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ブドウ果汁を三壺分持って、ヒシャの元へ帰った。
普通ならここから二週間程度発酵を進めて、樽詰めをして長期熟成に入る。
実際ポラーゴ村に残してきた分は、通常通り時間と手間をかけてじっくりと育てていくようティムロー達に言ってきたが、こっちはそうはいかない。
「どのくらいの速度でいきますか?」
用意してくれていたワイン専用発酵部屋の天井に魔法陣を書き込みながら、ヒシャが聞いてきた。
「そうだな、一日一週間、その位で頼む」
「熟成用の樽はいつできるのかしら?」
「明日には届くはずだ」
樽の製作は、村に頼んでおいた。ティムロー達の技術なら造作もない事だ。
「なら、届くころには丁度いいわね」
「すごく楽しみですね!」
アルページュもノーマも、すごく嬉しそうだ。
特にノーマは、自分が作った果汁をまるで我が子のように慈しんでいる。
「いい子に育つといいですね」
「ああ、そうだな…」
ポラーゴ村に残してきたラサイも同じような感じだった。
『私は暫くここでワイン作りを手伝っていくね!』
そう言ったラサイは、アトミクスの腕に手を回して寄り添っていた。
『あ、ああ、そうなのね。…わかったあ』
複雑そうなノーマの顔が忘れられない。
ティムローがそっと教えてくれた話だが、去年セプティ村を訪れた際に、ラサイとアトミクスは(ラサイからのアプローチの結果)まあ、そういう事になっていたらしい。
『まぁ…アトミクスだけじゃないんだけどな…』
そうぼやいたティムローの困り顔と、何人かの若者が浮かべていた嫉妬の色がとても気にかかったが、まぁそこはプライベートな問題なので首を突っ込まないのが良策だ。
ラサイ、ほどほどにな…
「イオリ!これを見て!」
少し重くなっていた気分を、元気な声が吹き飛ばしてくれた。
ホールチーズを重そうに抱えたミラが入ってきた。
「出来たのか?」
「ふふん!」
ミラが得意げにテーブルにチーズを載せた。
ズッシリとした重量感。艶のある表面、すごく美味しそうだ。
「いい、見ててよ!」
さらに得意げに、ミラがナイフでチーズを三角に切り出した。
「あ!」
「チーズアイ…」
アルページュの言葉通り、切り出したチーズの断面には大小様々な大きさの丸い穴がいくつも開いていた。あの、猫とネズミのアニメに出てくるような、ザ・チーズがそこにあった。
「なんですかこの穴?まさか虫食い?」
「そうじゃないよノーマ。これはチーズアイと言ってな、チーズが熟成する時に発生する炭酸ガスが…」
「…?ランタンバス?」
「…つまりな、すごく美味しくなった証拠だ」
「そうなんですか!うわぁ」
よかった。分かってもらえた。
アルページュがチーズを摘み上げて、すうっと香りを確かめた。
「発酵したミルクの甘い香り。かすかにナッツの香りも…エメンタールだわ」
第二の故郷の香りに、うっとりと目を細める。
「まぁここで作ったチーズだから、正確にはタイプ、だけど。他にもいろいろ試してんだよ。白カビも、青カビも見つけたし!」
小さなチーズ職人は、心底楽しそうだ。
「美味しそうだねこれ!ねえ、一口いい?」
それまで黙って見学していたリドが、我慢できずに身を乗り出してきた。
ヒシャの家にはリドも一緒についてきていた。
パティシエとして興味があるのは当然だ、と思っていたのだが、俺には一つ気にかかっている事があった。
「うわあ!なにこれ!凄い美味しい!」
「ずるいリド!私にも!」
「是非皇帝のデザートに使ってみてよ!」
そのミラの言葉に、はしゃいでいたリドの横顔に一瞬影が差したのを、俺は見逃さなかった。
「リド、城の仕事はいいのか?」
びくり、とリドが動きを止めた。
「皇帝が留守にしている、とか言ってたけど、何日も空けるわけじゃないだろう。そろそろ帰った方が…」
振り返ったリドのとことん気まずそうな態度に、言葉を止めた。
「いやあ、その事なんだけど…」
リドは顔を伏せて、頭を掻いた。
「お城ね…クビになっちゃった」
上げた顔には、無理矢理作った笑顔が浮かんでいた。




