①
白山院長に見送られて、俺は病院を後にした。
夕暮れの町は、家路につく人達で賑わっている。
俺も重い足を引きずるようにして、家へと向かう。
俺は二週間入院して、今日めでたく退院することができた。術後の経過は良く、あとは何度かの通院でいいそうだ。
だが、白山の言った通り俺の味覚が戻ることはなかった。
病室で出された食事は、どれもこれも見事なまでに無味だった。病院側も色々と気をつかってくれたようで、病院食にしては味が濃い、カレーだの、オムライスだの、そういう献立を提供してくれたのだが、残念ながら俺のこめかみをピクつかせる材料にしかならなかった。
味覚を失って気が付いたのは、味がない食事程不味いものはない。いや、実際には何も感じていないので不味いとさえも感じてないのだが、口内の触覚は残っているので咀嚼して飲み込むまでの間は食べ物の感触だけが口の中に広がっている。
それはもう、苦痛でしかない。
味がするのであれば砂や砂利の方がまだマシかも、とさえ思えた。
そして味を感じない事に対する絶望で精神的に落ち込む。
その繰り返しだった。
商店街に入った。夕食の買い物客で人通りが多い。
お総菜屋の煮物の醤油、肉屋の揚げ物、そんな匂いが混ざって漂ってきた。
厄介な事に嗅覚は生きていて、さらに厄介な事に、味覚がないとそれが『美味しそうな匂い』とは感じられなくなるようだ。もちろん、あの料理の匂いだ、と理解はできるのだが、まるで数式の答えを出すかのように冷静に解答を考える、そんな感覚だった。
感動とか、喜びはない。
商店街の端っこ、大通りからひとつ手前の路地を左に折れて五十メートル程進んだ突き当り、そこが俺の家、いや、俺の城になるはずだった場所だ。
お洒落な木彫りの吊り看板を見上げると、自然と涙が零れてきた。
『Kitchen・KUDOU』
俺がオーナーシェフとして経営する、レストランだ。
オープンを一週間後に控えていた、だが…
全二十二席のこじんまりとした店で、高校を卒業して十年、いくつかの店で修業をしながらコツコツと貯めてきた開店資金を全てつぎ込んで、やっと実現した俺の夢…だった。
このままではこの場で号泣してしまいそうだったので、俺は急いで店に入った。
オープンキッチン前にはカウンター、そしてお気に入りのビンテージ風チェア、俺が一番こだわった部分だ。そこに座り込んで、天井を見上げた。こうすれば、涙も零れないだろう。シミ一つない真新しい天井のクロスを見ていると、涙の代わりに、なぜか笑いが込み上げてきた。
「…ははは…」
味を感じないコック、なんだそのトンチのきいた存在は。
開店せずに閉店かぁ…
店を開ける気はなかった。いままで培ってきた経験でレシピ通りの料理は作れるだろう。だが、料理はそんなに単純なものじゃない。素材は大きさや鮮度が日ごと変化するし、言えば天候だって感じる味に影響する。お客様は機械じゃない。変化に対応してその日その場所で最も美味しい料理をお客様の前に出す、その為には絶対に必要な作業、それが…
「…味見なんだよなぁ」
泣き言だ。だが味見なしで料理を食わして金をとる程、俺は不誠実な人間ではないのだ。
「…くそう!」
やっぱり流れ出してきた涙を腕で拭おうとしたその時、カラン…とドアの呼び鈴が鳴った。
「…ずびばぜんが、いばびせはへいてんじゅうでじて…」
情けない程の鼻声で応えながら振り返ると、入り口に、その人物は立っていた。
それは、執事だった。
それはもう、見事なまでの老執事だった。