15
森の木々を強い風が揺らしている。
「甘いいいいい!美味しいいいい!」
クレマカタラナを口にした途端、ノーマはそれまでのふくれっ面の代わりにお手本のような恵比寿顔を浮かべて、周りに感情の風を飛ばした。
ご機嫌が直ってよかった。
ひとしきり吹き抜けたノーマの感情が少し弱まるのを待って、俺はカップを手に取った。
出来立ての紅茶が、新鮮で爽やかな香りで嗅覚をくすぐる。
俺以外の人間も、風に押されていた体を一斉に動かし始め、何事も無かったかのようにお茶会は再開した。
「この甘さと同時に広がる紅茶の香り、癖になりますねえ。いやこれは早く紅茶を口にしろと言われているような…」
いい事言いますね、朽木さん。
クレマカタラナを一口食べた後にすかさず紅茶を口に運んだアルページュは、
「いい出来ね」
と満足げに微笑んだ。
その評価は自分の仕事に対してか?それともヒシャの茶葉に対してか?
「もちろん両方よ」
どうやら考えを見透かされたようだ。
肝心のヒシャは…
ひとり顔をしかめていた。
まさかお気に召さなかったのか?
いや少なくともこれが嫌いな女子中学生はいないはずだが…
ヒシャはクレマカタラナと紅茶を交互に睨みつけ、どちらも二回口にすると、スプーンを置いて、眉間に手をあてたままうな垂れてしまった。
「あの、もしかしてお気に…」
言いかけた俺を、ヒシャの掌が止めた。
「はああああああああ」
凄く深いため息だった。
「素直に向き合えばこんなものも作れるのに、ほんと…」
凄くはっきりとした独り言だった。
その後少しの間動かなかったヒシャが、やっと顔を上げた。
「めちゃくちゃ美味しいです!こんな紅茶に合うデザート、初めて食べました!」
絶賛する顔は、しかし作った笑顔だ。
「本当に?」
アルページュが目を細めている。こういう時、この娘さんは容赦ない。
「…本当に美味しいですよ。これは、この味は…」
ヒシャの笑顔が、寂し気なものに変わった。
「この世界が、捨ててしまった味ですね…」
今度のは、作った顔ではない。
「お茶のお供に、少し昔話をしましょうか」
「聞かせてください」
ヒシャの顔つきからすると、どうも長い話になりそうだ。
「そうですね、私がまだ時間保管庫を作る前の話です…」
ん?それは二千八百年以上前…
俺達って今日帰れます?
「こちらの世界にも、実は発酵した食品があったんですよ。あなたたちの世界程には沢山、しかも進んだ技術で作られていたわけではなかったですけど。例えばこの紅茶のような発酵茶や…」
一瞬、ヒシャは言葉を止めた。
視線を横に外す、迷っている。
だがすぐに、視線を俺に戻した。
「お酒も…ありましたよ」
「えええ?」
その言葉にノーマは相当驚いたようだ。
その証拠に、口直前まで迫っているスプーンが止まっている。これは初めて見た。
「驚かせてごめんなさい。でもそうなんです。発酵した果実を原料としたお酒があって。人々はその頃それを確かに嗜んでいました」
俺は驚かなかった。
腐敗が存在する以上、それは想像がついた。
「私が十歳の時です。世界を深刻な食糧危機が襲いました」
ヒシャはカップの縁を指でなぞった。
「食料危機?不作とか?」
「いえ、腐廃です」
「は?腐敗?どういう事ですか?」
「穀物、果実、肉、とにかく人間が食べ物と認識すると、その瞬間からそれが腐りはじめる。それもすごい速度で。どんな食べ物も半日と持ちません。そういう危機が全世界で巻き起こったのです。原因は何だと思います?」
「そんなバカな話があるのか?そんなのそれこそ魔法みたいな…」
ヒシャ以外の全員が、はっとなった。
「そうです。原因は魔法の暴走でした。当時一番大きな魔法教会の修道士が、食堂の食べ残しを処理しようとして作った魔法、これが暴走したんです。ほんとバカな話ですよね」
「でも魔法なら打消しの魔法とかで対策できなかったんですか?」
