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第2話:翅の記憶

 康太は、夕暮れの冷たい風を背に受けながら、ようやく自宅の玄関先にたどり着いた。静かに息を整えながら、彼の手は無意識に制服の胸ポケットを押さえている。その手のひらに感じるぬくもりは、いつもと違う帰宅の瞬間に、どこか不思議な重みを伴っていた。


 靴を脱ぐ音が、薄暗くなった廊下にひときわ響く。ひんやりとした床の冷たさが足裏にじわりと伝わり、康太は一瞬だけ深く息を吸い込んだ。


 家の中はいつも通りの静けさだった。しかし、今この場所にいる自分の心はどこか落ち着かず、緊張と期待が入り混じっているのを感じていた。

 自分の部屋へ歩みを進める康太。窓のカーテン越しに差し込む夕陽の名残が、淡く柔らかいオレンジ色の光の帯となって床に長く横たわっている。普段ならそんなささやかな景色に目を留めることもなかったが、今日はその光景が胸の奥をじんわりと温めるように感じられた。


 ゆっくりとベッドに腰を下ろし、康太はそっと胸ポケットに触れる。そこに確かに伝わる、小さなぬくもり。夢や幻ではない、確かな温もりだった。


「エレナ、ここは安全だから。誰にも言わないよ」


 康太は静かな声で呟き、指先でそっとポケットの中を探った。掌に取り出したのは、小さな少女――翅のない妖精だった。


 エレナは不安そうに周囲を見回しながらも、康太の掌の上で身を預けていた。

 彼女の瞳にはまだ戸惑いが残っていて、見上げる目には儚くも強い意志が秘められている。


「ここが、康太のおうち……?」


 エレナのその問いは、不安と期待が入り混じった小さな声となり、康太の胸に静かな波紋を広げた。彼は優しく微笑み、ゆっくりと答えた。


「うん。俺の部屋だよ。……まあ、あんまりきれいじゃないけどな」


 照れくさそうに微笑む康太に、エレナはじっと見つめ返した。

 そして、震えるような声で小さく尋ねる。


「どうして、翅……ないの?」


 それはまるで自分自身への問いかけのようでもあった。彼女の声にはどこまでも儚く頼りない響きがあり、確かな痛みが含まれていた。

 康太は言葉を慎重に選びながら答えた。


「人間には翅はないんだよ」


 エレナは遠くを見つめるように目を細め、その瞳の奥に深い影が揺れていた。まるで過去の記憶を探し求めているかのようだった。

 その姿を見つめる康太の胸はずきりと痛み、彼はそっとエレナの小さな手を握り、優しく囁いた。


「大丈夫だよ。ゆっくりでいい。きっと思い出せるから」


 エレナは小さく頷き、微かにほほ笑んだ。


「……ありがとう、康太」


 その笑顔は壊れそうに繊細で、けれど確かに“生きて”いる証だった。


「ねえ、康太」


 エレナが突然口を開いた。


「なんだ?」


「もしも、翅があったら、どこに行きたい?」


 康太は少し考え込み、優しく答えた。


「んー……とりあえず、一緒に飛んでみたいかな」


 エレナはそれを聞いて、ほっとしたように笑った。


「そういえば、あと少しで夕食の時間なんだけど、エレナはなにか食べたりとかするの?」


 康太はエレナの方を見た。けれど彼女の答えは予想通りだった。


「私は、何も食べないし、お水も飲まないよ」


 その言葉に、エレナは穏やかな微笑みを浮かべた。


 その夜、康太は机に向かっていた。

 部屋の隅には、小さな布で作った即席のベッドと、丸めたタオルの枕が置かれている。その上でエレナは静かに横になっていた。

 デスクライトだけが柔らかな光を放ち、紙の上を滑るペン先を照らす。外では夜風が窓ガラスをわずかに揺らし、遠くの街灯がぼんやりと灯っていた。


 康太は日記帳を開き、ゆっくりと書き始める。

 ――今日は不思議なことがあった。公園で、小さな妖精の少女に出会った。彼女は翅を失い、記憶も曖昧らしい。でも確かに、そこにいた。


 ペンを止めて深いため息をつき、再び書き始める。

 ――エレナは、俺だけが見える秘密の友達。誰にも知られたくない。だから、家に連れてきた。


 その言葉には、罪悪感ではなく、守りたいという純粋な想いが込められていた。



 数日が過ぎ、康太の日常には少しだけ彩りが加わった。

 エレナは康太の肩や机の隅にちょこんと座り、本を覗き込んだりテレビに首をかしげたりしながら過ごしている。


 ある日のことだった。エレナが首をかしげて言った。


「ねえ、これ、しゃべってる人、どうやって中に入ったの?」


 康太は少し考え込んでから答えた。


「これはテレビっていうんだ。中に入ってるんじゃなくて、映してるんだよ」


 エレナは目を丸くして、ますます不思議そうに言った。


「うつす……魔法?」


 康太は笑いながら首をすくめた。


「まあ、そんなもんかもな」


 二人のやり取りは、どこか温かくて、ほっとするものだった。


 その日も夕食を済ませ、二人は康太の部屋で過ごしていた。

 康太は椅子に腰を下ろし、エレナは机の上にちょこんと座っている。


 エレナは康太の手首に小さく体を寄せ、安心を求めるように目を閉じている。


「翅があれば、もっと自由に飛べるのにね」


 エレナがぽつりと呟くと、康太はそっと彼女の肩を指でなぞった。


「いつか、きっと取り戻そう。俺たちで」


 その言葉に、エレナは静かに微笑んだ。

 二人の間に流れる時間は、優しくてどこか懐かしかった。


 夜。康太は再び机に向かい、日記帳を開いた。


 ――エレナと過ごす日々は、ほんの少しだけ世界を変えてくれた。

 学校も、友達も、同じようでいて、どこか違って見える。


 ふと、ペンが止まった。窓の外に視線を向けると、夜空に星が瞬いていた。


 それはまるで、失われた翅の記憶を、どこかで静かに見守っているようだった。


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