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「何してんだ、と聞いてるんだ」
続けて放たれた物凄くドスの効いた女の声が、さらに心身を揺らした。
声は入り口の方から襲ってくる。カウンターの中にいる俺からは声の主が見えない。幸いだ。だがノーマの位置からは、声の主は見ようと思えば見える。
ノーマの視線が少し、横にずれた。
駄目だ!ノーマ!見ちゃだめだ!
俺の心の叫びは届かず、ノーマが恐る恐る声の方を向いた。
「ヒイッ!」
ノーマが逃げるように、いや実際に瞬間移動並みのダッシュでカウンターの中に逃げ込んできた。俺の背後に隠れてコック服の背中をぎゅっと握りしめる。瞬時に無意識で助けを求めたのだろう。
心底怯えている。
竜が。
そういう俺も、心底怯えていた。
見たくないなぁ、見ないとダメか、ダメなのか…
俺にはノーマが見たモノがなんなのか分かっていた。(者ではなく、モノだ)
そこに立っているモノが、今どんな形相でこっちを見ているのかも…
意を決して、ノーマをカウンターの中に残し、店内に出た。
入り口に目をゆっくりと向ける。
それは、仁王立ちでこちらを睨みつけていた。その瞳は赤銅色に燃えている。夜から生まれたような黒いパンツスーツ姿。長い髪が開けっぱなしのドアからの風で揺れている。それはまるで意思を持っているかのように蠢いていた。
怒っているな。いやぁ激怒クラスだな。
「…あ、あれは、もしかしてゴ、ゴーゴンですか?」
そうだな、近い。いやむしろ正解かも。
女はカツカツとヒールの音を響かせながらものすごい勢いでこちらに向かってくると、その長いリーチで俺の胸倉を掴みそのまま頭上まで持ち上げた。
浮遊感がスゴイ。
「ごぉらイオリ!お前この非常時に何女といちゃついてやがるんだ!」
「や、やめて!イオリ様を殺さないで!」
「ご、誤解だよ、姉ちゃん!」
「へ?」
俺の言葉に、ノーマが素っ頓狂な声を上げた。
「え?」
俺と女の顔を交互に見返す。
「えーーーーーーーーーーーー⁉」
「うるっさいなぁ」
女はまだ赤く燃えている瞳で、俺とノーマの顔をまとめて睨みつけている。
俺の額の汗にノーマが気づいた。
「…あの、イオリ様が本当に死んでしまいます」
「あ?ああ…」
女が俺の胸倉から手を放し、俺はそのまま床に座り込んだ。
「大丈夫ですか?イオリ様」
…いや、大丈夫じゃない…
「あの、お姉さんて?」
「ごほ、ああ、俺の姉の紗友里だ」
紗友里はノーマを睨みつけてから、
「おい、お前こっちに出てこい」
と、顎でノーマに命令した。
ノーマは最大限時間をかけてカウンターから店内へ移動してきて、俺の後ろにぺたんと座り込んだ。
まるで腰が抜けたようになっている。
竜が…
「ふん…」
紗友里はノーマに視線を向けると、その頭から足先までをゆっくりとねめつけた。
「いつの間にこんな従業員雇った?」
ノーマに制服を着せといてよかった。紗友里はノーマを店のバイトだと勘違いしてくれたようだ。話がややこしくならなくていい。
「この店のどこにそんな余裕がある。ああ?」
いまだ危機的状況には変わりないが…
「しかもオープン間近に、二週間も姿眩ませやがって!連絡もつきやしねぇ!お前いったい何してた?」
「いや、その、それが…」
「…あの…お姉さまにご事情は?」
ノーマが耳もとで聞いた来た。
「いや、伝えてない」
正確には伝えたくなかった、が正しい。
「なにボソボソいってるんだ?あ?」
「すみません」
「ノーマが謝る必要はないよ」
「…そうだな。謝るのはお前だイオリ。そもそも店の準備は進んでるのか?」
「あ、いやそれはちょっと事情があって…」
「ああ?のんびりしてたら承知しねえぞ!」
紗友里の瞳がさらに燃え上がり、その熱気が頬をピリピリと焼き付けてくる。
「そんなんで家賃は払えるのか?」
「あ…はい…あ、いや」
紗友里の話が、いよいよ本題に入った。
「家賃?」
ノーマが反応した。
「ああ、えーと、姉ちゃんはこのビルのオーナーで、まぁ、言わば店の大家なんだ」
「はぁ…」
ノーマはピンと来ていないのか、目をパチクリさせた。
そう、この姉、紗友里はこの建物だけでなくこの辺り一帯に何棟もの貸店舗、貸ビルを持つクドウ不動産(株)の社長である。実家がそうというのではなくて、この姉が一代で起業した会社だ。もっとも建築物の大半は離婚した資産家の元旦那から慰謝料として奪い取ったものなのだが…
「あんた、身内だからって私が大目に見るとでも思ってんのか?」
「まったくもって思ってない」
「そうなんですか?」
「そうなんだ」
大目どころか多めに請求されかねない。
「そういう姉だ」
「…あー」
ノーマはなんとなく察して納得してくれたようだ。
「で?払えんのか?あ?」
紗友里はまったく納得してないようだ。
俺は意を決した。
「事情があって…店は、オープン出来ない」
「ああ?」
「イオリ様、肩が震えています」
「だだだ、大丈夫だ」
「そりゃどんな事情だ?」
「それは…言えない」
正確には”言いたくない”
「ほう…」
お手本のような威圧的『ほう…』だった。
「話したくないんならそれでもいいが、家賃はきっちり払って貰うよ」
そうだろうな、そりゃそうだろう。
冷汗やら脂汗やらがさらに溢れ出してきた。開店準備の資金はほぼ使い果たしていた。今月分の家賃は支払い済だが、来月分は店をオープン出来ない今、正直目途が立ってない。
「あの、イオリ様、ちょっといいですか?」
ノーマが俺の袖を引いてきた。
「ちょっとすみません」
ノーマは今だ燃え立つゴーゴンに断って、俺を店の端に連れて行った。
「私、あまりよくわかってないんですが、つまりは、お金が必要ということですか?」
「まぁそうだな、つまりそういうことだ」
「それなら、なんとかなるかもしれません」
ノーマは少しズルそうな笑顔を浮かべていた。




