淡路に進軍する
永禄七年(1564)11月30日
さて少し前、由岐を発った安芸・長宗我部勢は、新野、桑野、牛岐、夷山(小松島市)、渋野、一宮(いずれも徳島市)などを降伏させながら北上し、11月22日に勝瑞城の南、国府に陣を敷いた。
そして、26日に東側から砲撃を開始するとともに、西の第二軍は中富川を渡り始める。
史実では増水期で長宗我部軍はかなり苦戦したそうだが、今は冬。
しかも城内は混乱の極みで、迎撃に出る兵より北に逃げる兵の方が多い始末。
結局、この日まで一部の兵が交戦したものの降伏し、城内にいた三好長治は捉えられた。
なお、同じく城内に詰めていた篠原長房は戦死したとのこと。
城を接収はしたものの、損壊が激しいため、史実通り南東に徳島城を築城することにした。
そして、讃岐と伊予の兵は防衛のため領地に帰すことにして、残る第二軍と第三軍約一万五千で淡路を責めることにした。
そこで、兼定は志知城(南あわじ市)に使いを送り、傘下に入ることと、兵の輸送を命じるとともに、撫養城に進出した。
その上で御荘、津島の水軍を鳴門に呼び寄せるとともに、鳴門海峡を挟んだ孫崎に砲台を設置して、威嚇発砲を行うと、12月8日に、恭順の意を示してきた。
12月16日に、まず安芸勢から淡路に渡り始め、20日までに約八千の兵が渡ったところで洲本に向けて前進を開始。
最早歯向かう城主は無く19日には最北端の松帆に到り、松帆の浦という場所に砲台用地を確保した。
これで、淡路を統一し、五カ国の太守となった訳である。
ちなみに、淡路にいた安宅信康は一足はやく畿内に脱出していた。
戦後処理として、洲本城に一圓但馬守、撫養城に入江左近、勝賀城に中脇伊賀守、白地城に河淵佐渡守をそれぞれ置いて、帰国の途につく。
『それにしても、僅か四ヶ月で四国を平らげてしもうたのう。』
『なかなか順調だったな。』
秀吉は一月だったけど・・・
『まあ、三好も混乱しているし、畿内からの援軍も無かったからな。あれだけ投降が相次ぐと戦にはなるまい。』
『籠城も大筒があると難しいからのう。悪霊があれほど南蛮と交易したがった理由がやっと分かったぞよ。』
『その先見の明は、全て少将によることになってしまっているがな。』
『もう、神懸かりどころか神そのものよのう。』
『そのくらいにしとけよ。』
『分かっておる。ちょっとだけ戯れ言を言ったまでのことじゃ。』
『さて、これからどうするかのう。』
『帰ったら忙しいぞ。論功行賞も、三好の報復に備えての防衛も、京の本家への言い訳も。』
『おお、そう言えば、ご本家は無事かのう?』
『さあな。万千代がいるからな。』
『それは本家を守ってもらえるよう、朝廷と幕府に口添えが必要じゃのう。』
『それはとっくの昔に総領殿が動いているだろう。』
『しかし、これで戦は終わりかのう。播磨や備前なら何とかなるのではおじゃらぬか?』
『それより先に、四国全てを平らげて、西の端の中村に本拠を置き続けるのが良いのか、ということもある。』
『住むなら中村が良いぞよ・・・』
『しかし、中村はどこからも遠い。せめて松山あたりにしろ。』
『それは、せめてとは言わぬぞよ・・・遠いぞよ。』
『まあ、そういった諸々のことを今後、考えていく必要がある。もし、機会があれば海を渡って戦もあり得るが、それより先に、讃岐や阿波の国人衆を意のままに動かせないといかんな。』
『皆、好き勝手じゃからのう。』
『寝返らない家臣団こそ、強い軍の第一歩だ。それと、阿波の祖谷郷から白地までを土佐に編入しろ。』
『最早、四国の半分が土佐になったのう。しかし、あそこは山しかないぞ。』
『まず、白地はどの国からも要衝だ。そして、高い山は自然の城壁だ。別にここで儲けようなどとは考えていない。』
『分かったぞよ。それはすぐにできるな。』
『あと、論功行賞の案は既に考えてある。中村に帰ったら教えるから、その案で宗珊に諮るのだ。』
『よろしく頼むぞ。』
『少しも考えないんだな。』
『麿はお休みじゃ。あ~あ、よく働いたでおじゃる。』
そんなこんなで、明くる1月8日、中村に帰還する。




