⑤
エルブジの落胆と困惑ぶりは見事だった。顔は真っ青を超えて紫色に変化した。涙を浮かべ、いや流れ出した涙をハンカチで吹きながら、
「なぜですか?なぜそのような」
と、文字通り俺に泣きついてきた。
「いや、落ち着いて」
そう言いながらエルブジを引き離すと、俺は精一杯に真面目な顔を作った。
「政治の道具として料理を作るつもりはない、という事だ」
実のところは、精一杯のカッコつけだった。
味を感じない体では料理なんか作れない、という不安の方が理由としては大きいのだが、それは口に出したくない。
もちろん嘘をついたわけではない。政治家の談合用の料理を作りたくない、というのも気が進まない理由の一つだった。実際修行中には、そういう場の料理を作ったことが何度もあった。そしてその度に落胆したものだ。
そういう場では、料理は会の主役ではない。
自分の話を聞かせたくて料理に手を付けず、冷めたスープを一口だけ啜って顔を濁す者。おべっかに夢中で給仕の説明を聞かず、別皿で用意したソースを付けずに肉を食べて、なんだこれは、味が薄いと怒り出す者。そんなのは挙げたらキリがない。
丹精込めた料理をないがしろにされた上に、皿に残された料理を処分しなければならない。
仕事だと割り切って出来る料理人もいるだろう。もしかしたら先代の料理人というのはそういう人だったのかもしれない。だが、
「申し訳ないが、俺には無理だ」
「…そんな…」
エルブジががっくりと肩を落とした。
ノーマと目が合った。
彼女は俺を睨みつけている。
「でもそんなの…」
「…わかりました」
何かを言おうとしたノーマの声を、エルブジが遮った。
「確かにお気が進まない状態では良い料理を作ることなどできないでしょう」
「エルブジ様…」
ノーマは不服そうだったが、エルブジに手を上げて制されると、あきらめたのかプイと横を向いてしまった。
しかし、怒った顔さえ可愛い。
正直このままノーマと会えなくなるのが最大の心残りだが、それとこれとは話が別だ。
歯を食いしばって矜持を貫こう…
俺は下唇を嚙みしめた。
「そんなお辛そうなお顔をされるとは、余程私達の頼みにご不快な思いをされたのでしょう」
「あ、いや、そうでは…」
「大変申し訳ございませんでした」
深々と下げた頭を上げると、エルブジはノーマの肩に手を置いた。
「ノーマ、そういう事です。イオリ様をお送りして下さい」
最初は俯いて返事をしなかったノーマだが、少しして感情のない声で、
「かしこまりました」
と小さく頷いた。
ノーマは「ご案内します」と呟くように言うと、踵を返して扉に向かって歩き出した。
俺はエルブジに頭を下げノーマに続いて部屋を後にした。
気まずい空気のままノーマの後についていくと、廊下のドアを抜けて中庭に出た。かなり広い丸い中庭だ。不思議な事に灌木や花壇は周辺に申し訳程度に配置されているだけで、あとは何もない。石畳の広い空間が広がっているだけだ。中庭というよりは何かの集会場か、そんな雰囲気だ。
「…後ろを向いて頂けますか」
やっと話してくれたノーマの声は、固く厳しかった。そして俺にはその言葉の意味が理解できなかった。
背中のボタンを一つ外したところで、ノーマは振り返って本格的に俺を睨みつけてきた。
「後ろを、向けと、言ってるんです!」
「は、はい!すみません!」
俺は全速力で回れ右をした。
すぐに後ろで、絹の擦れる音がした。
「絶対に振り向かないで下さい。振り向いたら踏みつぶします」
背後で何が起こっているのか、俺はやっと理解した。だが、何故かは理解できない。
何故、ノーマは服を脱いでいるんだ?
振り向きたい衝動を必死に抑える俺に、後ろから強い風が吹きつけてきた。危うく吹き飛ばされそうなくらいだ。だが、吹き飛ばされる前に風は止んだ。
そして、その代わりに記憶にある、温かい空気が俺の首にまとわりついてきた。
『…どうぞ』
相変わらず固いノーマの口調。だがそれは声としてではなく、俺の頭の中に直接流れ込んできた。
「…まさか…」
恐る恐る振り返る。
そして、恐る恐る、見上げた。
夜空をバックに俺を見下ろしているのは、全長三十メートル程の、竜、だった。
細長い体躯に細長い手足、想像していた姿よりもずっとスリムで洗練された姿の竜だ。
なるほど、これならうちの前の路地にも入れる…か、と訳のわからない感想を思い浮かべているうちに、竜が口を開けた。
そしてそのまま、俺の頭上にあのバカでかい口腔が迫ってきた。
「!」
ろくに絶句する暇もなく、転移竜…ノーマは俺をバックリと咥え込んだ。
そうだ、エルブジは『お送りして下さい』とノーマに告げたのだ。
つまり、そういう事か。
納得しながら、俺はまた気を失った。