第4話:ガラスの夜
夜がゆっくりと街を包み始めたころ、康太は小さな溜息をつきながら、帰り道の足を止めた。
繁華街から外れた住宅街の一角、古びた公園の入口に立ち尽くす。その足元には、夕方の風が落ち葉をからからと転がしていた。
ふと耳に残るのは、教室の隅で囁かれた噂の断片――
「最近、佐藤のヤツ、ちょっと変じゃないか?」
「誰もいないのに、話してることあるよな」
「見えない誰かと会話してるみたいで、正直怖い……」
友達だと思っていた人たちの、目を逸らすような視線。無言で距離を取る仕草。
あの日から、少しずつ、確実に周囲が変わっていった。
康太は、自分でもそれが夢なのか現実なのか、見分けがつかなくなることがあった。
だが、ひとつだけ確かなのは、彼の傍には“彼女”がいたということ。
康太はうつむいたまま、足を引きずるようにベンチへと向かう。
体の疲れよりも、心の重さのほうが何倍も辛かった。
「……康太、大丈夫?」
ふわりと胸ポケットから抜ける風のように、小さな声が康太の耳に届く。
彼が顔を上げると、いつものように彼の肩にそっと乗ったのは、手のひらサイズの少女――エレナだった。
淡く光る白銀の髪。その姿は誰にも見えないはずの、康太だけが出会った存在。
誰にも見えず、誰にも触れられない彼女が、なぜか康太には見え、そして声が届く。
「大丈夫だよ……」
康太の声は、どこか擦れたように弱かった。
エレナは彼の肩からふわりと飛び降り、康太の前に浮かび上がると、心配そうに顔を覗き込む。
「私、康太のお荷物じゃない?」
康太は目を見開いた。
その言葉は、まるで胸の奥に針を刺すように響いた。
「違うよ。そんなふうに思ったこと、一度もない」
エレナはしばらく黙っていたが、やがてそっと答えた。
「人は、見えないものを恐れるの。わからないものを、排除しようとすることもある。康太が私を見つけたときも、そうだったでしょう?」
康太の瞳がかすかに揺れた。
――そう、初めてエレナに出会ったあの日。自分でも何を見ているのかわからなかった。でもそのとき、確かに彼女の声が聞こえた。誰にも見えないはずの存在に、手を伸ばしてしまった。
「……でも俺は、怖くなかったよ」
エレナは小さく微笑むと、彼の指先に手を重ねた。
「ありがとう。康太がそう言ってくれるだけで、私はここにいていいんだって思える」
康太は、彼女の手をそっと包み込んだ。
その温もりが確かに存在していることが、彼にとっての真実だった。
だが、そのときだった。
彼女の体がふわりと揺らぎ、まるで水面に浮かぶ幻影のように、わずかに透けて見えた。
「……エレナ?」
康太は驚いて彼女に触れようとした。しかし、その手が届いた瞬間、エレナの輪郭が一瞬だけ震え、すり抜けるように薄れていった。
「大丈夫か? 今……何か、変だったぞ……!」
「……うん。私も、わかった。さっき、急に力が抜けたみたいで……体が、ふわふわする」
彼女の声にも、どこか怯えが混じっていた。
「まさか……消えてしまうのか?」
その言葉に、エレナは小さく首を振った。
「わからない。でも……最近、自分が“ここ”にいることに、自信が持てなくなることがあるの。まるで夢の中にいるみたいに」
エレナの瞳に涙が浮かび、それが夜風に揺れた。
星がまたたき始めた空の下、彼女の小さな体は確かに“そこにあった”。
──その様子を、公園の入り口からひとり見つめていた少女がいた。
クラスメートの結衣だった。
セミロングの栗色の髪をした結衣は、周囲よりも少しだけ他人の変化に敏感だった。
康太が寂しげな背中を向けていた夕暮れの数日前。公園の角で、彼が誰かに語りかけている姿を見てしまった。
――だけど、相手の姿は見えなかった。
あのとき結衣は、ただ怖いとは思わなかった。
むしろ、康太の横顔があまりに切なくて、苦しくて、どうしても見捨てることができなかった。
(やっぱり……何かいるんだ。康太には)
心の奥にあった違和感が、確信に変わる。
彼の様子は明らかに何かと向き合っていた。ただ、他の人には見えない“それ”に。
「……康太。どこまで一人で抱え込むつもりなのよ」
そう呟いたとき、公園の風が彼女の髪をさらりと撫でた。
その風の中に、ふと――ほんの一瞬だけ、光る何かが見えた気がした。
その瞬間、結衣は感じた。
康太が見ていた世界が、ほんの少しだけ、自分の世界にも重なった気がした。
「いま……少しだけ見えた気がしたの。康太の、隣に誰かがいたような気がして」
康太の手がわずかに動いた。だが否定はしなかった。
「見えたなら……すごいな。普通の人には見えないはずなのに」
結衣は、思っていたよりも落ち着いていた。
混乱でも恐怖でもなく、ただ静かにそこに立っていた。
「……康太、ずっと一人でそれを抱えてたんだね」
康太は、少しだけ顔を上げた。
その目には、わずかな驚きと、戸惑いが混じっていた。
「……誰にも話せなかった。話せば、きっと笑われるか、気味悪がられるって思ってたから」
「うん、わかるよ。たぶん、私も同じだったら、誰にも言わなかったと思う」
結衣はそれ以上何も言わず、ベンチの脇に立ったまま、夜の空を見上げた。
遠くで風が葉を揺らす音だけが、二人の間に流れていた。
そして、エレナは消えた――。