⑥
「大丈夫ですか?」
前回同様、ノーマの声で、俺は意識を取り戻した。
前回同様、俺を気遣ってくれている声だ。
目を開けると、見慣れた光景が広がっていた。“Kitchen・KUDOU”の店内だ。俺は店の床に仰向けに寝転ばされていた。
前回同様、ノーマが俺を心配そうに見下ろしている。
前回同様、とてつもなく、可愛い。
だが前回と違う点があった。
ノーマの恰好が、おかしい。
首にかけたベージュの肩紐。肩から胸元にかけては真っ白い肌があらわになっていて、豊かな胸は全部が隠しきれずに布の脇からはみ出している。胸元には“Kitchen・KUDOU”の刺繍文字。
…ああなるほどな、うちのエプロンだ。
それに気づいたとき、それまでぼんやりとしていた俺の意識が強制的に全覚醒に向かった!
急いで視線を下に移さなければきっと後悔する!
「だめえ!」
ノーマの反応が一瞬俺の覚醒よりも早かった。
俺の頭は掴んだノーマの力であるべきでない方向にひねり返された。
「グワッ!」
首に激痛が走り。体ごと百八十度ひっくり返されてうつ伏せになった。危なかった。視線を移したいという強い意志の抵抗がなければ三百六十度いかれるところだった。
「…こっちを見ないで下さい」
俺の頭部を床に押し付けたまま、ノーマは小声でそう言った。
「…ふぁい。すびません…」
首がズキズキと痛い。だが、裸エプロンの全容を見損なった事の方が正直痛かった。
「他に衣服らしいものが見当たらなかったので…」
恥ずかしそうなノーマの声に、少し我に返った。
気絶した俺を放っておいてそのまま帰ってもよかったのに、ノーマはわざわざ人の姿に戻って、俺をここまで運び入れて介抱してくれていたのだ。
「…優しいな、君は」
俺はノーマになるべく視線をむけないよう(自分と戦いながら)立ち上がって、スタッフルームに向かった。
「ちょっと待っててくれ」
確かアルバイト用に用意した制服があったはずだ。もっとも雇う前に店は休業状態だが。
サイズが分からないので、段ボールごとテーブルの上に置いた。
「この部屋で着替えてくれ。箱の中に服がある」
「…ありがとうございます」
とノーマは足早にスタッフルームに駆け込んだ。
俺はノーマが部屋に入るまで、目を瞑って我慢していた。
ここしばらくで一番頑張った、そう自覚している。
コーヒーを沸かしている間に、ノーマが着替えを済ませて部屋から出てきた。
「これで、大丈夫ですか?」
「おわ!」
これは後光か?シャツにパンツスタイルのいたって地味な制服でも、ノーマが着ればこうなるのか。
「え?何か着方が間違ってますか?」
「あ、いや。そうじゃない。よく似合ってる」
「少し胸周りがきついのですが…」
なんでもっとエロメイドっぽい制服を選ばなかったのか、俺はここしばらくで、一番反省した。
テーブルに腰かけて二人でコーヒーを飲んだ。
ノーマは美味しそうに、そしてなんだかほっとしたような顔を浮かべて、
「美味しいですねぇ」
そうコーヒーカップに向かって呟いた。
そういえばエルブジの時もそうだったが、異世界でもコーヒーは普段から飲まれているのか?世界間交流はどのくらい進んでいるのだろうか。そう思って、俺は小さく首を横に振った。
もう、俺には関係のない話なのだ。
「とても落ち着くお店ですね」
ほうと息を吐きながら、ノーマが小さく笑った。俺もその笑顔に心が和らいだ。
不思議なものだ。開店さえできていない俺の店で、異世界のとんでもない美少女がコーヒーを飲みながらくつろいでいる。
しかも彼女は「竜」なのだ。
「ノーマの一族は、その、みんな転移竜なのか?…」
ノーマは俺の質問に反応しなかった。よそ見をしている。
「お優しい、お顔の方ですね」
ノーマの視線は、カウンターの向こう、資材棚の一番上に置いた写真立てに注がれていた。
「ああ、死んだ俺のばあちゃんだ」
「わざわざ飾るだなんて、おばあさまの事がお好きだったんですね」
そう言われると、少し照れくさい。
「好きというか、俺の料理の師匠みたいなもんで。まぁ、料理研究家、と言っても近所の主婦を集めて家庭料理教室を開いてた程度のものなんだけどな。俺は親が共働きで忙しかったから、小さい頃からばあちゃん子で。それで自然と料理を手伝う様になって、ばあちゃんも色々と教えてくれたから、それでそのまま料理人になった感じだからさ…」
ペラペラと喋ったのは照れ隠しだ。
「まぁ、なんだ。だから、その、せっかくだから、店を、見せたくて…」
ノーマは照れて俯いた俺に向かってずい、と身を乗り出してきた。
「素敵です!」
笑顔が眩しい。太陽かなにかか?これは?
「イオリ様、私お腹が空きました」
突然ノーマが切り出してきた。
「はい?」
「ですから、お腹が空きました。何か作って下さい」
「え?何かって何を?」
「あなた、料理人ですよね?」
素っ頓狂な返事ばかりの俺をノーマがジト目で睨み返してきた。
「ああ、はい。わ、わかりました」
勢いに押された感じで俺はカウンターキッチンに立った。ものの、プランが何もない。
「そうだなぁ…」
とりあえずと台下冷蔵庫の扉を開けて、俺は絶句した。
冷蔵庫の中は、見事なまでに空っぽだった。