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第3話:日常という幻

 学校のチャイムが鳴り終わり、教室には一斉に椅子を引く音と、日常に戻るようなざわつきが広がった。


 康太は窓際の席に座ったまま、じっと校庭を見つめていた。木々の間を通り抜ける風が、どこか遠い場所を思い出させる。隣の席には、やはりエレナの姿はない。今日も彼女は、康太の胸ポケットの中で静かに息を潜めている。


「おい、康太!」


 不意に声をかけられ、康太はハッと我に返った。振り返ると、クラスメートの結衣が心配そうにこちらを見ていた。


「最近、なんかぼーっとしてること多くない? 具合悪いの?」


「……ああ、ありがとう。大丈夫。ちょっと寝不足でさ」


 康太は苦笑いで誤魔化す。結衣は眉をひそめた。


「ほんとに? なんかさ、話しかけても上の空って感じのとき、多いよ?」


 結衣は、机に両手をついて康太のほうへ身を乗り出すようにして言った。


「康太が“そういう目”をするときって、大体無理してるときじゃん。小学校のときもそうだったよね。何かあっても黙って抱え込んでさ、誰にも言わないくせに、顔に全部出るの」


 彼女の言葉に、康太の胸の奥が少しだけ揺れた。彼女は昔から、時折やけに鋭いところがあった。


「ねえ、ほんとに……何も変なこととか起きてない? たとえば、なんか……誰かに見られてる感じがするとか」


「え?」


 康太の顔色が変わった。一瞬、まばたきさえ忘れたように固まる。

 結衣は、その変化を見逃さなかった。


「……あのさ、この間もさ、公園の前で康太見かけたんだ。ベンチに座ってて、手のひら見つめながら……何か話してたみたいだった」


 康太は一瞬、言葉を失った。


「……そっか。見られてたのか」


「うん。でも、怖かったわけじゃないの。むしろ……すごく、切なそうな顔してたから。なんか、助けたいって思っただけ」


 結衣は、ほんの少し頬を赤らめた。


「ありがとう。結衣……本当に」


 康太は俯きかけた顔をゆっくりと上げ、感謝のこもった目で結衣を見た。


「……じゃあさ。もし何か、辛くなったら、言ってね。私は康太のこと……ずっと見てるから」


 康太は何も言わず、笑顔でただ小さく頷いた。

 結衣はその笑顔を見て少し安心したように、肩の力を抜いた。


「……ふうん。じゃあ今日はそれで許してあげる。次からは無理すんなよ、マジで!!」


 康太はそう言われると小さく笑った。結衣はそれで満足したのか、自分の席へと戻っていった。

 教室に残るざわめきが、康太にはどこか別世界の音のように感じられた。


 放課後、陽が傾きかけたいつもの公園。

 康太は人気の少ないベンチに腰を下ろし、周囲を見回してから胸ポケットにそっと手を差し入れた。


「大丈夫?」


 小さな声が、指先に触れた瞬間に返ってきた。


「うん、大丈夫。……エレナ、外の空気、吸いたいよな」


 彼は優しくポケットから彼女を取り出し、両手でそっと包み込むようにして掌に乗せた。エレナの小さな体は相変わらず軽くて温かく、彼女はふわりと康太の手の上に座り直すと、空を見上げた。


「今日は雲が多いね。……でも風は気持ちいい」


「……授業、つまんなかったよ。なんか、みんなの目が変だった気がする」


 康太がぽつりと言うと、エレナは心配そうに首を傾げた。


「私のこと、誰かに見られたの?」


「いや……それはないと思う。エレナの姿が見えるのは、俺だけのはずだし」


 そのときだった。ふと、視界の端に小さな女の子の姿が映った。ランドセルを背負ったその子は、公園の入り口からこちらに向かって駆けてきている。


「え……?」


 康太が思わずエレナに目を戻すと、彼女の輪郭が一瞬、ふわりと揺れたように見えた。まるで水面に落ちた一滴の水のように、微かに、しかし確かに。


「今、透けた……?」


 慌てて周囲を見回す。けれど女の子はただの通りすがりで、こちらを気にする様子もない。ベンチのまわりには誰もいない。ただ、風が木々を揺らし、葉擦れの音が静かに響いている。

 女の子には気づかれていなかった。


「康太……?」


 エレナが不安そうに見上げてきた。その目は、どこか怯えているようにも見えた。


「……いや、なんでもない。きっと気のせいだよ」


 康太は無理やり微笑みを作った。けれど、内心では疑念が芽生えていた。


 それから数日、同じ現象が続いた。

 教室の隅、帰り道のバスの中、夕暮れの帰宅途中――エレナの輪郭が、一瞬だけ揺らぎ、かすかに透けて見えることがあった。


 そして、今机の上でも


(やっぱり……なにかがおかしい)


 康太の顔を見てを察したのか、


「私、壊れていってるのかな……」


 エレナは康太の机の上で、寂しそうに呟いた。


「そんなこと言うなよ。壊れるなんて」


「でも、私……ここにいていいのかな。康太に迷惑、かけてない……?」


「迷惑なわけ、あるかよ」


 康太の言葉に、エレナはそっと目を伏せた。そして、声を震わせながらぽつりと言った。


「私……夢だったのかな。ほんとは、どこにもいなかったのかもって、時々思うの」


「エレナ――」


 康太は椅子から立ち上がると、机の上の彼女に両手を差し出した。彼女はそっと乗り移り、康太の掌に身を委ねる。


「大丈夫。俺がちゃんと、見てる。だから、エレナは“ここにいる”」


 エレナはその言葉に応えるように、透明な手で康太の指をぎゅっと握った。


 その夜。


 康太は机に向かい、日記帳を開いた。傍らには、いつものようにエレナの小さなベッドがある。丸めたタオルと、小さなハンカチの掛け布団。そこに彼女は、静かに横になっている。


 ――エレナの姿が、時々揺らぐようになった。それはきっとエレナが消えかけているということだ。


 ペン先が少しだけ震える。

 日記を閉じると、康太は窓を開けた。夜風がそっと吹き込み、星空がきらめいていた。

 窓辺に立つと、エレナが小さく目を開けて囁く。


「ねえ、康太。私……いなくなっても、忘れないでくれる?」


「……何言ってんだよ。今だってここにいるじゃん」


「でも、もし……もしもってことがあったら。康太の中に、少しでも残れたら、それで……」


 康太はそっと彼女を見つめ、そして小さく頷いた。


「忘れるもんか。エレナは、大切な友達だよ」


 エレナは安心したように、再び目を閉じた。

 その姿は、夜空に浮かぶ星と同じくらい、小さくて、でも確かに“そこにある”ものだった。


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