第6話:妖精伝承
翌日の放課後、康太と結衣は静かな決意を胸に、学校の職員室の扉を叩いた。
声をかけたのは、社会科を担当する香月先生。飄々とした口調とは裏腹に、彼は深い知識を持つ教師で、大学時代には民俗学を専攻していたという噂があった。
実は、康太はエレナの姿が見えた結衣に相談していた。
香月先生に話せば、何かヒントが得られるかもしれない――そう、結衣が教えてくれたのだ。
「香月先生、少し……お時間、いただけますか?」
机に向かっていた先生が顔を上げ、眼鏡の奥から康太と結衣を見つめた。
彼は静かに頷き、机の書類を脇へ寄せると、椅子を引いて康太に座るよう促した。
「どうした? 珍しいな、二人ともそんな真剣な顔をして来るなんて」
「……妖精について、聞きたいことがあって」
「妖精?」
香月先生は少し驚いたように眉を上げた。
「ずいぶんとロマンチックな題材だな」
結衣は一瞬だけためらい、それから覚悟を決めたように言葉を紡いだ。
「ちょっと……物語を書き始めてて……だけど、ただの作り話じゃなくて、ちゃんと意味のあるものにしたくて……」
「なるほど、創作のためのリサーチか。偉い偉い、真面目だね」
香月先生は微笑みながらも、どこか真剣なまなざしで康太を見つめた。
「でも……」
康太は声を潜めて続けた。
「本当にいるっていうか、いたとして、それがどういう存在なのか、知りたくなったんです」
先生は一瞬考えるように視線を泳がせ、それからコトリと背もたれに体を預けた。
「妖精というのはね、昔からただの空想だとは限らないとされてきた。民俗学の視点から見ると、妖精は“人の想い”に呼応して現れる存在なんだ」
康太は思わず、制服の胸ポケットに視線を落とした。そこには、小さくなったエレナが、じっと身を潜めている。
布の奥で、彼女のぬくもりをほんのわずかに感じた。
「想いって……どういうものなんですか?」
「誰かを大切に思う気持ち。守りたいと願うこと。そういった強くて純粋な感情が、かたちを持ち、時に妖精としてこの世界に現れる……。そう信じられてきた。ある学者は、それを“想いのかたち”と呼んでいたよ」
香月先生は、引き出しから一冊の本を取り出した。革表紙の分厚い研究書だ。ページをめくると、光のような翅を持つ存在の絵が現れた。
「この翅を見てごらん。妖精の翅はね、その“想い”の純度や強さを象徴すると言われている。想いが揺らげば、翅は薄れ、やがて消えることもある……」
その一言に、康太の胸が一瞬、痛んだ。
エレナの翅。今の彼女の背には、かつてのような光の翅はなかった。
「……もし、その“想い”が、もういない人のものだったら?」
香月先生は一瞬だけ目を伏せ、少しだけ寂しそうに微笑んだ。
「それでもね、想いは不思議なものだよ。たとえ持ち主がこの世界にいなくなっても、誰かに引き継がれることで、その存在は消えずに残るかもしれない。そして、まったく別の誰かが、その想いに共鳴して……新たな意味を与えることもある」
「共鳴……?」
「うん。たとえば君が、誰かの想いに気づいて、その気持ちを受け止めたとしたら、それはもう、君自身の中に“かたち”として宿るんだ。想いって、そうやって繋がっていくんだよ」
康太は黙って頷いた。その言葉が、じわじわと心の奥に沁みこんでいくのを感じた。
もしかしたら――自分は、エレナの“意味”になれるのかもしれない。翅を失ってなお、彼女が今ここにいるならば、自分の想いでその存在を支えることができるのかもしれない。
「……香月先生は、そういう妖精を見たことありますか?」
結衣が思いつくままに尋ねた。
その問いに、香月先生はちょっとだけ視線を遠くへやった。
「さあ、どうだろうな。でも、ふとしたときに感じることはあるよ。風の匂いが変わるとか、誰もいないはずの場所で温もりを感じるとか……。それが“想いの気配”なんだろうと思ってる」
「……それ、わかる気がします」
康太の声は、ほんの少し震えていた。
職員室を出るころには、夕陽が廊下を赤く染めていた。
窓ガラスに反射する夕陽の中で、康太はそっとポケットに触れた。
その中で、エレナがぴくりと動いた。
「ねぇ、康太。さっきの先生……面白い人ね」
制服越しに聞こえる声は小さくて、かすかに震えていた。
康太はくすっと笑って、廊下を歩きながらそっとささやいた。
「そうだね。でも、僕も少し……元気をもらえたかも」
「“想いのかたち”って、あれ……本当にあるのかな」
エレナの声が、ほんの少しだけ泣きそうに揺れる。
「あるよ、きっと。だって、君はここにいる」
「……でも、私の翅はもう……」
康太は立ち止まり、ポケットの布越しに手をそっと当てた。まるで小さな宝物を包むように。
「それでも、僕にはエレナが見えるよ。声も届く。ぬくもりだって、ちゃんとある。それに……」
そう言いながら、康太は隣に歩く結衣へと視線を向けた。
「結衣にも、エレナは見えてるんだ」
結衣には、エレナの姿が淡い光のように映っている。
ただし、声も、表情も、まだ届かない。
それでも彼女は、確かにそこに“何か”がいると感じ取っているのだ。
「……私、まだここにいられるのかな」
「もちろんだよ」
康太の答えには、ためらいはなかった。
ふいに、胸元からかすかに光がにじんだ気がして、エレナの声が優しく返ってきた。
「ありがとう」
それは、康太と結衣、ふたりに向けた感謝の言葉だった。
隣を歩く結衣が、そっと尋ねる。
「エレナ、なんて言ってるの?」
康太は微笑んで、短く答えた。
「ありがとう、だって」
そのとき、ふと風が吹いて、木々のざわめきの中に、かすかな鈴の音のような響きが混ざったように思えた。
帰り道、康太はポケットの中に小さな存在を感じながら、ゆっくりと歩き出した。
結衣はそれを優しく見つめている。
自分の足では歩いていないけれど――康太と結衣の歩幅が、まるで自分の想いを受け取ってくれているように、ぴったりと重なっているのを、エレナは感じていた。
それは、確かに三人の“想い”が共鳴した証だった。