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シュタイラーは振り返って俺にもウインクを投げかけてきた。
「そこのお兄さんもそう険しい顔ばかり浮かべてないで、どうぞどうぞ」
見透かされているような、はぐらかされているような。
シュタイラーに促されるまま工房に入ると、すぐにとろりと甘い香りが全身を覆った。
一瞬でノーマの目がとろりと垂れ下がった。
美しいお嬢さん、涎は我慢しておきなさい。
俺達は前室で帽子、マスク、上着、ズボンと全部白の防護服を着てから、手洗い所で殺菌消毒した手に薄いゴム手袋をつけさせられた。
「ごくたまに観光客が見学を求めてくる事もあるのでね。用意してあるんです」
ちゃんとしているな。
こういう当たり前のことがちゃんとできている仕事場では、いいものづくりがされているはずだ。
工房の真ん中には大きな銅鍋が据えてある。
ミラが入っても余る程の大きさで、周りがステンレスっぽい素材の枠ですっぽりと覆われている。
どうやら二重構造になっているようだ。枠にはホースが二本繋がっている。
「これがチーズバット。温度調整しながら牛乳を加工できるお鍋よ」
ミラはチーズバットの脇に並んでいた自分の半分以上もあるミルクタンクを抱え上げた。
「これをこのチーズバットに…ふん!」
顔を真っ赤にしながら牛乳をバットに注ぎ込んでいく。
シュタイラーはミラの傍らに立ってそれを見ているだけだ。
重いタンクに足元がふらついていても、ミラに手を貸す事はしない。
それが、ミラの仕事だからだ。
だがその立ち位置は、何かあった時にはいつでも助けられる場所にいる。
いい師匠っぷりだな。単なるスケベ爺じゃないってことか。
ミラはたっぷり五タンク分牛乳を注いだ。
バットの中で牛乳がタプタプと揺れている。
「これをまずは低温殺菌するのよ。うちは六十三度で三十分」
ミラがホースに繋がったバルブを開けると、小さくシューと音がしてきた。
「蒸気?」
「そうよ」
固定式の温度計を鍋の端から突っ込むと、ミラは自分の身長程の木べらで牛乳を掻きまわし始めた。
そのまま三十分、温度計とにらめっこをしながら撹拌を続ける。
その間、ミラはずっと無言で作業を続けた。
そしてその間、シュタイラーはずっと、
「私がチーズ作りを知ったのは十三歳の時、当時この辺りで一番大きかった牧場で働き始めたのがきっかけで…」
ノーマとアルページュに自分のチーズ人生を語っていた。そして…
「よし、オッケー!」
ミラがやっと口を開いた時には、ノーマとアルページュの顔は完全に『無』になっていた。
「これを三十五度まで冷やして」
手慣れた動きで、蒸気を抜く。
牛乳が冷えるのを待つ間に、ミラは金属パックに入った粉ミルクのようなものを計量し始めた。
「それは乳酸菌?」
「そうよ。良く知ってるね。スターターというの。これがチーズの味を作る立役者よ!」
「なるほど、これが…」
問題点その一だ。
この乳酸菌がチーズの中で生き続けて糖やタンパク質を分解し様々な成分を生成する。つまり発酵だ。この発酵、熟成過程を経てチーズの味は形作られていくのだ。
「うちで使ってるスターターはおじいちゃんのオリジナルで、長い事研究して辿り着いた特注品なんだ」
「へえ、すごいなぁ」
「ほんとにそう思ってる?」
「思ってる思ってる!」
思ってるし、分かってる…だからこそ問題なんだ…
暫く待ってからミラは温度計を確認して、スターターを牛乳にパラパラと回し入れてから撹拌した。
「次はこれよ、レンネット」
「…レンネット?」
計量ジョッキに入った液体を、さっきのスターターと同じように牛乳に混ぜていく。
「これは牛乳を凝固させる酵素ですな。子牛の胃から抽出された物がそのルーツで、今は微生物から作られた物をほとんどの工房が使っております」
つまり、問題点その二、だな…
スターターとレンネットを混ぜた牛乳は、 やさしく撹拌されてゆっくりと固まり始めた。
「もういいかな?」
牛乳だった液体は、いまや豆腐のようなゼリー状に固まっている。
「うん、大丈夫だ」
シュタイラーの言葉に頷いたミラが取り出したのは、バトミントンのラケットみたいな器具だった。
みたいな、というのは、ヘッド部が四角だからだ。あとガットの代わりに細い針金が張ってある。
「これは近くの工房で作って貰ったミラ専用の特製カッターでね。一般的な大きなカッターだと、まだこの子は使いきれなくて」
なるほど、孫の為には労力を惜しまないという事ですね。 ジェーンと話が合いそうだ。
「この固まった部分がカード、チーズの素よ」
ミラは今までで一番真剣な顔つきで、ラケットをカードに突っ込んで、引いた。
一度端まで引くと、角度を変えてもう一度同じ工程を繰り返す。
「チーズの硬さは、このカットした粒の大きさで決まるのですよ。粒が小さければ水分量が少なく、大きければ多い。この工程でその工房のチーズの特徴が決まるので、まぁ、職人の腕の見せ所ですな」
なるほど、ミラが額に汗を浮かべる程緊張しているわけだ。
「これでいきます」
口調まで変わってきてる。
その後加熱しながら再度撹拌することで、カードはさらに水分を放出し硬くなる。
「ホエイを抜きます」
鍋の底面にあるバルブにホースを繋いで開くと、鍋から水分が抜けていく。みるみる下がる水面から白い粒状のカードの塊がその全貌を現わした。
「うん!」
満足げな顔が、上出来を教えてくれた。
「あとはカードを型に詰めて」
用意された円形の型は全部で五個。
あれだけの牛乳からこれだけしか作れないのだ。チーズ作りは効率の良いものではない。
でもだからこそ、本気で美味しい物を作るという気概が大切な仕事なのだろう。
この工房には、それが充満している。
「私が自分の工房を作ったのが三十の時で、それはもう苦労の連続でしたが…ペラペラ」
いや、一部そう感じられないところもあるにはあるが…
型に詰めたカードの上から専用の重しで蓋をしてさらにホエイを抜いていく。
無駄な水分が抜けたら、
「塩浴させるの」
工房の端にあるバスタブのような水槽に、チーズがプカプカと浮いていた。
濃度の高い塩水に浸かったチーズは塩を吸収してさらに水分を放出し、表面に皮を作る。
「今浸かっているのは昨日仕込んだ分。うちは丸一日ね」
うん、これはそう問題じゃない。
「その後が熟成」
ミラが隣の部屋へ案内してくれた。
そこが、チーズセラーだ。
ずらりと並んだ木製の棚に、所狭しとチーズが鎮座している。
「どの位熟成させるんだ?」
「最低でも四か月!」
職人さんいい顔するなぁ…
だがこれが問題点その三…
「この問題点は、ヒシャのおかげでなんとかなりそうだが…」
俺の独り言にアルページュが気付いたのか、今だ人生を語り続けているシュタイラーから逃げる様に俺の横にくると、そっと耳打ちをしてきた。
「ねぇ、これを向こうでって、正直なところ不可能なんじゃないかしら?」
あ、それを言っちゃう?




