②
老執事は白手袋を胸に当てて、「敬意」の二文字を示していた。
「初めまして。クドウ・イオリ様」
深く、かつ丁寧なお辞儀をする。落ち着いた声質も、その姿に相応しい。
「私、ディスフル帝国皇帝、ダカン・ロカ様にお仕えする、エルブジと申す者でございます。突然のご訪問、どうかお許しください」
さらに深く頭を下げて、それからゆっくりと頭を上げる。執事の教育用に動画を撮っておきたいクオリティーだ。
しかし、俺にはその言葉に理解できる部分がなかった。
ディスフル帝国?ダカン・ロカ?完全に初耳だ。
「すみませんが、人違い…」
言いかけてやめた。そうだ、この執事、エルブジはさっき確かに俺の名前を呼んだ。
「驚かれるのもしかたありません。お時間に差し支えなければ、私の話を少し聞いていただけませんか?」
「いや、まぁ、はぁ…」
ものすごく柔和なエルブジの笑顔に、俺は屈することになった。
カウンターテーブルに案内して、俺がコーヒーを淹れている間、エルブジは店内の様子を楽しそうに見渡していた。時たま「なるほど」とか「素晴らしい」とか感嘆の言葉を漏らしている。
「そんなに上等な店ではないですよ。調度も中古の安物ばかりですから」
コーヒーを差し出すと、エルブジはまた深くお辞儀した。
「いえ、高級であれば良いというものではありません。調度の趣味や手入れの具合を見れば、店主の素晴らしさが良くわかります」
「やめてください」
照れ隠しなどではなく、本気の否定だ。なんせこちらは味が判らないシェフなのだ。
コーヒーを一口飲んで、エルブジは「おお、これは…」と口にした。大袈裟に賞賛しているのではなく、どちらかというと懐かしんでいるように見えた。コーヒーを飲み干すとエルブジは椅子から立ちあがり、俺に向かって真摯な視線を向けてきた。
「不躾なお願いとは思いますが、貴方の料理の腕を、ディスフル帝国の為にふるってはいただけないでしょうか?」
「え?」
スカウト?いやしかしこちらはやっと店を持った(開店はしていないが)ばかりの無名のシェフだぞ?しかも味が分からない…いや、それはエルブジが知らない事か…いやそれにしても…
「あの、何を言ってらっしゃるのかわからないのですが…」
「そうですね、そうでしょう!では、まずはご同行願えませんか?」
声のトーンが少し高い。どうもエルブジはテンションが上がっていらっしゃるように見える。
「ご一緒ってどこに?」
「もちろん我が国です!」
「はい?いや、店もあるし…」
「それほどお時間はとらせません。」
「え?何言って?それに俺今パスポート切れてるし」
「そんなものはいりません!さぁ!」
エルブジはいきなり俺の腕を掴んできた。そしてさっきまでの丁寧さとは裏腹に、強引に俺を引っ張り始めた。
「え?ちょっと待って、え?」
想像以上にエルブジの力は強かった。細身の体からは想像できない程の力に俺はひきずられるようにあっという間にドアの外に引っ張り出された。
そして、
「うわあああああああああああああ!!!!!!!!」
悲鳴を上げた。
俺の目の前に、ドアよりもでかい、開いた真っ赤な口腔が待ち構えていた。上下にずらりと真っ白い牙が並んでいて、一瞬ワニの口を思い出したが、大きさがケタ違い過ぎる。
「さぁ、イオリ様、さぁ」
「なにがどこへさぁなの?」
俺の涙声にも構わずエルブジは俺の背中をドンッと突き飛ばすように押した。
「あ、あ?」
押されて、牙に足が引っ掛かり、俺は転倒しながら口腔内につっぷした。意外なことにネバネバしていない。
「いきなり何するんで…」
体を反転させて文句を言おうとしたが、閉まり始めた口腔に絶句してしまい、そして俺は直ぐに闇に包まれた。
「ご安心ください」
エルブジのその言葉を最後に、俺は気を失った。