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イコイは湯船から出て、湯船の脇にある背もたれ付きの大きな籐の椅子に移動した。
長い足を組み、見下ろす様に俺達を眺めてくる。
「この世界も、貴方の世界と同じよ。食料をいかに変質させずに長期保存するか、それを模索したのは、私達の先達。そしてそれを魔法技術で解決するという答えにたどり着いて、それから模索して、試行錯誤して、今の時間保管庫が生まれた。いったいいつの話だと思う?」
質問は俺に向けられた。
「いや、それは…やっぱり古い話なのか?」
「今から約二千八百年前の話よ」
「え?そんな前からあるんですか?」
ノーマが驚いた。
「この世界では保管されている食料は腐らない。腐らなければ、その過程で発酵技術が見つかるはずもないでしょう。簡単な話よ。因みにね、その世界最古の保管庫はこのビルの地下で今も当時の小麦を守り続けているわ」
確かにすごい話だ。
「これは端的な言い方だけど、魔法技術はこの世界そのものだと言ってもいいわね」
大袈裟な言い方だが、理解できる。
それはきっと歴史を作り、文化を育んできた根底にある存在なのだろう。
だからこの世界は、発酵をコントロールできない、する術を知らない。それは魔法の外側にある。発酵の中でも特にアルコールは人体に影響する度合いがとても高い存在だ。つまりお酒の存在は、魔法技術が培ってきた歴史や文化をひっくり返しかねない、そうイコイは、いや、魔法を管理する側の者達は危惧しているのだ。
それは理解できる。
だが、いろいろ納得は出来ない。
確かにこの世界にとっては危険なものかもしれないが、闇雲に嫌って、何も知らない異世界人を拘束して逮捕して、あまつさえ極刑にまで追い込みかねない、というのはあまりにも乱暴な話だ。
なんか、ちょっと腹が立ってきた。
「…余計な物を持ち込むなと言うのなら、最初からそんな無駄な文化交流なんでしなきゃいいんだよ…それこそ勝手な言い草だ…」
勢いで思わず出てしまった言葉だが、その言葉でイコイの目が大きく吊り上がった。
瞳が赤く燃え上がっている。
おいおい、ここにもゴーゴンがいるじゃないか…
「ちょっと待ってください!二人とも!」
いきなりノーマが叫びながら勢い良く立ちあがった。
だが、その勢いが良すぎた。
その類まれなる大質量の揺れは、あっさりと水着のストラップの許容範囲を打ち破り、プツリという音と共に、かろうじて抑え込んでいた水着の胸部分は、はじけ飛ぶように解放された。
「あ!」
「あら?」
「うほ!」
「え?」
飛び出して露わになったノーマの胸は、勢いのまま数回大きく揺れた後、ぷるんと元の形を保って落ち着いた。
それは恐らく一瞬の出来事だったのだが、俺にはスローモーションのように見えた。
「うぎゃああああああああああああ!!!!」
立った時の数十倍の速度でノーマがしゃがみこみ、飛び散ったお湯が俺の顔面を直撃した。
ノーマはそのまま固まっている。
「だ、大丈夫ですイオリさん。私は何も見てませんから」
朽木が俺の肩に手を置いてきたが、そのにやついた目で何を信用しろと…
「ノーマ、これ」
イコイが持ってきたバスタオルをノーマの肩にかけた。
まだノーマは固まったままだ。
いや、少し震えている、
「すまんノーマ。あの、大丈夫、一瞬だったから俺は見えてない…」
ノーマが、俺を見上げた。
その目に、涙をいっぱいに貯めて。
「…無駄なんですか?」
「え?」
「私達がやってきた事って、余計なことなんですか?」
涙と言葉が、全身に刺さった。
そうだった。ノーマ達転移竜が今までやってきた事を俺は…
俺は、俺という立場の人間が、一番言ってはいけない事を言ってしまった。
「いや、そうじゃない。ごめん、本心じゃないんだ」
思わずノーマの頭を抱え込んだ。
「…わかっています…」
ポタリと零れたのは、湯の雫ではない。
俺は、顔を上げた。
イコイも、俺達を見ている。
「そんなに不自由なものなのか?」
「え?」
「この世界でも、俺達の世界でも、培ってきた文化てのは、そんな、お互いを否定しなきゃ存在できないような、不自由なもんじゃないはずだ」
俺が一番納得できなかったのは、そこだ。
「だって、それって人が幸せになる為に苦労して編み出してきたものだろう?」
ノーマがぎゅっと抱き返してきた。
「そう、貴方はそう考えるのね…つまり、二つの相反する文化でも、共存する事が出来る、そういう事ね?」
俺は、大きく頷いた。
イコイは一度視線を外し、少し考えてから視線を戻した。
「なら、可能性を証明してちょうだい」
「証明?」
「あなた、料理人でしょう。なら魔法と発酵、両方の技術を使った料理で私を納得させてくれたら、私も考えを改めるわ」
「…ぼんどうですか?」
胸元でノーマが鼻詰まった声で言った。
「本当よ。そうしたらあなたのお姉さんも釈放しましょう。もちろんそれまでの身の安全も保証するわ。どう?いい取引でしょう?」
「イ、イオリさん」
朽木がすがるような目を向けてきた。
「分かった。いいだろう」
「良い返事ね。では条件をいくつか」
「条件?」
「簡単よ。まずあなたの世界から発酵食品を持ち込まない事。素材はすべてこちらの物を使って作ってちょうだい」
「わかった」
「え?イオリ様?」
大丈夫ですか?ノーマは心配そうにしている。
俺は笑って返した。
イコイがわざと難題を提示しているのは分かっている。
だが、イコイの目からは意地悪な色は感じられなかった。
さっきイコイは『可能性を証明しろ』と、俺に言ったのだ。
つまり、どこかに道があって、それを見つけてみろと、今、イコイは言っている。
「それともう一つ。そうね…」
「ん?」
一転してイコイの目に、とても意地悪な色が浮かんだ。
「私一人を納得させるだけじゃ面白くないわ。来月、各機関庁の若手職員を集めて勉強会を開催する予定だから、その後のパーティーを証明の場にしてもらおうかしら」
「…若手職員?」
ノーマがピクリと反応した。
「参加人数は三十人程度を予定しているわ。どなたも貴族や政府要人、文化人といった名家のご子息ばかりだから、料理にも煩いのよ。どう、ちょうどいいでしょう…」
「…ああ、わかった…」
その瞬間ポタリと零れたのは、湯の雫ではなく、ノーマの冷汗、だろう。




