレナは少しだけ躊躇したが、やがて小さくうなずき、静かに語り始めた。
「私……たぶん、誰かの強い想いによって、この世界に現れた“想いのかけら”みたいなの」
風が一度、強く吹き抜ける。足元の落ち葉がふわりと舞い上がり、それが風とともに空へと流れていった。
「誰かの……想い?」
「うん。でも、それが誰のものだったのか、私自身にもわからないの。ただ……その想いが、私にこのかたちを与えた気がする」
康太は驚いたように目を見開いた。
その瞳の奥で、戸惑いと理解がせめぎ合っていた。
「じゃあ……僕が君を作ったんじゃないの?」
それはどこか、寂しげな声だった。
あの日から、自分とエレナは深く繋がっていると信じていた。その想いが、彼女をこの世界に引き寄せたのだと、無意識のうちに思っていたのだ。それは自分だけに与えられた奇跡のように思えていたから。
けれど、エレナはゆっくりと首を縦に振る。
「……たぶん違う。康太は、“私の存在に共鳴してくれた人”。それが大きな意味を持ってるの。でも、私を見つけてくれたのは偶然じゃないと思う。康太の中にも、同じような想いがあったから、私が見えたんだと思う」
康太の心が、静かにざわめいた。
何かを生み出したわけではない。けれど、自分の“想い”が、彼女を受け止めた――そんな気がした。
「それにたぶん、結衣も同じ。あの子も、どこかで同じ想いを持ってたんだと思う」
エレナの言葉に、康太は自然と結衣の顔を思い浮かべていた。明るくて、人懐っこい声。どんなときも笑顔を絶やさないように見えた、あの瞳。
けれどその奥には、誰にも気づかれぬようにそっと隠した、孤独や痛みの影があったのかもしれない。
そう思うと、ふと胸が締めつけられるようだった。
エレナの声は、そんな康太の想いを包み込むように、静かに続いていた。
「でも、私がこの世界に長くいられないのは、最初の“想い”が、少しずつ薄れてきているからみたい」
彼女の目が、ふと遠くを見る。遊具の向こうで、夕日が地平線へと沈みかけていた。
「私の翅も存在も消えかけているのは、その力が尽きかけている証なの……。最初に私をこの世界につないでくれた想いが、終わりを迎えようとしている」
康太はぎゅっと唇をかみしめ、そして小さく息を吐いた。
言葉が詰まりそうになった。けれど、思いを込めて、まっすぐに彼女を見つめた。
「それでも……僕は君といたい。たとえ世界の仕組みに逆らってでも。僕自身の想いで、君を支えたい」
その言葉に、エレナは目を見開き、そしてゆっくりと笑った。
その微笑みは、かつて見せたどんな表情よりも穏やかで、温かくて――美しかった。
ほんの一瞬、わずかに輝きを取り戻した。
それはかすかな光で、すぐにまた消えてしまいそうな儚さだったけれど、確かにそこに「想い」が宿っていた。
「ありがとう、康太。今のあなたの想いが……私をこの場所につなぎとめてくれてるの」
その瞬間、風がまた優しく吹いた。
エレナの髪が揺れ、夕陽の光を浴びながら、彼女は静かに目を閉じた。
「ねえ康太……前にもいったけど、もしも、いつか私がいなくなってしまったら……あなたは、私のことを覚えていてくれる?」
康太は少し間を置いて、ためらいなく答えた。
「忘れるわけないよ」
その言葉に、エレナの表情がわずかに揺れた。感情が波打つように、一瞬だけ光を強める。
「ありがとう……」
その声は、まるで風に乗った鈴の音のようだった。静かで、やさしくて、どこか切ない響きを残して、夕暮れの空に消えていった。
ベンチから少し離れた小道の先に、ひとつの影が静かに立ち尽くしていた。
制服のまま、スカートの裾を風に揺らしながら――結衣が、ふと足を止めていた。
「康太……」
声をかけようとして、けれどその声を胸の奥に引っ込める。彼女の視線の先には、夕陽を浴びる康太の姿と――
その掌に立つ、淡く光る、小さな存在。
結衣は何も言わず、ただじっと、その光景を見つめていた。
夕焼けの中に佇むその眼差しは、やさしさと、ほんの少しの寂しさを湛えていた。
やがて、結衣は小さく息を吐くと、そっと背を向けた。
その場を離れながらも、心の奥に、何かが刻まれていくのを感じていた。
彼女の足音は落ち葉の上に吸い込まれ、スニーカーの音も鳴らさぬほど静かに、彼女の姿はやがて、夕暮れの木々の奥へと、ゆっくりと溶けていった。
そのことに、康太はまだ気づいていなかった。
掌の中に立つエレナもまた、目を閉じたまま、風に身を委ねていた。
その沈黙のなか、エレナがそっと口を開いた。康太にだけ届くような、静かな声で。
「――結衣を、ちゃんと見守ってあげて。それが、たぶん……私の、今の”想い”なんだと思う」
エレナはそういった。
空の色は、もうほとんど夜の色へと変わりかけていた。