「これは後で聞いたんですが、魔法を暴走させた修道士が直後に自殺してしまい、魔法の詳細が分からなくなってしまったそうです。それで結局魔法の自然消滅を待つしかなかったんです。唯一の対抗手段は、結界魔法を張った土地に逃げ込む事位です。それでもそんなに広い範囲の結界魔法など張れるわけじゃないので、そうですね、せいぜい森の一部くらいです。私は私の両親が作ったこの森の結界に一人押し込まれるように入れられて…」
「一人?じゃあご両親は?」
「二人とも名うての魔法使いでしたから。暴走と、それと同時に起こった食料の奪いあいを止める為に残りました。それ以来、会っていません」
「そんな…」
ノーマの目から涙が零れ落ちた。
「すごい苦労したんだねえ…」
朽木の目からも涙が零れ落ちていた。
「それから世界がどうなったのか私は見ていません。幸いなことにこの森はとても豊かな森だったので生活にはそれほど困りませんでした。そして、四年かけて時間保管庫を完成させて外にでてみると…」
ヒシャはスプーンを残ったカラメルに押し当てた。
小さく、クシャリと音を立てて、カラメルは割れた。
「世界はほぼ壊滅してました。結界で守られたわずかな土地でかろうじて命を繋いでいた人々がほんの一握り。あとは…」
ヒシャがゆっくりと首を横に振った。
「暴走した魔法の効力はその頃にはかなり弱まっていました。それでも食べ物は一日たてば腐り始めました。私は残った人々と時間保管庫をたくさん作って、食べ物を守ったんです。それで初めて結界の外でも生活が成り立つようになって…」
スプーンに乗ったカラメルとクリームを慈しむように眺めてから、ヒシャはそれを口に運んだ。
「美味しい」と呟く。
「そしてこの世界は二度と魔法が暴走しないように厳しく管理する仕組みを作り始め、そして食べ物が腐る、という事実から目を背け始めるようになった…てところですね…」
なるほど、そういう事か…
「でもお…」
アルページュが人差し指を唇にあてた。
「あなたはそれを憂いている様に見えるんですけど?」
ヒシャは一瞬困ったような顔を浮かべたが、すぐに小さく頷いた。
「魔法も食べ物も、もっと自由であって欲しい、と思うんですよね。私は結局、好きだった紅茶を自分で作るようになってしまった。どうしても飲みたくて。そういう気持ちって、本当は無理矢理抑え込んじゃダメなんですよね。確かに過ちは過ちなんですけど、ただそこから逃げて目を背けるんじゃなくて、もっといい方法があるんじゃないのかなって。変わる道はあるんじゃないかなって。二千八百年も放っておいた私が言えた義理じゃないですけどね」
自虐的な笑みには、その長い時間の思いが込められているように見えた。
「きっと大丈夫です!」
ノーマがいきなり立ちあがって叫んだ。
「私達転移竜は変わりましたよ。異世界と交流するようになりました。それで私はイオリ様と出会えたんです。美味しい物を沢山作って貰いました。食べるととっても嬉しいんです。食べるととっても楽しいんです。だから…」
なんだかまとまっていないが、熱意はすごい。
「美味しい物は、絶対に人を幸せにするんです!」
俺はノーマの頭を撫でた。
「すみませんが、手を貸して貰えませんか?」
「イオリさんは、何がしてみたいんですか?」
「俺はこの世界に発酵食品の美味しさと、可能性を知って貰いたいんです。魔法の力があれば、それはきっと実現可能だと思っています」
ヒシャが嬉しそうに笑った。
「わかりました。ご協力します。何でも言って下さい」
ヒシャは残ったクレマカタラナを一気にかき取ると、それを一口で頬張った。
うーん!と唸る。
「それにしてもお二人はとてもすごい料理人さんなんですね。まさかこんな美味しい物が、あんな古い小麦粉を使って出来るなんて思ってもいませんでした」
「え?」
アルページュが顔をこわばらせた。
「え?」
古い、小麦粉?
まさか…
「あ、品質なら大丈夫ですよ。最初の頃作った保管庫に入れておいた小麦ですから、当時からずっと…」
「じゃああれって…」
「二千八百年前の…小麦粉…」
アルページュが手にしていたスプーンを落とした。
ココット皿の端に僅かに残ったクリームには、歴史の色が浮かんでいた。




