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低能な料理番  作者: ミツル
第三章 帝国のアイドル

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22

 パドーレの生息する海域までは『何事も無ければ』明日の昼には到着する予定らしい。


 海は驚くほど穏やかだった。

 フリオが言うような流れがある海なら、うねりや高波もあるだろうと予測していたのだが、外海に出てもまるで湖のような静かな水面が続いた。

 

 本当にこの世界は穏やかだな…

 

 なのに何故…


「お姉さま、大丈夫ですか?」 

 

 ノーマが心配そうに水に浸したタオルを紗友里の額に当てがった。


「ゔゔゔ…」

 

 ソファーに横たわった紗友里は喉が潰れたカエルのような唸り声を上げている。


「なんで秒で船酔いダウンしてるんだよ!」


「ゔ!」


 紗友里が俺を睨み返してきたが、目力はいつもの百分の一も感じられなかった。


「大丈夫ですよイオリさん。毎度のことですから。二時間もすれば慣れてケロッとしますんで」

  

 自社の社長が死にそうな表情をしているというのに、朽木はそ知らぬ顔で寛いでいる。

 今の紗友里の様子からそれは到底信じられないが、おかげでアルページュVS紗友里の修羅場を避けられたのは幸いだった。

 少なくとも二時間は、だが。


「それにしても姉ちゃんがこんなに釣りにハマってるとはなぁ」


 俺はキャビンの後部に山と積まれた釣具を眺めた。


「いやぁ、俺は社長に引き込まれてそのままハマったくちですけどね。元は『あれ』の影響ですよ」

「…ああ、なるほど…」


「ゔゔゔゔゔ!」


 要らんことを!と言いたげに紗友里が唸りながら起き上がろうとした。


「ダメです動いちゃ!余計気分が…」


 とっさにノーマが紗友里の肩を抑えた。


「ゔゔゔ……」


 紗友里が再度唸ったのは、気分が悪くなったからか、それともがっちりとホールドされた両肩の痛みからか…


 たまには大人しくしてもらうのもアリだな。


 朽木が言う『あれ』というのは紗友里の元旦那の事だ。

 紗友里が『社長』と呼ばれているのは、その元旦那からせしめた資産のおかげなわけだが、実は朽木も元々はその元旦那の部下だった男だ。

 二人が『あれ』呼ばわりするのにはそれなりの訳があるのだろうが、俺が知る限りではそんなに酷い人物ではなかった。

 俺が以前釣りに連れて行ってもらった人物というのも、実はその元旦那だ。

 離婚の理由どころか、結婚時代の事さえ、未だに紗友里は口に出そうとはしない。


「イオリ様、ちょっと上がってきてもらえますか?アル…キャプテンがお呼びです」


 フライブリッジからマイドが声をかけてきた。


「…ここは大丈夫です。どうぞ遠慮なく」

とノーマが一ミリも振り返らずに、まったく抑揚のない声で言った。


 若干の寒気を感じながらフライブリッジに登ると、キャプテンシートに座るアルページュはマイドと何やら相談中だった。


「うーん、困ったわねぇ」

「でもキャプテン、このままだとマジでヤバいですよ」


 マイドは片手に細い糸をつなげた飛ぶ姿の鳥のミニチュアをぶら下げていた。

 

 今回の航行にはフリオもガガンも同行は出来ない。そこで航海士として白羽の矢が立ったのがマイドだった。これも一応は皇室案件の仕事だ。とすれば、今現在ベルカントの街を離れて皇室の近衛兵団に所属しているマイドなら、同行しても便宜上は問題ない。


「どうしたんだ?」

「あ、イオリさん。これなんですが…」


 マイドはぶら下げた鳥を俺の目線まで持ち上げた。

 鳥は一瞬ふらついたが、直ぐにまっすぐ前方を向いてピタリと動かなくなった。


「これは?」

「これはコルペーヌって鳥で、予め目的地を教えとけば、こうやってその方向を絶えず向いてくれる、航海には必需品の…」


 それはミニチュアではなく、小さな本物の鳥だった。よく見ると、ごくたまに瞬きをしている。


 生きたコンパス、てところか。


「この子って最短距離を教えてくれてるんだけど、その進行方向にちょっと問題があるらしくてね」

「まさか、とんでもないモンスターが出るとか?クラーケンみたいな!」

「いえ、そんなのはいません」

「じゃあ海賊団が…」

「この世界には、そんなのいないわよ」


 平和過ぎるだろ、異世界…


「このまま進むと、ちょうど今時期のクダコーレにぶち当たっちゃうんですよ」


 クダコーレ…うーん、ちょっと初耳だな…


 マイドがテーブルの上に海図を広げた。


「これなんですけどね…」


 マイドが示した海上部分には、陸地が岬状に張り出した先端にくっつくように、大きな赤丸が描かれている。

 縮尺は曖昧だが、その赤丸がかなりデカい事はなんとなくわかった。


「運悪く、今ちょうどここに来てるんですよ」

「ここに来てるって、移動するのか?じゃあバカでかい亀とか?まあバカでかい農園が空に浮かんでるんだ、今更驚きは…」

「いえ、生き物じゃなくて盆地です」

「ん?」


 ちょっと待って、頭が追い付かない…


「だから盆地ですって」

「いやだからじゃなくて!平然と言うなよ。ここって海だろう?」

「理解出来ないのは分かるけど、そういうものなのよ。つまりねぇ」


 アルページュが分かりやすく説明してくれた。


 要は、海が広範囲に渡って周辺の水面よりも低く落ち込んでお盆状になっている場所、それがクダコーレと呼ばれる『地形』で、それは世界中の海を周回している、らしい。で、今それが、俺達の進行方向に鎮座している、らしい。


「正確に言うと、盆地じゃなくて盆海?てところかしら」


 なるほど分かった。分かったが、理解できたわけではない…


「それで問題は、ここを突っ切るとなると、入口と出口でかなりの高低差を通らないといけないんです」

「なるほど、下り坂と登り坂、というわけか」


 今度は理解できた。


「その高低差がなんと三百メートル。ほぼ一気に落ちてるらしいわぁ」

「ほぼ滝じゃないか!」


 なんでアルページュは楽しそうに笑っていられるんだ…


「まぁ、迂回するしかないわねぇ…」

「はい」


 俺は再度地図の赤丸を見た。やっぱりかなり広範囲に思えるが…


「迂回したら、どのくらい航程が増えるんだ」

「そうですね、けっこう船足が早いから、ここをこう通って…」


 マイドが指を使って迂回路の距離を測った。


「ざっと十日って所ですね」

「どんだけデカいんだよ!」

 思わず叫んだ。


 いや、それは無理だ。皇帝とフランチェスカの会談まであと一週間。そもそもがギリギリの日程なのだ。


「どうすれば…」


「そうねぇ…」


 呆然とする俺とは対照的に、アルページュは相変わらず呑気この上ない口調だ。


「じゃあ、ここを通ろうかしら」

 そう言ってアルページュが指さしたのは、クダコーレに向かって伸びる岬の先端部だった。


 あなた何を言ってらっしゃるんですか?


「海が通れないのなら、陸を通ればいいじゃない」


 アルページュの背後に、お花畑が浮かんで見えた。


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