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ホテルの厨房はかなり広めで、設備もしっかりと整っていた。
先にアルページュが準備を進めているはずだが…
厨房の一角にここのスタッフ達が集まっていた。
その輪の中心に、アルページュがいた。
まな板に向かって、フィレナイフを構えている。
「でねぇ、ここに刃をこの角度で入れて、少し押さえ込む感じでこうしてこうするとお」
「おお〜!」
歓声と同時に振り上げたアルページュの左手には、綺麗に捌かれた魚のフィレがぶら下がっている。
「へえ、見かけによらず腕がいいのね」
隣でリドが感心したように言った。
確かにその切り口は見事の一言だ。
細包丁のアルページュ、その異名は伊達ではない。
「あらイオリ、お帰りなさい」
俺に気づいたアルページュは、隣に立っている体格の良い中年コックの肩にしゃなりと腕を回した。
「こちらの料理長が、親切にも厨房を半分開けて下さったわ」
いや、そんなに?
「ど、どうぞご自由にお使いくださいませ…」
料理長は顔を真っ赤にして視線を泳がせている。
いや、何かあった?
「へえ、見かけ通りの手だれね」
リドさん、それは感心している言葉じゃないな。
小悪魔のアルページュ、その異名も伊達ではない。
「ポレイリは手に入ったの?」
「ああ、この通り」
俺が台上に置いた例の玉を見て「おお、これは見事な」とこぼしたのは料理長の方だった。
アルページュ当人は、肉などには目もくれず、リドの後ろにいるノーマを凝視していた。
正確には、抱っこしているポレイリを。
「ノーマ。その子、どうしたの?」
その質問に、ノーマが絵に描いたようなドヤ顔を浮かべた。
「私が保護してるの。ねーポーちゃん」
いつの間に名前が…
その返事に、アルページュが絵に描いたようなデレ顔を浮かべた。
「…貸して」
差し出した両手から逃げるように、ノーマが身体を捻った。
「駄目」
「貸、し、て!」
「だ、か、ら、駄目!」
「…ブ、ブヒ」
その攻防戦を尻目に、リドはさっさと開いた作業台の上に道具を広げ始めた。
「ここを使わせもらうわね」
「あ、どうぞ。あなたはパティシエですか?」
料理長は道具を見て気付いたようだ」
「そう。リドよ!よろしく」
それを聞いて、料理長だけでなく、他のスタッフまでもが色めき立った。
「リドってあの!」
「ほんとに?後でサイン貰おう」
「まさかお仕事が見れるの?」
「うちの厨房を使って頂けるなんて光栄です!」
料理長がリドの両手を掴んで上下に振った。
「リドってそんな有名人だったのか?」
「何をおっしゃってるんですか!パティシエ世界大会初代チャンピオンのリドさんといえば、知らない料理人など居ませんよ!あなた、さてはモグリですな」
ええまあ、正確には異世界から潜ってきましたが。
「いや、たまたまだよ。たまたま」
「へえ、あなたがあの薔薇細工のリド、だったの?」
いつの間にかアルページュが隣に立っていた。
手ぶらだ。攻防戦には負けたらしい。
「細包丁のアルページュ、よね。お噂はかねがね」
「あら、光栄だわあ」
二人の視線が交差して、その線上に稲妻が走った。
新たな攻防戦が勃発したようだ。
「イオリ様だってすごい料理人なのに」
いつの間にかノーマが(アルページュとは反対側の)隣に立っていた。
その胸にしっかりとポーちゃんを確保したまま。
「イオリ様もなんか異名考えますか?例えば…二度揚げのイオリ!とか」
うん、ノーマ。君にはそういう才覚はないみたいだな。
「いらないよ。料理は名前で作るもんじゃないからな」
「そうね」
「イオリの言う通り」
細包丁と薔薇細工も同意してくれた。
厨房にエルブジが入ってきた。
「ただいまブドウが届きました」
よし、料理開始だ。




