⑦
念の為厨房内の冷蔵庫も確認したが、それも見事に空っぽだった。
「しまった…」
そうだった。オープンを一週間後に控えて、これからテストキッチンだの仕込みだのを始める直前だったのだ。しかも昨日まで入院していたのだから買い物も業者への発注もしているはずがない。
そこそこ絶望的な状況じゃないか。
「あの、ノーマさん…」
「あ、大丈夫です。私好き嫌いないですから!お任せで!」
うわー、いい笑顔。すこぶる上機嫌でいらっしゃる。
困った。後に引けそうにない。これは何か作らないとマジで踏みつぶされかねない。
俺は店内を見回した。何かないか?何か?
「あ…」
カウンターの端に置いてある籐籠が目に入った。中に入っているのは輸入物のロングパスタとニンニクが数個、色味付けに赤唐辛子の束だ。店内の雰囲気付けにと据えた、いわゆるディスプレーだ。
塩だの胡椒だの、基本の調味料は棚にある。
俺は棚の上のばあさんを見上げた。
やりなさい、と、微笑んでいた。
「じゃあ、簡単なものだけど」
「お願いします」
コックコートに袖を通して、エプロンを腰に巻く。もしかしたらもう二度と身に着ける事はないかもと思っていたが、やはり身が引きしまる。
鍋に水を貯めて、塩を入れる。量を遠慮しないのがコツだ。火にかけて沸騰してきたらパスタを広げて入れる。キッチンタイマーは規定時間より少し短めに設定した。
パスタを茹でている間に、食材を切る。
にんにくはみじん切りに、水で戻した赤唐辛子はそのまま輪切りに。
「楽しそうですね」
いつの間にかノーマがカウンターに移動してきていた。頬杖をついて、楽しそうにこちらを見ている。
「…そうか。まぁ、そうだな」
やはり、料理は楽しい。
フライパンにオリーブオイルとニンニク、赤唐辛子を入れて火にかける。直ぐにニンニクの香りが店内に舞い始めた。
「あー!美味しそう」
祈るように手を胸元で組むノーマを見て俄然やる気に拍車がかかった。
具材を炒め終わったタイミングでキッチンタイマーが鳴った。完璧だ。火を止める。
茹で具合を確認するためにパスタを一本口に含む。やはり味はしないが、食感だけは感じることができた。
コクリ、と絶妙に芯がある茹で上がり。
「…うん。大丈夫、だろう」
麺は湯切りせずにフライパンに移す。移したら弱火にして素早く混ぜる。そしてパスタの茹で汁を少し加えて、よ~く混ぜる。
水気がなくなってとろみのついたソースが絡むと、パスタに光が宿った。
「ダメだぁ、顔がほころぶぅ」
ダメだとか言いながら、ノーマはまったく我慢する気が見受けられない。にやにや顔でフライパンを覗きこんでいる。 そういう俺も、にやついているのが自分でも分かった。
皿に移して上から黒胡椒を挽きかければ、
「うん、完成」
「わぁあああ!」
ノーマが歓声を上げた。目がハートになっている。
おそらくこの娘さん、かなりの食いしん坊だ。
もちろん味見はしていない。しても意味がない。だが、今まで何回作ったか分からない程作ったレシピだ。経験と勘を総動員し、この基本のパスタに、料理人として渾身の力を注いだ。
ただただ、俺の作った料理でさっきの太陽のような笑顔をもう一度見てみたい、それだけだった。
「頂きまふ!」
ます、のところでもうフォークが口に入っていた。
「んーーーーーーーーーっ!!!!」
美味しい、の言葉などいらない。薄暗い店を全部照らすような笑顔。太陽が昇った。
そして次の瞬間、俺の全身に強い衝撃が叩きつけられた!
「うわ!」