③
「転移酔いだと思います。直ぐに冷たい水を用意します」
うっすらと戻ってきた俺の意識に、若い娘の声が流れ込んできた。
「すまないが頼む」
エルブジの返事が完全に終わる前にパタパタと足早な靴の音が響いた。それはすぐに帰ってきて、俺の頬に冷たい布があてがわれた。そのまま優しく顔の汗を拭ってくれている。
「大丈夫でしょうか?」
心配してくれているようだ。
うっすらと目を開けてみた。覗き込むエルブジの顔が見えた。そしてもう一人、かなり近い位置に心配そうにのぞき込んでいるもう一つの顔があった。それを確認して、俺は慌てて目を閉じた。
その娘が見たこともないくらい、とにかくめちゃくちゃ可愛かったのだ。
これ以上至近距離で見ていると緊張でさらに汗が噴き出るかもしれない、そう判断しての対応だった。
「エルブジ様、今少し目を開けられたような…」
やばい、バレた。数秒悩んで、俺は覚悟を決めた。
「あの、もう大丈夫です」
「おお!気がつかれましたか!」
エルブジの声に、俺は目をはっきりと開けて応えた。視線はエルブジに向けた。
「うわぁ!よかったです!」
娘が顔をクシャクシャに崩して、本気の安堵の表情を浮かべた。
その顔を見た瞬間、俺の中に安堵の感情が流れ込んできた、そう感じる程の笑顔だった。
ヤバい、持っていかれる。
いや、かなりの部分が持っていかれた。
「すみません。ご迷惑をおかけしたみたいで」
とても元気で誠実な響きを持つ声だ。
娘は火照った俺の頬を構わず拭き続けてくれている。
「異世界の方にとって転移はお体の負担が大きいですから…」
「ああ、そうなんですか…ん?…異世界?ん???」
「ん?」俺の疑問に娘が首を傾げた。
「ん?」俺も首を傾げた。
「ん?」
娘の表情が突然変わった。厳しい顔をエルブジに向ける。
「まさか、何の説明もしてないんですか?」
「いや、急いでいたものだから…」
「そういう問題じゃありません!」
娘の迫力にエルブジが慌てて、
「まぁまぁ、それよりも、まずは自己紹介を」
とその場を取り繕った。
「あ」
しまった、という表情を一瞬浮かべた後、娘は俺に向き直った。
「ノーマと申します。このお城で働いています。突然の失礼をお許しください」
ノーマは手を前で組んで、丁寧なお辞儀をした。
「…城?」
俺は改めて部屋を見渡した。
広い部屋だ。
内装、調度、床、天井、そして今俺が寝ているベッド、すべてがヨーロッパあたりの、しかも古い時代のものに酷似している。なにか微妙に違っているような気もするが、専門家ではないのでそこは分からない。
「ここは城なのか…」
城が普通に生活の場ということか。そして、さっきノーマと見つめて首を傾げあった事。
「異世界、って…」
「ご説明が遅くなり申し訳ありません」
今度はエルブジが頭を下げた。
「ここは、イオリ様が住んでいる世界とは違う世界。いわゆる異世界、でございます」
「……いや、まさか…」
冗談だろ、そう考えて、しかしそれを否定した。
今見ている光景、ここに連れてこられた経緯、確かに俺が知っている世界と異なるのは一目瞭然だ。
夢じゃないか?それも否定した。こんな鮮明な夢を見た事などない。
何よりも…
俺はノーマをもう一度まじまじと見つめた。
ノーマの可愛さを夢で片付けるのは惜しい、実に惜しい。
俺は、納得した。せざるを得えなかった。
「ここはディスフル帝国の皇帝であるダカン・ロカ様の居城、ロカ城のゲストルームでございまして…」
それからエルブジが事細かくこの世界について教えてくれた。
この世界には国が十個あって、ディスフル帝国は上から二番目の大国らしい。とても平和な国で、建国から実に四百年、戦争らしい戦争は経験したことがない。
「主な産業は農業で、世界の食糧庫、とまで呼ばれてる豊かな国なんですよ!」
ノーマが得意げに語った。
「私の一族も古くから農業をしています!今は主に葡萄を栽培しているのですが、収穫とか大変な時期はお休みを頂いてよく手伝っているんです…」
ノーマの『いい娘さん』スキルが追加された。
「そうか…なるほど」
「ご納得いただけましたか」
エルブジが安堵の表情を浮かべた。
「大体わかりました。ここはとてもいい国で、そしてあなた達も、悪い人ではない」
「おお、ありがとうございます」
「で?」
「?…と、申されますと?」
「ん~だから、なんでこんな平和な世界に、俺のような異世界の、しかも辺境の片田舎のコックを連れてくる必要があったんです?確か帝国の為に、とか言っていたような?」
「…ええ、そうですね。ごもっともです…」
一度言葉を呑んだエルブジが、ノーマと顔を見合わせた。