第10話:翅の帰る場所
季節がひとつ進み、桜の花が風に乗って散り始めていた。まだ満開だった花々を三人で眺めた記憶は、つい昨日のことのように思えた。
エレナ、康太、結衣──三人で過ごした日々は、特別な冒険ではなかったけれど、何よりも大切な時間だった。放課後の教室、公園のベンチ、商店街の片隅。何気ない日常の中で、確かに心が通い合っていた。
「夏になったら、海に行こう」
康太が笑いながら言った。結衣もエレナもその言葉に頷いて、未来の約束を交わした。
だが、それは叶わぬ夢となった。今は……。
春の終わりの午後、康太の部屋には、静かな風が流れていた。窓際にはレースのカーテンが揺れ、そこに、エレナが立っていた。彼女の姿は、かつてよりもはるかに透明に近く、まるで朝露のように儚い。時折、存在がまさに消えてしまいそうに淡くなる。
結衣もそこにいた。康太の隣にそっと腰を下ろし、彼の手に視線を落とす。その掌の上には、時々うっすらと光が淡く輝く。エレナがそこにいる証。まだ、彼女はここにいた。
「……今日が、その時なんだね」
康太の声は震えていたが、目はまっすぐにエレナを見ていた。もう泣かない──彼はそう決めていたのだ。
エレナは、わずかに首を傾け、小さくうなずいた。その仕草だけで、何もかもが伝わってきた。言葉にできないほどの想いが、そこにあった。
「うん。でもね……ありがとう、康太。あなたが忘れずにいてくれたから、私はここにいられたんだよ」
声はかすかだったけれど、確かに届いた。結衣のまなざしも、その声に揺れた。エレナが言葉を紡ぐたび、彼女の光がわずかに震えては、きらめく。
「結衣も……ありがとう。私のこと、ちゃんと知ってくれて、本当にうれしかったよ」
結衣は涙をこらえながら、小さく笑みを返す。そして、そっと手を振った。
「また会えるよ、きっと。形が変わっても、想いはちゃんとどこかに残るから……そうだよね?」
エレナは頷き、微笑んだ。
そして、ふいに小さな声でつぶやいた。
「……最後に、もう一度だけ、飛んでみたいな」
その願いが告げられた瞬間、康太の胸の奥がふっと熱くなった。何かが動き出すような感覚。掌の上で、淡く光るものがひとしずくの涙のように輝いた。そして、そこから生まれたのは──小さな翅。
それは、まるで記憶が結晶になったかのような、透明でやわらかな翅だった。光を受けて揺れるそれは、確かに彼と彼女の間に積み重ねた日々の証だった。
そして次の瞬間、エレナの背に、新たな翅がそっと宿った。かつて失われたはずのその翅が、静かにその姿を取り戻していく。
「これは……」
康太が呟いた声は、息のように小さく、けれど深い驚きと戸惑いを含んでいた。
その問いに応えたのは、どこまでも優しく澄んだ、エレナの声だった。
「それはね、康太が、康太であるための“帰る場所”。想ってくれた人の心に残る、私の居場所なんだよ」
その言葉は、まっすぐに康太の胸に届いた。
胸の奥がきゅっと締めつけられるような感覚──けれどそれは、痛みではなかった。
温もりのような、ほっとするような、不思議なやさしさだった。
エレナは、そっと翅を震わせた。
その瞬間、部屋の中にやわらかな光がふわりと広がる。風に揺れるレースのカーテンが、その光を映してやさしく波打った。
彼女は瞳を潤せながらも、静かに微笑んでいた。
それを見て、康太の喉奥から何かがこみあげてくる。けれど、今はもう泣かない。彼は、最後までちゃんと見届けようとしていた。
「じゃあね、康太、結衣。ありがとう。あなたたちがくれた想いの光、全部──忘れない」
その声は、空気を震わせるようにして、ふたりの心に沁み込んでいく。
そして──エレナはそっと舞い上がった。
翅をひらりと揺らし、風に乗って、窓の外へ。やわらかな光となり、空へと昇っていく。
「でもね、“さよなら”じゃないんだよ」
風に溶けるようにして、声が響く。
「私、わかるの。きっとまた、康太と結衣のところに帰ってくるって。……だって、二人が私に翅をくれたんだもの」
その言葉に、康太も、結衣も、ただ黙って彼女を見上げていた。
もう届かない距離に行こうとしているのに、まるですぐそこにいるように思えてしまうほど、彼女の存在は確かだった。
その光はやがて、小さな星のように、青空へと消えていった。
けれど、それは“消えた”のではなかった。
そう感じられるほどに──それは、あたたかく、優しい別れだった。
そして、最後の声が、春風の中にふっと残された。
「……結衣……康太をお願いね……」
それは、まるで春の吐息のように、やさしく風に溶け、そして静かに消えていった。
あとには、静寂と、温もりだけが残されていた。
最後の声が、風に溶けるようにして消えていった。
康太はそっと目を閉じ、掌を見つめた。そこには、翅の形をした小さな光が残っていた。どこか懐かしく、そして切ない。
それは、エレナが確かにここにいた証だった。
──想いが生んだ、小さな奇跡。
康太は微笑んだ。その頬を、一筋の涙が伝った。
「また……どこかで」
その言葉がこぼれた時、隣にいた結衣が肩を震わせた。
「やだ……やだよ……」
隣にいた結衣は、肩を震わせながら必死に嗚咽をこらえていた。
声にならないその叫びは、まるで胸の奥に閉じ込めた想いが溢れ出そうとするかのようだった。
小さく震える声で呟く結衣の瞳には、涙があふれては頬を伝っていく。
彼女の胸の内は、複雑な感情で満ちていた。
「どうしてこんなに苦しいんだろう……」
いつもは強がってみせるけれど、今はもうごまかせない。
エレナがいなくなってしまう現実を、まだ受け入れられない。
でも、それだけじゃない。
彼女は知っていた。自分の中でじわじわと広がっていた、この胸の痛みは──嫉妬にも似た感情だということを。
康太とエレナの絆、二人だけの特別な時間。
その距離に割って入れない自分の無力さ。
誰にも話せない孤独感が、切なさが、胸を締めつける。
「でも……」
結衣は震える両手でそっと康太の肩に触れた。
「そばにいてくれて、私は少しだけ救われてる。だから……お願い、離れないで」
その言葉に込められた切実な願いは、声の震えの向こうに確かに宿っていた。
康太はそっと彼女の肩に手を添えた。温もりが伝わり、言葉以上の優しさがそこにあった。目には見えないけれど、二人の間に確かな絆が静かに結ばれている。
ふたりの涙を包み込むような青空……
エレナが望んでいた”想い”……
短くも儚い三人の物語は静かに幕を閉じた──。




